八 若き美貌の作家はすでに失われ
瀟洒な洋館の背後にそびえるは幽玄の霊山。
鼓膜が痛くなるほどの静謐、すでに寝静まったのか、誰の声も聴こえない。両開きの窓はどこまでも黒く、風でかすかに揺れているのに音はない。
息を潜め、鞄を探る。
編集長に渡された『新世界』の冊子以外で、虎丸が大阪から持ってきた本は一冊だけだ。
早熟の才能を申し分なく発揮し、二作の長編といくつかの短編、そして未完の一作を遺して綺羅星のように消えた幻想文学作家──。
敬愛する作家は誰かと問われれば、虎丸が真っ先に名を挙げる人物である。
夭折の天才と称されたその男の名は、伊志川化鳥。
彼の作風と同じように、その美貌と生き様も劇薬のように鮮烈だったことで知られている。
生前囁かれていた噂によると気性は大層烈しく、高慢で、若さと才能ゆえ文学に傾倒して破滅の道を突き進んだという。明治末期の文壇を狂風の如く翻弄し、絶頂を迎えたさなかで自ら命を絶った。
今の虎丸と同じ歳、まだ十九の若さだった。
大阪から持ってきた伊志川化鳥の長編。幾度となく読んだが、タカオ邸に来てからは日常が慌ただしく、読むべき本も大量にあったのでページをめくるのは久しぶりだった。
そして、じっくり読んでみようと、銀座から帰ってくる途中で八雲から借りていた『白鬼子』の原稿用紙。
ふたつの小説を並べ、交互に読み比べた。
本に没頭すること、半刻。
虎丸は上半身を起こし、挙動不審にきょろきょろと周りを見た。
何かを確認しているわけではなく、動揺しているだけだ。とりあえず水差しにあった水を飲んで、大きなため息をついた。
「はあ~、オレはほんまにアホや。昨日に引き続き二度目の、なんで気づかへんかったんやろ案件。こんなんで一人前の編集者になれんのかいな。めっちゃ反省しよぉ」
頭を抱えて左右に振りながら、虎丸はぼやく。
「影響受けたんかなぁくらいに思って確認してみたけど……。思い返せば謎の幻想文学作家の正体は、有名作家の別名義ちゃうかって疑惑は最初っからあったやん」
八雲の小説に既視感はなかった。『狂人ダイアリイ』は主人公ごとにすべて文体が違う。まして狂人を題材にした壮絶な語り口では、作家が持つ固有の文章は見えてこなかった。
だが、言葉の選び方、句読点の癖、文章の流れるリズム。いつ噴き出してもおかしくない激しい憎悪と、根底に沈んだ寂寥。
すべてが一致するわけではないが、八雲という男の才能に完全に惹きこまれた今ならわかる。
幻想的で怪奇的で烈しい、伊志川化鳥の独特のセンテンス。
まるですべてが虚構のような一文。彼が『白だ』と書けばそれは同時に『黒だ』という意味を持つ。表側と裏側が一つとなった文体。
黒鬼女との闘いの際、八雲が『慈愛』と『憎悪』の言葉を使う姿を見たときに、急激に頭の中で繋がったのだ。
──入水自殺したと伝えられたはずの伊志川化鳥、そして八来町八雲。
「オレがずっと好きやった作家と、最近好きになった作家。……このふたり、同一人物やないか」
***
あくる朝の、食堂。
八雲は昨晩庭で倒れたはずだが、まるで何事もなかったかのように向かいの椅子でタヌキに餌を与えている。
「あの、八雲さん。昨日、大丈夫でした?」
「なにがです?」
普段と同じ調子で、首をかしげて聞き返してきた。隣でハムエッグを頬張っていた紅がぎくっと体を震わせ、八雲からは見えないテーブルの下で必死にペケマークを作っている。
本人には言うな、ということらしい。
つまり八雲自身は自覚がないのか、自分がああなることを知らないのだ。
長く一緒に過ごしている仲間たちが本人に隠すと判断しているのなら、新参の虎丸が勝手なことを言えるはずもない。とりあえず適当な話題でごまかした。
「あっ、あー、風呂の湯加減だいじょぶでした?」
「そうですね、私好みとしてはもっと熱いほうが」
「焚きたてでしたよね。普通はちょうどいい温度になるまで置かなあかんのに、お爺ちゃんですかぁ」
いつものことだが、どこまでもマイペースな男である。
だが、八来町八雲は伝説の天才・伊志川化鳥と絶対に同一人物だ。昨晩ふたりの作家の小説を読み比べてから、新米編集者の青年はそう確信していた。
──化鳥がひどい気性難やったってのは有名な話やけど……。
この人はちょっと変わっとるだけで、気が荒くもなければ高慢ちきでもないし、人物像がぜんぜん噛み合わへんねんなぁ。
顔立ちは噂どおり端正。でも、烈しいよりは涼しげやな。
ナイフで栗の皮を剥いている八雲は、女人と見まごう中性的な面差しだ。少し三白眼ぎみのため、華やかとは正反対の冷たい印象を受ける美貌である。
「アンナ・カレヱニナは栗が好物なのですよ。体力には自信がありませんが、こういった手作業は精神が落ち着くので好きなほうです」
「そうですか……あんまり上手ないですけど……」
隣の席にいる紅も、あぶなっかしい手つきをハラハラと見ている。あきらかに身のごっそり削がれた栗をぼうっと眺め、虎丸は考え事を続ける。
八雲は二十四だと言っていたので、五年前に十九で入水自殺した化鳥と年齢の計算も合うのだ。片方は本名だろうか、あるいはどちらも筆名かもしれない。
とにかく、当時新聞を騒がせた訃報は間違っていたのだ。
入水したが未遂に終わり生き延びたのか、あるいは入水そのものが誤った情報だったのか、憶測だけならいくらでもできる。
──思いきって聞いてみよか。でもなぁ……。
真実を知るには、本人に聞くのが一番手っ取り早い。しかし、問いただしても答えてはくれないだろうという気がする。これまで虎丸が何度か『伊志川化鳥』の名を挙げたにも関わらず、まったく触れてこなかったからだ。
かといって秘密裏に調べあげるようなこともしたくない。どちらの場合も、最悪信頼を失って距離を置かれる恐れがある。
「ぶちょー、今日は自室で執筆?」
「ええ。次巻の『狂人ダイアリイ』に、少し手をつけようかと。進むかはわかりませんが」
「あー……そっか。虎丸んとこのは?」
「虎丸君が大阪に帰るのは最長で十日後でしたか。草稿はできていますので、あとは清書が必要ですね」
紅と八雲がなにやら会話を交わしているが、思案中の虎丸の耳には入ってこない。
──オレもふっと気づいただけや。名前を変えなあかんかった事情があるなら深入りすんのもよくないか。五年前のことを今更騒ぐ必要もないよなぁ。苦労して取りつけた原稿の約束がなくなったら困るし~。
そう言い聞かせ、虎丸は呆けた顔のまま朝食のサンドウィッチを口に入れた。




