一 その小説は憎悪に満ちている
──時は大正四年。
「き、来たぁ、東京やー!!」
開業して一年と経たない東京駅は、まだ新築の匂いがする。駅舎の赤レンガの壁には白枠の窓が飾られ、まさしくモダンを象徴するかのような佇まいである。
和装、洋装、多くの人々が行き交う駅前では、関西弁の青年がひとりで叫んでいようと気に留める者などいない。
黒のコートに身を包んだこの青年がなぜ帝都に降り立ったのか、事情は一日前にさかのぼる。
***
「東京で刊行されとる『新世界』っちゅう同人雑誌に、おもしろそうな幻想怪奇文学作家がおるんや。新人、ちょいと会ってきてくれへんか?」
「かしこまりっすわぁ! 」
威勢よく返事をしたのは零細出版社の新人編集者、本郷虎丸。ここ大阪から東京まで、乗り換えも含めると丸一日かかる距離だ。
「これ、その作家の住所な」
と、肥満体の編集長に渡された紙を眺める。
「ふむふむ、って、めっちゃ曖昧やないですか。なんですのん、『東京の端にある山の麓』って」
「正確な住処がわからへんねん。欧羅巴から渡ってきたとも、はたまた有名な作家の別名義だとも噂されとる謎の人物や。この同人雑誌を印刷しとる活版所はちゃんと存在するさかい、この辺から聞き込みしてあたってみてくれへんか。三週間やるわ」
「はぁ、まぁ、やってみますわぁ……」
虎丸は表紙に『新世界』と明朝体風の文字が印刷してある薄い冊子を受け取る。奥付に印字された聞いたこともない活版所の名前を見て、一気にやる気が削がれるのを感じた。
大阪の人間の性分でせっかちな青年は、自分に割り当てられたこの無計画な仕事がさほど重要なものではなさそうだと嗅ぎとったのだ。
しかし入社したばかりの新人、それも親のツテをたどって無理やりもぐり込んだ訳ありの新入社員に、断るなどという選択肢はなかったのである。
──なんや、初めて単独の業務を任されたと思ったら、当たったらええなぁくらいの博打みたいな話やないか。
早く有名な作家を担当し、敏腕編集者として名を馳せたい。そうはりきっていた虎丸には、この雲をつかむような話がひどくやりがいのない仕事のように思えた。
虎丸の心中を察したのか、編集長がフォローを出す。
「無名やけどな、この作家の天賦の才は読めばわかる。未発表か書き下ろしの原稿取ってきたら、おまえさんを正式な編集部に格上げしたるわ」
「ほんまですか!? って、オレ、正式やなかったんですか!?」
「阿呆。まだ基本の流れを教えたばかりの見習いや。編集を名乗るにはピヨピヨすぎるわ。今まで刊行されたぶん渡しとくから、汽車の中で全部読め」
二十冊ほどの『新世界』と、封に入った旅費をどさどさっと渡され、虎丸は呆然と立ちつくした。
助けを求めるように、周囲を見渡す。本や雑誌の束が積まれ放題の雑然とした小さな社内では、十人に満たない編集者たちが働いている。
皆、それぞれの仕事を抱えて、文書の添削をしたり、担当している作家の原稿を確認したりと慌ただしく動き回っている。
──急がば回れ……っちゅう言葉はオレの辞書にはあらへんけど、とりあえず今はこの仕事を片付けるしかなさそうやな。まずは一人前の編集者って認められるところから!
そう割り切ることにした虎丸は、身支度のため歩いて五分ほどの場所にある独身寮に戻った。
炭火アイロンをあてた立ち衿シャツにベストと細身のズボン、上からインバネスコートを羽織る。頭には中折帽、足元は革靴。流行りもの好きの虎丸が気に入って着こなしている、オシャレで粋な西洋風の会社員スタイルである。
手箱型のバッグに着替えと二十冊の『新世界』、そして敬愛している作家の本を一冊詰めた。
東京行きの汽車が出ているのは神戸からだ。一日がかりの長距離旅である。
派手な装いのうえ、生まれつき明るめの髪色をした虎丸はどこにいても目立つ。多くの人々が行き交う神戸駅では不躾な視線を投げられたが、もはや慣れていて気にすることはなかった。
重たげな車輪が回り始め、蒸気機関車が音を立てて出発した。東京までおよそ十四時間。現在夜の十一時で、到着するのは翌日正午過ぎの予定だ。
全部読めとは言われたけれど、小冊子とはいえ二十冊だ。眠くなったら寝てしまおう。そう考えて、ごく気軽に『新世界』の第一巻を手に取った──はずだった。
「なんやねん……この小説……」
虎丸は親の影響もあって幼少時から文学少年で、小説を読むのは好きなのだ。一度は自分で書いてみたいとさえ思っていた。
しかし根が商人気質で金や実益を好むところがあり、芸術家には向いていないと気づいた。ならば自分の手で大作家をたくさん育てて、ついでに大儲けしてやろうと編集者の道を志したのだ。夢はいずれ自分の出版社を立ち上げることである。
『新世界』という同人雑誌は、五人の無名作家によって作られた小冊子だった。
今回、編集長に「会ってこい」と指定されたのは八来町八雲という名の幻想怪奇文学作家。
聞いたこともないが、その作家は『狂人ダイアリイ』と題名のついた小説を連載していた。
数回深呼吸をしてから二巻目を手に取る。他はすべて飛ばし、常に一番後ろに掲載されている同小説を貪るように読む。
二十巻すべての『狂人ダイアリイ』を読み終えたとき、虎丸は自分を取り巻く世界の一部が決定的に変化したのを感じた。
変化、というのだろうか。それよりは何か異質なものが混じり始めた、というのに近いかもしれない。
──なんや、この感覚は。泣きたいような、叫びたいような、発狂したいような気分になる。
生来が明るい気性で、物事を深く追求しない性格の虎丸にとって、初めての感情だった。
これはおそらく、憎悪だ。
この『狂人ダイアリイ』は、憎悪に満ちている。
ストーリーはあってないようなものだ。或る狂人が書いた日記という形態で、一巻ごとに二十日分続いている。計算されてはいるが基本的に文章は支離滅裂で、本物の狂人さながらにそこに意味や意図などは持たせていない。
ただひとつ、すべての話に共通する、憎悪という感情を除いては。
読んでいると、物語の持つ憎悪に飲み込まれるような感覚に陥る。
何かを憎んでも、憎んでも、憎み足りない。
主人公は狂人であるが故に憎んでいるというよりは、心が憎悪に支配されてしまい、狂ってしまった人間だ。
怖ろしいのは、彼の憎悪に目を離せなくなるのだ。どうしようもなく惹き込まれ、狂気の正体を覗かずにはいられない。これを『怪奇文学』などという一言で片づけてしまってもよいものだろうか。
二十巻すべてを読み終わったあと、虎丸は裏表紙に活版所の住所と並んで記載されている刊行日を確認した。日付は六日前で、まだ一週間と経っていない。高価な特急便を使わないと大阪には届かない速さだ。さほど重要そうな口ぶりではなかったが、編集長はよほど急いでこの冊子を手に入れたに違いない。
「こいつは確かにうちで書いてほしい。編集長の言うとることもわかる。せやけど、なんやろなぁ。世に出すのが危うい小説のような気ぃもするわ……」
文字そのものが悲鳴をあげているような、壮絶な文体。
問題は、決定的に読後感が悪いのだ。読んだ自分自身まで憎悪という感情の渦中へ堕ちていくようで、しばらく立ち直れないほどに後味の悪い小説だ。
気分に反して、心地のよい汽車の振動が体を揺さぶる。
疲れのたまった虎丸は、残り四人いる作家の小説を読む前に眠りに落ちた。




