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第76話  利用者主体で、当たり前の生活ができる場所に変えて行こう

 戻ってみると、時刻は1時を少し回っていた。かれこれ3時間くらいはドラクエ世界に行っていたことになる。


 杉浦さんや井上さんは大丈夫だろうか?もちろん、そのことも心配なんだけれど、まずはここにいるみんなをどうにかしなくてはいけない。わたしがどうしようかと思案してたら、旦那さんの声が聞こえて来た。


「杉浦さんや井上さんは大丈夫やと思うけど、とりあえずワイが見て来るわいな。あっ」


 それは助かるね、とりあえず願いするよ。わたしは、ここにいる人たちをトイレに連れて行ってから、部屋に連れて行くことにしましょう。


 ――と言ってたものの、これが一筋縄では行きそうもない。みんな、なんかやたらとテンションが高いのだ。ベッドに座った松永さんは「あ~あ~堂々と!♪ひこうせ~ん~!♪」っていつもの唄を大きな声で唄ってるし、その横に座っている山根さんは「あ!よいしょ!」とか合いの手を入れながら手を叩いているし、緒方さんと黒山さんは手をつないで踊っちゃってるし、もうしっちゃかめっちゃかだ――。


 さてそんな中、山中さんはと言えば、部屋の端っこに立って、緒方さんと黒山さんを見ながら笑顔で手を叩いている。今こうして見ただけではわからないけれど、山中さんは本当の自分を取り戻して、認識能力や記憶は蘇っているのだろうか?


 ――でも今は、山中さんのことはひとまず置いとくことにしよう。ともかく、みんなを部屋に誘導しなくちゃいけない。まずは緒方さんから。ゆっくり踊っているステップの足取りがすでに怪しいからね、こけちゃう前に部屋に連れて行くことにしましょう。わたしは、緒方さんに声をかけた。


「緒方さん!トイレに行ってから部屋に戻りましょうか!?」


「いや、ええわ。ワシ、踊っとくから」


 緒方さんが言った。え?なに言ってんの?なにがワシ踊っとくからよ、もう夜中の1時だし、危ないからダメだよ。


「そんなこと言ってたら、次の宴会はなしにするように山中さんの旦那さんにお願いしますよ!」


 すると緒方さんは、焦ったように言った。


「アカンアカン、それは困るがな。部屋に戻るがな」 


 アンタ、どれだけ宴会に行きたいのよ――。


 緒方さんを部屋に連れて行ってから、黒山さん、松永さん、山根さんも順番になんとか部屋に戻ってもらうことができた。旦那さんの報告によると、杉浦さん井上さん原さん五十嵐さんも、何事もなく寝ていたようだ。やれやれ――。


 さぁ、それではいよいよ山中さんの順番だ。わたしは、山中さんに声をかけた。


「山中さん、トイレに行きましょか」


「うん。行こか」


 笑顔で山中が言った。非常に穏やかな笑顔だったんだけれど、いつもドラクエ世界から戻って来た時はそんな感じだからね、自分を取り戻してからどう変化したのかはまだわからない。


 わたしたちは部屋を出て、トイレに向かう。すると、山中さんがわたしを見て言った。


「中道さん、助けてくれてありがとうな」


 わたしはハッとした。なぜなら、ゼメシナール入所当初の山中さんがわたしの名前を呼ぶことはあったんだけれど、最近はまったくなかったからだ。見れば山中さんは目に涙を一杯に溜めて、今までみたことのないようなスッキリした笑顔を浮かべている。その涙の笑顔を見てわたしは確信した。山中さん、本当の自分を取り戻せたんだね!


「山中さん、よかったですね」


 わたしも思わず涙を流し、山中さんの両手を握りしめた。


「これからもよろしく頼むわな」


「はい。もちろんです」


 わたしたちは、しばらくの間2人で両手を握りしめていた――。


 ――あれから1ヶ月が過ぎた。


 本当の自分を取り戻せたと、確信した山中さんではあったんだけれど、認識能力や記憶のすべてを取り戻せたかと言うと、それがそうでもなかった。ゼメシナールに入所した当時にもぜんぜん及んでいないと思う。


 しかし、わたしのことが認識できたように、いい兆候もある。ゼメシナールを淡路島の自転車屋と思っている(それはここに来た当初からそうであった)のは相変わらずなんだけれど、緒方さんとか松永さんとか黒山さんとか山根さん、つまりドラクエ仲間が誰だかはわかるようになっていた。


 それになにより、不機嫌である時が激減した、主任の顔を見ると頭をバシバシ叩きに行くというヘンなクセは発生しているものの、笑顔であることが圧倒的に増えた。旦那さんによると、認識能力や記憶を取り戻していくには、これからのわたしたちの対応が大事であるらしい。当たり前に自分らしく生活していく中で、困難を乗り越えてなにかを達成し、人と関わり、役割を持つことが大切らしい。


 というわけでわたしは、9月3日に行われた会議で早速、午後に、利用者を買い物に連れて行くことを提案し、それと同時に、最近おざなりになっていた昼ご飯を手伝ってもらうことも提案してみた。もちろん、余計な仕事を増やしたくない山田さんや達郎や段田さんや清家さんからは反発を受けたんだけれど、なまくらな連中の思いどおりにはさせなかった。なんせこっちには主任がついてるからね、主任を盾にしてビシバシ言ってやった。


 え?なんで主任がついているのかって?


 フッフッフッ――それは、主任の本性を旦那さんが、ドラクエ世界でガッチリ押さえてスパルタ教育してるからだよ。


 実際わたしは、あれから2度ドラクエ世界に行って、そのスパルタ振りを見たんだけれど、これがなかなかに強烈だった。なんか知らないけれど、ヨットハーバーを作っていた旦那さんは、夕暮れの浜辺で、子供の主任を走らせたり、筋トレさせたり、なかなかのハードトレーニングをさせていた。なんでも健全な体にこそ健全な精神は宿るということで、体も心も頭も使わないと腐って使い物にならなくなるから、すべてガンガンに活動させるんだってことらしい。もちろん運動だけではなく、哲学や倫理や仏教などいろんなことを叩きこんでいて、一番大事な主任としてどういう仕事をするべきかということも、毎日徹底して教育しているということだった。


 主任には、これまでの罪滅ぼしもこめて、利用者が自分らしく当たり前の生活を実現するためにバリバリ働いてもらいたいものだ。まぁ、それを拒否した場合、旦那さんによる厳しい教育的指導が待ち受けているからね、主任は主任らしくまっとうに働く他しょうがないんだけどさ――。


 ところで、その主任はと言えば、旦那さんが言ってたように、別人かと見まがうくらいに弱々しくなっていた。いつも人の顔色をうかがっているような自信なさげな感じで、氷りつくような暗黒のオーラも発していないし、地獄の声も出さなくなっていた。そんな主任の姿は、はっきり言ってどっからどう見てもただの腰抜けで、知らない人が見れば、こんなヘナチョコの言うことなんか聞く?って感じだったんだけれど、なんせ今までの地獄からの使者だった実績があるからね。みんなそのバックボーンを見ているからなのか、今のところ誰も逆らう様子はない。


 それに、わたしが会議で提案した「買い物に連れて行く」とか「食事作りを手伝ってもらう」とかには、利用者が自分らしく当たり前の生活をしていくためだっていうちゃんした根拠があるし、なまくら職員たちにその根拠をことあるごとに言っているし、みんなも納得せざるをえないのだろう。


 というわけで、みんなで頑張って、これからゼメシナールを利用者主体で、当たり前の生活ができる場所に変えて行こうと思っている。


 他、変わったことと言えば、8月25日にみっちゃんがゼメシナールにやって来たことだね。わたしは初めてみっちゃんに会って、自分が間違えられているみっちゃんはこの人だったんだ~って思って、めちゃんこ嬉しかった(みっちゃんは、わたしには全然似ておらず、山中さんをかなりふくよかにした感じだったけどね)。わたしとみっちゃんと山中さんは、スキーやキャンプに行ったことや、阪神タイガースのことや、裏の畑のことで大いに盛り上がった。そしてみっちゃんは、お盆でお墓まいりに行くとかで、山中さんと一緒に1泊2日で淡路島に帰って行った。


 実は他にもまだ変わったことがあって、それはフロアのテレビの下にゲーム機のWiiとドラゴンクエストがやって来たってことだ。それは主任のWiiなんだけれど、ドラクエⅢが好きな山中さんのために、山中さんが夜寝れない時とか、夜開いた時間とかに山中さんとプレイすることになったのだ。


 わたしも、山中さんと一緒にプレイすることがあるんだけれど、なんのことだかさっぱりわからないので、わたしは山中さんがやっているのをただ見ているだけだ。山中さんはと言えば、熱中しながらドラクエⅢをやっていて、えらいもんで、やり方がわからないなんてことはなかった。さすが、旦那さんにはドラクエⅢさせずにずっとやっていただけのことはあるよ――。


 その後ろでは「ウイー・アー・ザ・ワールド」が流れている。これはわたしがレンタルで借りて来てipod touchに入れたのを、ラジカセにつないで流してるんだけれど、「ウイー・アー・ザ・ワールド」を口ずさみながら、ドラクエⅢをしている山中さんには,一体どんな風景が見えているのだろう?


 この夜の向こうには、裏の畑やそこから見える淡路島の街並みや海が広がっているのだろうか――。

 


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