第72話 ひとつだけ記憶を返す
山中さんに起きた変化とはなにか?それは、山中さんの表情に現れていたんだけれど、今までの穏やかな表情とは打って変わって、急に眉間にシワを寄せた厳しい表情になっていたのだ!お姫様の山中さんは、ひとつだけ記憶を返すと言ってたけれど、一体どんな記憶を返したって言うの!?
厳しい表情のまま黙って立ち上がる山中さん。旦那さんも立ち上がり、心配そうに山中さんに聞いた。
「澄子?どないしたんや?」
「どないしたもこないしたもないでアンタ。すぐに松井とか言うダボをぶちのめしに行くで」
険しい表情のまま言う山中さん。
「そりゃもちろん、そのためにここに来とるんやけどやな――」
戸惑いを隠せない旦那さん。
「行くで!」
山中さんは、スタスタと足早に歩き始めて行ってしまった。ホント、どうしちゃったの?
山中さんは、先頭に立って無言で足早に歩き、次から次へと1階の部屋を巡って行った。寝室、リビング、台所、トイレ、風呂、勢いよくドアを開けては「コラ~!松井のダボ~!どこにおんねん~!」といった感じで大きな声を出して、部屋を見渡すとすぐに出て行った。
「どないしたんでっか?おたくの奥さん?急に荒々しくなってまっけど?」
小走りに山中さんについて行きながら、緒方さんが旦那さんに小声で聞いた。
「それが、ワイにもさっぱりわかりませんのや――お~い、ミレーユ」
旦那さんが手招きしてわたしを呼んだので、わたしは旦那さんの傍に行った。
「はい、なんでしょう?」
「ミレーユ、澄子に一体なにがあったんや?」
わたしに顔を寄せ、小声で聞く旦那さん。
「それが、わたしにもよくわからないんですよ。お姫様の山中さんは、山中さんにひとつだけ記憶を返すとか言ってましたけど――」
「ひとつだけ記憶を返す?」
「はい、そう言ってました」
「ちゅうことはアレか、あの様子から見て、松井に虐待されとる記憶を返したんかもしれんな――」
「そうですね――めっちゃ怒って、主任を探してますもんね」
それから旦那さんが、山中さんの元に走って行って聞いた。
「澄子?もしかして、松井に虐待されとることを思い出したんか?」
「そうや!あの一緒に風呂に入っとったおっさんに、腕をねじり上げたり、ベッドに投げ飛ばされたり、頭を叩かれたりしとったんや!」
山中さんは怒って言うと、凄い速さで階段を登って行った。2階に上がった山中さんは、3つあったうちのドア2つを「どこや~!松井~!出て来~い!」とか言いながら乱暴に開けて入って行き、主任がいないと見るとすぐに出て行った。もはや誰にも止められない、わたしはもう、山中さんについて行くだけで必死だよ。ふぅ――。
でも、そんなこんなで気づいてみれば、残すは2階の1番奥の部屋ひとつだけとなっていた。果たして主任は、そこにいるのだろうか?しかし、そんなことを考える間なんてなしに、勢いの止まらない山中さんは、最後に残ったそのドアまで突進して行っている。そして、最後の部屋のドアを「コラ~!松井~!」と言いながら勢いよく開けて入っていったんだけれど、その時、思いも寄らない事態が発生してしまったん!
「うわっ!」
なんと、部屋の中に入った山中さんが、はじき飛ばされるように後ろ向きで出て来てしまい、しまいめには尻もちをついてしまったのだ!え!?大丈夫なの!?
「どないしたんや?澄子?」
山中さんにかけ寄り、心配そうに聞く旦那さん。
「大丈夫や・・・大丈夫やけど、なんやこの部屋、物凄い圧力やで」
両手をついて座りながら、ビックリした表情で言う山中さん。
「そんなにか?」
「そんなにや。ここでも結構な圧迫感やけど、あの部屋ん中はこんなもんとちゃうで」
「そうか。ちゅうことはつまり、この部屋ん中に松井がおる可能性が高いな――よし」
旦那さんは、ひとつ大きくうなづいた後、山中さんを助けるようにして一緒に立ち上がってから、みんなの方を見て言った。
「みなさん!ついに目的である松井の部屋につきました!」
やっぱりこの部屋がそうなんだね!ついに来たんだね!
「そうか、この部屋におりまんねんな!」
緒方さんが部屋を指差しながら言った。ドアは半開きになっており、暗くて中の様子はわからない。
「はい。おそらく松井はこの部屋の中にいると思います。ですので、部屋の中に入ったら塔の1階で言うたように『色即是空』と唱えてもらっていいですか?」
「そう言えばそんなこと言うとったな――で、どんな意味やったっけ?」
緒方さんが旦那さんに聞いた。あれま緒方さん、忘れちゃったの?
「あらゆる物は、たまたま因縁がそろった結果あるだけで、常に変化を続けとる実体のない存在やっちゅう意味です」
旦那さんはもう1度色即是空の意味を説明した。すると、思い出したかのように緒方さんが言った。
「ああ、そうやそうや、なんかそんなんやったわ。さっき飲んどった酒がションベンになって、しまいめには雲になるとかそんな話しやったな?」
「そうですそうです。とにかくありとあらゆる物は、常に変化を続けとるっちゅうことですわ」
「了解、まかしといてえな。色即是空でっしゃろ。しっかり唱えまっからな」
緒方さんはそう言って、右の拳で自分の胸を叩いた。
「お願いします。しかしこの部屋なんですけど、今澄子がはじき返されたように、凄い圧力みたいなんです」
旦那さんが、半分ドアの開いた部屋を見つつ言った。
「確かにはじき飛ばされとったな。ほんで、どないしまんの?」
緒方さんが旦那さんに聞いた。
「そうですね。まずは部屋の外から色即是空と唱えてみて、様子を見るつもりです。それでホンマに松井がこの部屋におるんやったら、部屋から出て来てくれるかもしれませんからね」
「そうか――でもその前にでんな、その松井の奴に、嘘の絵を飾りやがってって、抗議させてもらってええでっしゃっろか?」
緒方さんが言った。よっぽどあの絵が気に入らないようだね。
「はい。お願いします」
旦那さんが言うと、緒方さんに引き続いて、山中さんが厳しい表情を浮かべながら言った。
「アンタ、私にも言わせてもらってええかな?私がすぐ忘れてしまうことをええことに、あのダボに腕をねじり上げたり投げ飛ばしたり好き放題されて、私、悔しくてしょうがないねや」
「よし、言うたれ!」
旦那さんは眼光鋭く輝かせ、力強く言った。
緒方さんと山中さんの2人が、部屋の前まで行ってドアを完全に開けた。部屋の中は暗く中の様子はわからない。緒方さんが部屋に向かって大声で言った。
「コラ~!!ワシは緒方じゃ~!!お前なんか嫌いやのに、ワシがあんな笑顔でお前と一緒に風呂なんか入るわけないやろがボケ!!よう嘘ばっかりの絵をあんなに並べられたな!!恥ずかしないんか!!この嘘つきが!!」
緒方さんはそう言った後、ハーハーと大きく息をしている。よっぽど全力で声を出したみたいだね。それからみんなは、しばらくなにか反応がないかと待ってみたんだけれど、部屋の中からはなんの返答もない。辺り一体は、シーンと静まり返っている――。
「よし、次は私や」
気合いの入った表情の山中さんが、静寂を突き破るようにそう宣言し、1歩ドア側に踏み出した。山中さんは目をつむって上を見て、大きく息を吸い込んでいる。わたしはゴクリと息を呑み、山中さんを見守る。
「おいダボの松井聞いとるか!!お前に虐待を受けとる山中澄子や!!よくも私が記憶できひんことにつけこんで、いろいろと暴力をふるってくれたな!!もうこれ以上、お前の好きなようにはさせんからな!!覚悟しいや!!」
山中さんは一気に言ってから、緒方さんと同様にハーハーと大きく息をしている。ついに言ってやったね、わたしは胸に熱くこみ上げる物を感じた。しかしまだ主任を成敗したわけでも、黒い塔を破壊したわけでも、本当の山中さんを救い出せたわけでもない。わたしは緊張感を持って、ドアの向こうの暗闇を見つめる。みんなもこれからの行方を見守るようにドアの向こうを見つめている。
――すると、しばらくの静寂の後、ついに、部屋の中から主任の声が聞こえて来た!




