第64話 書
わたしは急いで階段を登ることにした。もちろん五蘊皆空と唱えながらだったんだけれど、急いでいるもんだから息が切れる。でも、なかなかみんなの姿は見えない。相当先に行っちゃってたみたいだね。
どれだけの時間が経っただろうか?ようやく、みんなの「五蘊皆空」と唱える声が聞こえて来た!よかった!わたしはハーハー言いながら、みんなに追いつくことができた。あ~しんど――。
「止まれ~!!!!」
やっとみんなに追いついて、安心したのも束の間、いきなり山根さんが大声を出して、みんなに止まるように言った。え!?一体どうしちゃったの!?
「山根さん!?どうかしたんですか!?」
先頭の旦那さんが、振り返って言った。
「どうかしたんですかって、私だけ年寄りなんやで!!!こんなんついて行けるわけないやろ!!!」
山根さんさんはそう訴えてから、ドスンと階段に座りこんでしまった。そりゃまぁそうだよね、なんせ1人だけずば抜けて年上の88歳なんだからね、ここまで登って来た方が不思議なくらいだよ。
「大丈夫ですか?」
わたしは目の前に座った山根さんに聞いた。
「大丈夫なわけないやろ!」
山根さんは、下を向いてゼーゼー言っている。すると旦那さんが山根さんの前にやって来て言った。
「すいません山根さん。ワイの配慮がなさすぎました」
旦那さんは深々と頭を下げた。
「なさすぎるわ!」
山根さんは一瞬上を見て言って、また下を見てしまった。
「とりあえず回復の呪文をかけます」
旦那さんは、山根さんに両の手のひらをかざした。
「あっ、ベホマ」
旦那さんが呪文を唱えると、山根さんがなにが起こったんだという感じでキョロキョロし始めた。
「アレ?どないしたんや?なんかしんどくなくなったで?」
「はい。回復の呪文をかけましたんで」
「やった~!しんどないしんどない!」
山根さんは両腕を交互に上げて喜んでいる。いいな~、わたしもみんなに追いつくのに疲れちゃったからさ、その呪文をかけて欲しいな~。わたしがそんなふうに思ってたら、旦那さんが振り返って言った。
「なんや、ミレーユ。お前さんもえらい息を切らしとんな?おばあちゃんなんか?」
違います!みんなを追いかけてたからです!
「なんで、みんなを追いかける必要があんねや?」
まぁ、それにはいろいろと事情があったんだけどね――。
「ん?事情?なんやそれ?まぁなんでもええわ」
そう言ってから旦那さんは、みんなの方に向き直って聞いた。
「みなさ~ん!疲れは大丈夫ですか~!?」
すると即座に、松永さんの声が聞こえて来た。
「僕、もう疲れたわ!だって、こないな長い階段登ったことないねんもん!」
「そうですか!わかりました!では回復の呪文をかけますんで!」
「お願いするわ!ところで暑なって来たから、この毛布はここに置いていってもええやろか!?」
松永さんが言った。それもそうだよね、わたしもまだ毛布をかぶってたんだけれど、随分暑くなってきたもんね。
「どうぞどうぞ!」
旦那さんは両腕を上げ、呪文の用意をしている。わたしは毛布を手すりに置いた。
「あっ、ベホマラー!」
旦那さんが呪文を唱えた。わたしの疲れが嘘のようになくなった!げ!こりゃすげえ!
「おお!凄い凄い!しんどなくなったわ!ありがとう山中さん!」
松永さんも驚いている。その感謝の声を皮切りにみんなのありがとうの声が聞こえて来た。
「どういたしまして!それでは、ワイは山根さんの状態を看ながら行くんで、緒方さん!先頭で行ってもらっても大丈夫ですか~!?」
「まかしといてえな!!」
前の方から緒方さんの声が聞こえて来た。
「お願いしま~す!それでは出発してくださ~い!」
「了解!!」
緒方さんが威勢よく返事すると、再び進行が始まった。今度は旦那さんの号令がなくても、どこかからか「ご~うんかいくう」と呪文を唱える声が聞こえて来て、最初は小さかったその声も、徐々にみんながそろってくるに従って大きな声になっていった。
「ご~うんかいくう~!ご~うんかいくう~!ご~うんかいくう~!ご~うんかいくう~!・・・・」
そうしてみんなで、勢いよく呪文を唱えて階段を登ってたんだけれど、少し進んだところで、わたしはある変化に気がついた。なんと、壁の絵が薄ボンヤリとして来ていたのだ!さっきまではみんなに追いつくのに必死で、壁の絵なんて見る余裕なんてなかったんだけれどさ、ちゃんと呪文が効いてたってわけだ!俄然やる気が沸いて来たよ!よ~し!わたしも、しっかり五蘊皆空の意味を踏まえて、呪文を唱えようじゃないの!
「ご~うんかいくう~!!ご~うんかいくう~!!ご~うんかいくう~!!ご~うんかいくう~!!・・・・」
わたしもはりきって呪文を唱え続ける。そうしてついに、絵が消えるのを目の当たりにした!すげえ!ひとつ消えたら、次から次へと絵が消えていっている!やったやった!すげえすげえ!
そのようにして順調に絵を消し、時に旦那さんが回復の呪文を唱えながら、階段を登り始めてからどれだけの時間がすぎただろう?階段はずっと壁に沿って上り続けていたんだけれど、一向に最上階に着く気配がない――。これっていつ着くのかな?もう随分と登ってきたはずなんだけどな――。
「心配せんでもそのうち着くわいな。お前さんは先のことなんか考えずに、今、目の前のことだけに集中するこっちゃ。そしたらいつの間にか目的地に到着しとるもんやで」
旦那さんが振り返ってわたしに言った。まぁ確かに、そういうもんかもしれないね――。
わたしは、今やるべきことである五蘊皆空の呪文を唱えながら階段を登った。そしたら壁にある変化が起きた。
なんと、今までは絵だったものが、今度は書に変わったのだ。大量の書が掛け軸みたいに壁一面にかかっている。なにこれ?一体どんなことが書いてあるんだろう?わたしは、試しにちょっと読んでみることにした。
「にんげんだもの。どうしたってうんことおしっこは出るんだなあ。そして俺は華麗に処理するんだなあ」
「物事には行うべき優先順位があるんだなあ。他のボンクラはそんなことなんにも考えてないけど俺はちゃんと考えてるんだなあ」
「洗濯物を俺は夜勤者に残したりしないんだなあ。なぜならちゃんと余計な仕事を増やしたりしないように考えて動いているからなんだなあ」
「ルーチンワークを完璧にしかも素早くこなす俺は仕事のできる賢い男なんだなあ」
「介護職だもの、バカとサボりばっかり」
「ともかく俺と一緒にトイレに行ってごらん。おしっこと一緒に笑顔が出るから」
なにこれ?こんなのが独特なよさげな字体で書かれてたんだけれど、なにこの気色の悪い言い回し?もしかして名言かなんかのつもり!?
「これは酷いな、相田みつをふうによさげに書いとるけど、醜いことこの上ないな」
旦那さんが壁にかけられた書を見て言った。そうか、これってアイダミツオって人のパクリなんだね――。まぁそれにしても、よくもまぁここまで自画自賛できるもんだね、ある意味尊敬するよ――。
「ともかく、こんな酷い書は、さっさと消し飛ばそうや」
旦那さんがわたしを見て言った。それもそうだね、こんなの見てられないもんね。わたしは、再び五蘊皆空の呪文を唱えることにした。
「ご~うんかいくう~、ご~うんかいくう~、ご~うんかいくう~、ご~うんかいくう~・・・・」
そのようにして、わたしはみんなと一緒に呪文を唱え、ふざけた書を消し飛ばしながら階段を登って行ったんだけれど、しばらくしてついに塔の天井が見えた!天井の端には、この階段が続く長四角の入り口が見える!もしかして、あの向こうが最上階なんじゃないの!?
「ミレーユもうすぐや!あの階段の向こうに松井おるはずや!」
旦那さんが振り向いて言った。やっぱりそうだったんだね!
「みなさ~ん!ちょっと止まってくださ~い!?」
旦那さんが立ち止まって言った。みんなは立ち止まり、後ろを振り返った。
「店長の奴、あの向こうにおるんでっか!?」
緒方さんが、天井の入り口を指差しながら言った。
「ええ。そうです!みなさん!店長のところまでもうすぐです!」
それからしばらく歩いて、ついにわたしたちは、天井の中に続く長四角の入り口の前にたどり着いた!




