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第63話 五蘊皆空2

 わたしたちは、山中さんの元に急いでかけ寄ってみると、山中さんは落ち着きなく、その場でランニングしながら絵を指差していた。


「アンタえらいことや!なんか、わたしのお母さんと知らんおっさんが、一緒に楽しそうに風呂に入っとる絵があんねん!」


 山中さんは慌てふためいた表情で一気にまくしたてた。その絵をよく見てみると、さっきの松永さんとか緒方さんと同様に、山中さんが主任と一緒にお風呂に入っている絵だった。でも、お母さんってなに?これって山中さん本人だよね?


「澄子、それはお前のお母さんやのうて、お前自身や」


 旦那さんが言った。


「え!?これ私!?嘘!」


 右手を口で抑え、驚いた表情を見せる山中さん。


「一番最初にこの世界に来た時にも説明したんやけどやな、ここは夢の世界みたいなもんで、現実世界のお前は今67歳で老人ホームに住んどって、それでそこで働いとるそのおっさんと一緒に風呂に入っとんねや」


「え?そうなん?それにしても私、えらい歳取ってもうてんなぁ」


 山中さんは絵に近づいて行き、絵の中の自分を凝視した。


「しょうがないわ、誰でも歳はとるもんやからな。そんなことより澄子、お前を虐待しとるんは、一緒に風呂に入っとるそのおっさんなんやで!」


「え!?私を虐待しとるんって、このおっさんやったんかいな!?」

 

「そうや、そいつこそがお前の尊厳を踏みにじり続けとる諸悪の根源なんやで」


 旦那さんが努めて冷静さを装うようにして言った。


「そっか~、こいつやったんか~」


 山中さんは絵を凝視してから、振り向いて旦那さんに聞いた。


「でも、私もこのおっさんも、えらい楽しそうに笑っとんで?ホンマにこのおっさんに虐待されとるんかいな?」


「澄子はん!だまされたらあきまへんで!そのおっさんは嘘つきでんねや!ワシも嘘八百の絵を飾られとったんでっせ!」


 しかしそれに答えたのは、旦那さんではなく緒方さんだった。


「そうなん?でも、なんでまた、そんな嘘のことを絵にすんねんな?」


 不思議そうな顔をして、緒方さんに聞く山中さん。


「そうやって、自分が仕事のできる優秀な人間やと、自分に言い聞かせとるんやと!」


 相変わらず興奮気味の緒方さん。


「ふうん、なんかようわからんけど、面倒なやっちゃやな」


「そうなんでっせ!めちゃめちゃ面倒な奴なんでっせ!そやから今からそいつのところに行って、澄子はんの虐待を止めさせるように、いろいろ言うたりまんねや!」


 緒方さんは、両こぶしを握りしめている。


「そうやで!僕も断然抗議すんで!女の人に虐待するなんてこと、絶対許されへんもん!」


 松永さんまで、緒方さんとおんなじポーズを取っている。


「澄子、そういうこっちゃ。今からお前に対する虐待を止めさせるために、この塔の最上階におるそのオッサンのところに行くから、お前もしっかり『色即是空』の呪文を唱えてくれよ」


「うん。わかった――でも、みんな、なんかゴメンな、私なんかのために・・・」

 

 山中さんが申し訳なさそうに頭を下げた。


「なに言うてまんねん!困ったときはお互い様でんがな!それに、ワシは前からあのオッサン気に入らんかったから、丁度ええ機会なんでっせ!」

 

 緒方さんは、相変わらず両のこぶしを握りしめている。


「よし!それではみなさん!いよいよ最上階目指して行きますか!」


 旦那さんが、威勢よくみんなに号令をかけた。


「よっしゃ~!」


 一際目立った声で、右腕を突き上げる緒方さん。さっきから凄い勢いだね、ホントどうしちゃったの?


「と、その前にですな、もうひとつみなさんにお願いしたいことがあるんですわ」


 旦那さんが言った。


「なんでんの?」


 すかさず聞く緒方さん。


「実はですね、みなさんには階段を登りながら、ある呪文を唱えて欲しいんですわ」


「ある呪文でっか?さっきのとは違う奴でっか?」


「はい。また違う呪文で「五蘊皆空」っていう呪文なんですけど、聞いたことは、ないですわな?」


「それはないな~」


 腕を組み、難しい顔をして首を傾げる緒方さん。そしたら、嬉しそうに右手を挙げて山根さんが言った。


「私あんで~!しょうけんごうんかいくうどいっさいくうやくしゃ~り~し~、これやろ~!?」

 

「そうですそうです。さすが山根さんです」


 笑顔の旦那さん。


「昔、お寺行っとったからな、覚えとんねん」


 山根さんも笑顔で言った。その後、眉間にシワを寄せ渋い顔をした緒方さんが、旦那さんに聞いた。


「ごうんかいくうって、どういう意味でんの?」


「これはですね、我々が今認識しとることなんか、まったくアテにならへんし、本質的なことやないっちゅう意味なんですわ」


「僕らが認識しとることがまったくアテにならん?例えば?」


「例えば・・・そうですね――ほんじゃあ、第二次世界大戦で例えてみましょか?大戦中の日本では、連戦連勝で勝利間違いなしって新聞やラジオで報道されとって、多くの人間が戦争することが正しいと認識しとったわけやないですか?」


 旦那さんが言うと、突如松永さんが言った。


「そやで!僕も海軍で戦艦を整備して頑張っとったけど、絶対勝てる思とったもん!」


「そうやったんですね――ですけど実際は、連戦連敗で敗色濃厚やったわけですよね?


「そやねん!まさか日本が戦争で負けるなんて思ってなかったわ!」


 なんか知らないけれど、興奮気味の松永さん。


「ですよね――多分多くの日本人は、松永さんと同じように戦争に勝つもんやと思っとったと思いますわ」


「そやな、ワシもそん時は小学生やったけど、戦争には勝つもんやと思っとったわ」


 緒方さんも2人に賛同するように、しみじみとうなづきながら言った。


「そうでしたか――でもまぁそれも当然で、日本国はそうやって嘘の情報を流して、国民を鼓舞しとったわけです。ほんで、戦争することは正しいと思わせようとしとったわけですけど、そもそも戦争することが正しいわけあらへんですよね?」


「そのとおりや!」


 松永さんが、大きくゆっくりうなづきながら言った。


「でも、戦時中の日本人の多くが、戦争することが正しいと信じとったんです。要するに、国が都合のええように操作したら、簡単に常識や正しいとされとることなんか変わってまうし、本当のことを知ることもできんようになるわけで、それだけ我々が認識しとることなんて信用ならんっちゅうことなんです」

 

 それってさ、わたしが緒方さんと松永さんに、この塔がマルビルみたいなもんだと嘘をついたのと似たような話しだね――。


「そう考えると恐ろしいわな」


 緒方さんが言った。


「ええ、恐ろしいことなんです。そやけど、結局今我々が認識しとることなんて、そういった随分と怪しい土壌の上にあるわけなんで、そんなもんはまったくアテにならんし、本質的なことであるワケがないっちゅうことなんですわ」


「なるほどな、そういうことかいな」


「ほんで話しは、このズラッ~と並んだ絵についてになるんですけど、これぞまさに、松井にとって都合のええ認識の集合体なわけやないですか?」


「そやな、まさにそのとおりでんな」


「そやからみんなで『五蘊皆空』と唱えながら、そんなありもせえへんろくでもない妄想が描かれた絵を消し飛ばして行こうやないかっちゅう作戦なんですわ。それだけのことで松井の根幹は弱まって、相当に弱体化するはずですからな」


「よっしゃ、わかったで。五蘊皆空やな。任せとかんかい。なぁ、松永さん!」


 緒方さんは隣りにいた松永さんの背中をおもいっきり叩いた。


「うん。僕も唱えるで!五蘊皆空やろ!こんな絵に描かれとることなんか、とんだ嘘っぱちやもんな!」


 松永さんはなにかを言い聞かせるように、両こぶしを握りしめて力をこめて言った。


「よし!行こうやみんな!澄子はんを助けようや!」


 緒方さんが右腕を突き上げた。いつの間にか、一番やる気になってるんじゃないの?


「オッ~!!」


 みんなも緒方さんと同じように腕を突き上げた。それにしても、まさかみんながこんなに一致団結するなんてさ、トラックに乗ってた時には夢にも思わなかったよ――。


 旦那さんを先頭にして、緒方さん、松永さん、山中さん、黒山さん、山根さん、わたしの順番で階段を登り始めた。わたしが階段を3段あがった時のこと、先頭にいる旦那さんが、みんなの方を振り返って言った。


「ではみなさ~ん!!ワイが『せ~の』って言ったら『五蘊皆空」と唱えてくださ~い!!」


「は~い」


「いきますよ~!!せ~の!!」


「ご~うんかいくう~!ご~うんかいくう~!ご~うんかいくう~!ご~うんかいくう~!」


 みんなが五蘊皆空と唱え始めた。うまい具合にピッタリと息が合っており、結構な音量だ。中でも山根さんの声が大きい。さすがマグマの声の持ち主だ。しかも元々この呪文を知ってるっていうんだから、相当に威力がありそうだよ。


「ご~うんかいくう、ご~うんかいくう」


 わたしも左手で手すりを持ち、階段を登りながら「五蘊皆空」と唱える。何気なく階段右の壁を見ると、そこにはやっぱり主任の絵が飾られていた。それは主任が山根さんを風呂に入れている絵で、やっぱり2人共ニコニコしている。それにしても、返す返すも胸くそ悪い絵だよね――ウンザリしながら、わたしが絵を見ていたら、絵の下になにやら題が貼ってあるのを見つけた。ん?なに?こんな題ついてたの?不思議に思ったわたしは題を見てみた。


「2018年8月8日(水)下手クソな対応で山根さんを怒らせたヘボの中道理子に代わって華麗に入浴介助する俺」


 なによこれ!!山根さんの入浴介助を代わらされたあの時のことを言ってるの!!ふざけんな~!!!!


 猛烈にムカついたわたしは、思わず絵の中の主任に向かっておもいっきりパンチをしていた――。


 ――しかしなんの感触もなく、絵にはなんの変化もなかった。アレ?なんで?わたしは頭にハテナマークを浮かべながら右の拳を見つめた。もしかしたら、本物の絵ってわけじゃないから、殴ったってダメなのかな――。


 ――となると、旦那さんの言ってたとおり、「五蘊皆空」でなんとかするしかないようだね。よし、そういうことなら、この絵に向かって強烈に唱えてやろうじゃないの。この絵だけは今すぐ消さなくては気が収まらないからね。


「ご~うんかいくう~!!ご~うんかいくう~!!ご~うんかいくう~!!ご~うんかいくう~!!」


 わたしは絵の方を向いて手を合わせ、大きな声を出して唱え始めた。消えろ!消えろ!消えろ!わたしは必死に念じたんだけれど、絵は一行に消える様子はなく、憎たらしい主任の笑顔はそのままだった――。アレ?なんで消えないの?おかしいな?しばし、呪文を唱えるのを止め、腕を組んで考えるわたし――。


 ――よし、ここはひとつ基本に立ち返ってみよう。牛を消し飛ばした時のように、五蘊皆空の意味をしっかりかみ締めながら呪文をとなえてみるのだ。


 こんな絵なんて、主任にとって都合のいいだけの妄想だから、これほどアテにならずいい加減な認識はない――ご~うんかいくう、ご~うんかいくう、ご~うんかいくう・・・・・。


 わたしは手を合わせ、静かに呪文を唱え続けた。


 しばらくすると、絵が薄くなって来た!やった!凄い凄い!――しかし、一瞬わたしが喜んだ時、再び絵が濃くなり、絵が蘇ってきちゃったので、わたしは再び五蘊皆空の呪文に集中した。


 ご~うんかいくう、ご~うんかいくう、ご~うんかいくう・・・・・。


 どれほどの時間が経っただろうか?ついにわたしは、目の前の憎たらしい絵を完全に消滅させることに成功した!やったね!イェ~イ!わたしは嬉しくなって左腕を上げ、1人ガッツポーズをした。わたしもやるもんだね~。


 しかし、そんな自画自賛している場合ではなかった――当然のことながら、そんなふうに1枚の絵にこだわっていたものだから、大きくみんなに引き離されちゃっていたのだ。これはいけない、階段を見上げても、もはや山根さんの姿は見えず、みんなの声も聞こえない――。


 やべえ・・・。




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