第44話 ウイー・アー・ザ・ワールド
思ってもないフレーズとはなにか?そのフレーズをわたしが耳にしたのは、山中さんに起きてもらった後のことだ。
わたしがそっ~と部屋に入った時、山中さんは寝ていた。わたしは申し送りで、山中さんがあんまり夜寝ていないって聞いていたし、機嫌も悪いみたいだから、このまま寝ててもらってもいいんじゃないかとも思った。でも、なんせトイレ誘導にかれこれ6時間以上も行ってないことになるからね、普通に考えて、ズボンまでオシッコまみれに違いなく、そんなずっとオシッコまみれのままでいるのは不潔でよくないから、それでやっぱり起きてもらってトイレに行くことにした。
「おはようございます。山中さん」
わたしは優しく声をかけた。
「なんや、みっちゃんかいな~」
山中さんは、すぐに目を開けて笑顔で言った。やっぱり今日もわたしはみっちゃんみたいだ。
「どうですか?体の調子は?」
みっちゃんであるわたしは、本来の仕事である体調チェックも兼ねて聞いてみた。
「調子はええかな~、それはそうと私、アンタにお礼言わなアカンねや」
山中さんはベッドから身を起こした
「え?お礼ですか?」
お礼ってなんだろう?
「そうやがな、昨日カセットテープ持って来てくれたやんか」
カセットテープ?なにそれ?
「ああ、アレですね」
しかし、みっちゃんであるわたしは、知ってるふうを装って会話をつないだ。
「アレよかったで~、ウイアーザワールド♫ウイアーザチルドレーン♫ええなぁ」
山中さんは、ニッコリ微笑んで英語の唄を歌った。それはわたしにとって、とても意外なことだった。今まで会った高齢者が歌う唄と言えば、美空ひばりとかそんな昔の日本の唄ばかりで、洋楽なんて1曲も聞いたことがなかったからね、まさか洋楽を利用者から聞くことになるなんては思わなかったのだ
。
「いいですね~、この唄」
そう言いながら、わたしはこの唄がなんなのかわかっていなかった。わたしはかなりの音楽好きではあるものの、聞く音楽は60年代に実際に流行っていた音楽か、60年代をルーツとする音楽に偏っているので、それ以外の年代の音楽には疎いのだ。
「ウイアーザワールド♫ウイアーザチルドレーン♫」
山中さんは、相変わらず同じフレーズを笑顔で唄い続けている。ところで、山中さんが今までこんな唄を口ずさんだことなんてなかったのに、どうして急に唄い出したのだろう?
「それはやな、澄子がドラクエ世界で一時的に若返ったことによって、1985年当時のことが蘇ってきたんやろ。あっ」
すると旦那さんの声がして、わたしの疑問に答えてくれた。そっか、じゃあこの唄って、山中さんが実際に1985年に聞いていた唄なんだね。
「そうや、知らんか?『ウイー・アー・ザ・ワールド』て言うんやけどな?あっ」
え?「ウイー・アー・ザ・ワールド」?――聞いたことないな。
「そうか――なんせ、もう33年も前の唄やからな、そんなもんなんかもしれんな。当時は毎日のようにラジオで流れとったんやけどな。あっ」
そうなんだ――じゃあ、相当流行ってたんだね。
「そうやで、めっちゃ流行っとったんやで。ほんでワイら夫婦はやな、店で仕事しとる時はFMラジオを聞いとったからな、その時代の洋楽には比較的詳しいんやけどやな、なんせ仕事中にFMラジオを聞いとったからな、気に入った唄をカセットテープに録音するっちゅうことができひんかったんや。あっ」
え?でも、わざわざラジオから録音しなくったってさ、そんなのCDレンタルで借りたらいいんじゃないの?
「その時代にレコードレンタルはあってもやな、CDレンタルなんかあるかいや。あっ」
え?そうなの!?CDレンタルってなかったの!?
「当時はCDがまだ出始めたばっかりやったからな、CDレンタルなんかなかったんや。そやから、まだまだ圧倒的にレコードやカセットテープの方が主流でやな、みんなFMラジオから流れる唄をテープで録音しとったんやで。あっ」
みんな、そんなことをしてたんだね、知らなかったよ。
「それでやな、「ウイー・アー・ザ・ワールド」をなんとかカセットテープに録音したかったんやけどやな、澄子も家事があって忙しいし、「ウイー・アー・ザ・ワールド」が流れるドンピシャのタイミングで録音ができひんかったんや。それで同じく洋楽好きやったみっちゃんに白羽の矢が立ったっちゅうわけや。あっ」
なるほど、それでみっちゃんに、その録音したカセットテープをもらったってわけか――。
「そういうこっちゃ。あっ」
旦那さんの声は消えた。山中さんは、まだ「ウイー・アー・ザ・ワールド」を口ずさみ続けている。
それからわたしは、山中さんのトイレ誘導に行くことにしたんだけれど、スムーズにトイレに行くことができた。しかし、やっぱりズボンまでオシッコでビタビタだったので、わたしは山中さんの下半身の更衣を行うことにした。
それにしてもだ――もしかしたらホントに機嫌が悪かったのかもしれないけどさ――山田さんにしろ段田さんにしろ、もうちょっとなんとかならないものだろうか?
そもそも普段の対応が悪すぎる。それは山田さんと段田さんだけの話しじゃないのかもしれないけどさ、基本的に山中さんと話そうとしないし、やっと話したとしたって「なんでそんなことすんの!」とか「これはしたらあかん!」とかだからね、そりゃあ山中さんが目の敵にするのも無理ないよ。
そもそもの話し、「なんでそんなことするの!」ってさ、どうしてそんなこと言うのよ?山中さんは、自分たちとは全然違うふうにこの世界を認識してるだけの話しじゃないのさ。大体さ、山中さんがなんでそんなことするのか考えるのが、この介護の仕事なんじゃないの?
まったく、五蘊皆空の意味を教えてやりたいよ。自分たちだって自分の好き勝手にこの世界を認識してて、そんなもんは全然アテにならないっていうのにさ、よくもまぁ、自分の認識は絶対正しいと言わんばかりに振る舞えるもんだよ――と、わたしがいろいろ考えていたら、旦那さんの声がした。
「考えとる内容自体はなかなかのもんやけどやな、それを直接段田さんや山田さんに伝えていかないかんな。あっ」
え?でもさ、あの人たちにそんなこと言ったって絶対無駄だよ。
「そんなもん言ってみんとわからへんやないかい。それにやな、介護の仕事がなんなんかわかっとらん人間がおるんやったら、それをわかっとるもんが教えてやらなしょうがないやろが。あっ」
でもさ、山田さんはいざ知らず、段田さんなんて随分な先輩だよ、わたしの言うことなんか聞くわけないよ。
「けどやなミレーユ、お前さんも、介護がなにする仕事なんかわかっとらん人間に対してイラついとるわけやろ。今後すがすがしく働くためにもやな、どうにかした方がええんとちゃうんか?あっ」
そりゃあそうだけどさ――。
「それに、なによりここに住んどる爺さん婆さんが困るやろが。例え黒い塔を攻略することができて、松井の虐待をなくすことができたとしてもやな、介護がなにをする仕事なんかわかってない連中が自分の住んどる場所におって、我が物顔で大手を振って歩いとるわけやろ?それで否定的な言葉を投げ続けて来るわけやろ?澄子がそんな世界をありのままに認識したいと思うか?あっ」
思わないだろうね――。
「そやろ。それやったらやな、もし澄子が自分を取り戻したとしても元の木阿弥なんやで。前にも話したようにやな、澄子が認知症になったんは、ワイが死んだり頼りにしとった友達が死んだり、そんな過酷すぎる状況を認識したくなかったんがきっかけなんやどやな、もし自分を取り戻したとしてもやな、相変わらずこの世界が認識したくないような過酷な世界やったら、澄子はこの世界を認識するのを止めてまうわいな。あっ」
確かにそうかもしれない――。
「だからやな、ここで働いとるもんにはやな、せめて介護がなんの仕事かくらいはわかっとってもらわな困るねや。そもそも給料もらっとる介護職員がやな、認知症みたいな奴らで、認知症を助長させとるなんておかしな話しやろが?あっ」
それはそのとおりだと思うよ。
「だからお前さんにはやな、皆が当たり前に介護の仕事をするように働きかけて行って欲しいんや。あっ」
う~ん、でもさ、それがなかなかの無理難題なんだよね――。
「まぁでもそれは、黒い塔を攻略した後にまた考えようや。今はなにより松井に虐待を止めさせることを優先せなアカンからな。あっ」
旦那さんの声は消えた。それにしてもだ。山中さんが平和に暮らして行くためには、どれほどの問題が立ちふさがっているというのだろう?――。
それから後のわたしは、ことあるごとに五蘊皆空の呪文を唱え続けた。そうして、3回目のドラクエ世界に行く15日の朝を迎えようとしていた――。




