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第43話 第2ステップの課題

 8月13日の月曜日、日勤勤務であるわたしは職場に向かっていた。やっぱりこの日も晴れていて、容赦のない日差しが照りつけていた。


 今わたしは、例の須磨寺の池の傍を通りかかっているところだ。もし敦盛さんと会ったら、なんて言おうかといろいろ考えてたんだけれど、敦盛さんが現れる様子はない。でも、もしかしたらわたしに見えてないだけで、すでに現れているのかもしれない。今までだって、彦左衛門さんと話しながら歩いてたみたいだからね。しかしなにも見えず、なにも聞こえない以上、わたしにとって敦盛さんは存在しないことになる――ってさ、今の考え方って、なんとなく五蘊皆空チックな話しじゃない?わたしってば、なかなか僧侶として板について来たんじゃないの?


「クス」


 そんなふうにわたしが考えていたら、微かに笑う声が聞こえたような気がした。敦盛さん?わたしは呼びかけるように周囲を見渡した。しかしなにも返事はなく、周りには誰もいなかった。青空にセミの声だけが響いているだけだ――。


 それからわたしがゼメシナールに出勤してみると、早出の山田さんが眠そうな顔してチンタラ歩いているのが見えた。牛の張本人のお出ましってわけだ。


 山田さんは、相変わらずダルそうにしてるけどさ、今この瞬間にも、またどっかの焼肉屋に行たいとか考えているかもしれないんだよね?今度はどこの焼肉屋に行きたいと考えてるのかな?知らないけどさ、ホント、人が死んだっていうのに止めて欲しいよね。あんたのその欲望がさ、すでに殺人なんだよ。だからどうか、焼肉屋に行たいだなんて危険なことを考えるのは止めて、目の前のことに集中して下さい――わたしがそんなことを考えながら申し送りの準備をしていたら、早速旦那さんの声が聞こえて来た。


「危険なことを考えずに、目の前のことに集中せなアカンのはお前さんの方やで。あっ」


 え?どういうこと?


「山田さんが、焼肉屋に行たいって考えとるかもしれへんと、文句ブーたれとるやないかい。あっ」


 そりゃしょうがないよ。山田さんはこうしている間にもさ、肉のことを考えて、あの牛を生んでるのかもしれないんだからね。


「そんなことわからへんやろが。そんなふうにやな、ありもせえへん妄想ばっかりしとったら、いつまでたっても牛を倒せるようにならへんで。あっ」


 げ。それは困るね。


「そやろが。そもそもお前さんは、牛を恐れすぎなんや。ほんで、また牛に会ったらどうしようと心配して、牛の生みの親である山田さんに対して、ありもせえへん妄想を描いとるんやろうけどな、山田さんに牛のことを考えるなっちゅうんがやな、あんなに焼肉食いたいのにやで、土台無理な話しとちゃうんか?あっ」


 そりゃそうなんだろうけどさ、ホントに牛って怖いんだもん。


「じゃあお前さんは、山田さんに『牛のことを考えるのは止めて下さい』ってお願いでもするつもりなんかいな?あっ」


 そ、そんなわけないじゃない――。


「そやろが。そもそも、山田さんをどうにかしようっちゅうんが間違いなんや。あっ」


 だったらさ、どうすればいいのよ?


「だからさっきも言うたようにやな、牛に対する恐れをなくせばええねや。例え牛と会っても別にええわと思えたらやな、山田さんに対して、さっきみたいな妄想をせんでええようになるわけやろ?あっ」


 でも、牛に会っても別にいいだなんて思えないよ。


「それを思えるようにするためにはやな、あっさり牛を倒せるようになればええわけやろ?あっ」


 まぁ、それはそうだけどさ、それが難しいから困ってるんだよ。


「お前さんは困っとるようやけどやな、牛を倒すんは実は簡単なんやで。五蘊皆空の呪文の力を高めればええだけなんや。あっ」


 え?でも、そんなのどうしたらいいのよ?


「じゃあ、これを第2ステップの課題にしよか。あさってドラクエ世界に行くまで、人に対していらんこと妄想をしそうになったら五蘊皆空と唱えて、いらん妄想を消すこと。これでいくで。あっ」


 え?呪文を唱えるの?


「そうや。実際に呪文を唱えて呪文を強化していくんや。あっ」


 ふうん、そっか――。


「五蘊皆空の意味は前言ったからわかっとるな?あっ」


 同じ物事でも、人や生き物によって認識の仕方が全然違うから、物事を認識する過程なんてものはアテにならないってことだよね。


「まぁ、そういうこっちゃ。ほんでやな、今朝のお前さんは出勤して早速、山田さんに文句ブーたれて妄想を描いとったわけやけどやな、こんな認識はアテにならんどころか、ありもせえへんわけや。こういった自分勝手な色眼鏡から見て作り出した妄想なんてそもそも存在せえへんっちゅうことをやな、しっかり踏まえて呪文を唱えていけば、呪文は強化されていくわいな。あっ」


 そうなのか――。


「結局のところやな、ありもせえへん山田さんを思い描いてブーたれてみたり、牛に会ったらどうしようと、まだ起きてもない未来を心配してみたりすることこそがやな、ドラクエ世界ではモンスターを生み出し、現実世界では苦しみの根源となっとるわけやけどやな、そういう妄想をしてもうたら、とにかく『五蘊皆空』と唱えまくるんや。そうやって妄想を消し飛ばしていければやな、牛を倒せるようになるし、苦しみもなくなっていくわいな。あっ」


 なるほど――じゃあ、頑張ってみるしかないね。


「そうや、頑張るしかないんやで。ほなら、人に対していらん妄想をしそうになったら五蘊皆空と唱えまくるんやで。あっ」


 旦那さんの声は消えた。よし、人に対してありもしない妄想をしそうになったら五蘊皆空と唱えて消せばいいんだね。


 それから、夜勤者である段田さんから申し送りを受けたわたしは、早速日勤業務に入ることにした。問題の山田さんと言えば、五十嵐さんの入浴準備をしているところで、相変わらずダルそうにチンタラ歩いている。


 まぁ、人のことはいいや、わたしはわたしのやるべきことをしよう。まずは各部屋に挨拶巡りだ。でもその前になんとなく気になったので、わたしは排泄チェック表を見てみることにした。


 するとそこで、ロクでもないことが発覚してしまった。8時30分~9時までに行っているべき山中さんと黒山さんの排泄チェックの欄に印がなく、最終の排泄チェックは黒山さんが5時で、山中さんに至っては3時になっていた。


 なにこれ?どうしてこんなことになってるの?しかし、ただの記入漏れかもしれないので、わたしは山田さんに聞いてみることにした。わたしがノックをして風呂場の脱衣室に入ると、そこに山田さんがいたので聞いてみた。


「山中さんと黒山さんのトイレ誘導はまだですか?」


「うん。2人共機嫌悪くて起きてくれへんねん」


 山田さんは眠そうな顔して言った。


「そうですか。わかりました」


 わたしはそう言って脱衣場から出た。そうか,機嫌が悪いのか――まぁ段田さんの夜勤明けは、大体山中さんの機嫌が悪いので、しょうがないのかもしれないけれど、黒山さんまで機嫌が悪いってのはどういうことなんだろう?帰宅願望はあっても、黒山さんが機嫌が悪いことなんてあんまりないと思うんだけどな、一体どうなってんの?


 わたしは、挨拶巡りの最初に黒山さんの部屋に行ってみることにした。寝ているかもしれないので、ノックをせずにそ~っとドアを開ける。


 黒山さんはベッドの上に座って、カバンになにやら詰めているところだった。


「おはようございます!黒山さん!」


 わたしは黒山さんの傍に行き、耳元で大きな声で言った。


「ああ、おひゃよ」


 すると、ニッコリ微笑んで黒山さんは言った。ん?どこが機嫌悪いのよ?


「なにしてるんですか!?」


 わたしは聞いてみた。


「準備しとるんよ。これから出かけなアガンの」


 見れば一杯のティッシュをカバンに詰めこんでいる。


「どこ行くんですか!?」


「しょとよ」


 また、ニッコリと黒山さんは微笑んだ。ホントに機嫌悪かったの?


「じゃあ行きましょう!」


 ま、いいや。とりあえずわたしは、黒山さんと一緒にトイレに行くことにしたんだけれど、めちゃんこスムーズにトイレ誘導を終えることができた。


 なにコレ?これでなんでトイレ誘導に行けなかったのよ?わたしが、なんだかなぁと思って首を傾げていたら、浴室からブザーが鳴った。五十嵐さんの入浴には、所々2人介助が必要な時があるので、山田さんが呼んでいるのだ。わたしは風呂場に向かい、ノックしてから脱衣場に入った


「じゃあ私が抱えるから、下ろしてくれる~」


 風呂場の脱衣場に入ると、山田さんが死にそうな声で言った。それにしても、どうしてこの人は、肉ばっかり食ベてるクセにこんなにも覇気がないのだろう?こんなことじゃあ、この人に食べられちゃった牛も全然報われないよね。今頃、山田さんの赤血球内のヘモグロビンやら血小板やらになってしまった牛がさ、なんだってこんな死にそうな人の栄養になってしまったんだろうって嘆いてるはずだよ。


「これ!ミレーユ!あっ」


 その時、唐突に旦那さんの声がした。それがいつもより大きめな声だったので、わたしはビクッとした。そうだった、妄想はいけないんだったね――。


 五蘊皆空、五蘊皆空、五蘊皆空、五蘊皆空、わたしは、呪文を連発し、今思い描いていた妄想を消すことにした。牛は山田さんの赤血球内のヘモグロビンやら血小板なんかにはなっていないし、嘆いてもいない。それは全部わたしが勝手に作り出した妄想だ――よし。


 それから山田さんは、めちゃんこ大変そうに五十嵐さんを入浴用の椅子に移乗させてから浴場へと消えて行った。ホントなんなのよ?いっつもいっつもしんどそうだけどさ――。


 フロアに戻ったわたしは、今度は山中さんの様子を見に行くことにしたんだけれど、そこで山中さんの口から、思ってもみないフレーズを聞くことになった――。

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