第36話 五蘊皆空1
「なにを言うとんねん!そんなアホみたいなセリフが入っとるわけないやろが!ありがたい呪文をなんやと思とんねん!」
そう言って旦那さんが本棚に向かって歩き始めた。やっぱりさっきの呪文のセリフをアホみたいだって思ってるんじゃないのさ――。しかし旦那さんは、そんなわたしの頭の中のつぶやきを無視して、悟りの書とやらを手に取って言った。
「この悟りの書は、西遊記のあの三蔵法師が、天竺から持ち帰ったありがたいお経を研究して作ったもんなんやで」
え?そうなの?三蔵法師なんて実際にいたの?
「おるわいな。だからこそ、ここに悟りの書があるわけや。ほんでやなミレーユ、お前さんも第1ステップの課題を6日程こなして来てやな、現実世界には行為のみがあって、妄想なんてもんはすべて無なんやってことをやな、ちょっとくらいは理解できたと思うんや」
できたのかな?よくわかんないけれど――。
「前にも言うたように、呪文の意味を理解した上で呪文を唱えんと効果はないんやけどやな、最初の呪文の意味をなんとなく理解できるくらいのレベルにはなっとるはずやで」
そう言われるとなんか怖いね。大丈夫かな?
「まぁちょっとずつ理解を深めてくれればええねん。ほんでやな、早速最初の呪文になんのやけどやな、『五蘊皆空』っちゅうねん」
え?ごうんかいくう?
「そうや、ごうんかいくうや。まずはこの呪文の意味を理解せなアカンわけや」
大丈夫かな?なんか難しそうだけど――?
「まぁ、確かに難しいな」
え~、そんなの理解できるかな?
「まずは、なんとなく理解してくれたらそれでええねん」
そうなの?
「そうや。ほんじゃまぁ、ひとつずつ解説していこかな。まずは、五蘊皆空の五蘊の意味からや。五蘊はやな、色、受、想、行、識の5つのことを言うねや」
え?しきじゅそう?
「しきじゅそうぎょうしきや。ほんでやな、その色受想行識の意味なんやけどやな、順番にひとつずつ、色から解説していくで」
はい。
「まずは色やねんけどやな、色ちゅうんは、人間で言うたら肉体のことで、その他、海や大地、建物や乗り物、現実世界の目に見える全ての物体のことを言うねや」
なるほど、物体ね。
「そうや。ほんでやな、それに対して残りの受想行識はやな、人間の内面、精神的なことを言うねや」
精神的なこと?
「そうや。いろいろ感じたり、思ったり、意志を持ったり、認識したりする精神的な作用のことや」
なるほど――。
「ほんでやな、受相行識の受やねんけどやな、受は感受、ほら感受性っていうやろ?いろんなことを感じるとることを言うんや」
あ~なるほどね、それならわかるよ。
「よし。ほんで、次の想はやな、その感じたことを特定したイメージに変換することを言うねや」
え?特定したイメージに変換する?
「そや。え~と、どう言えばええんかな――例えば、雨が降って来たとするわな。ほんでやな、頭になにか当たったと感じることが受で、それを雨と特定することが想になるんや。わかるか?」
はいはいなるほどね、わかるよ。
「よし、ほんじゃ次行こか。次の行なんやけどやな、そのイメージした事柄に対して、どうしたいかっていう意志のことを言うねや。さっきの雨の例えで言えば、雨が降って来たから傘をささなアカンって思うってことやな」
は~、なるほど、意志か――。
「そや。ほんで、最後の識なんやけどやな、急に雨が降って来ることもあるから、今度からは傘を持っとこうと、経験から得た知識のことを識って言うねや」
ふうん、知識ね。
「そうやって物事を認識していく過程を五蘊って言うねや。どや?ここまではそないに難しないやろ?」
う~ん、どうなんだろ?なんとなくはわかった気はするけど――。
「そうか、ほなら今度は別の例えで言おか。まず肉体であるお前さんが道を歩いとるとするわな」
はい。
「なんか踏んだ感触がある。これが受やな」
はい。
「踏んだのがウンコだとわかる。これが想や」
ん?なんか嫌な予感がするぞ――。
「ウンコを取らなアカンと必死に頑張るんが行や」
げ、やっぱり――あの時のわたしのことを言ってるんだね。
「ほんで、今度からいらんことを考えずに、目の前をしっかり見て歩こうと気づくことが識や」
わかりましたよ。
「そのようにして、ウンコという物体、すなわち色をやな、受想行識一連の認識過程で認識することを五蘊って言うんや。どや?わかったか?」
よ~く、わかりましたよっ。ありがとうございますっ。
「よし。ほんじゃ次、五蘊皆空の皆空にいくで」
はい。
「皆空の皆は簡単や、全部、すべてってことや」
なるほど、それは簡単だね。
「問題は空の方や、これが難しくてやな、いろんな解釈があんねやけどやな、まずは空には『本質的なものではない』という意味があんねや」
本質的ではない?
「そうや――例えばやな、ウンコを踏んだのが澄子やったとしよか。ほんで澄子やったらやな、ウンコを踏んだとしても、おそらくウンコを踏んだことに気がつかへんと思うねや。そうなるとやな、澄子にとってはウンコの存在自体がないということにならへんか?」
それはそうだね――。
「それと、例えばあの時、お前さんがウンコを踏んでなかったとしても、ウンコの存在に気づいてなかったと思うんや。その場合もお前さんにとってはウンコは存在してないことになるやろ?」
そうか、そうなるか――。
「そんな感じでやな、すべての物事は条件によって成り立っとってやな、あの時たまたまお前さんがウンコを踏んだから、そこにウンコがあると思っただけでやな、そんなふうに『ある』って思っとる物は、条件によって成り立っとるにすぎひんねや。だから五蘊皆空、ウンコの認識過程なんてものはまったく本質的ではないってことなんや」
ふうん。なんか難しいね――。
「そや、難しいねん。でも、なんとなくはわかる気はするやろ?」
どうなんだろ?まぁ、ちょっぴりくらいは、わかったかもしれないけどさ――。
「それで上等や、最初やねんからそれでええねん」
そっか~、それにしても、これはなかなか大変な呪文なんだね。
「当たり前や。なんせ悟りの書やからな、悟りを開かな、意味を完全には理解できひんねや」
げ、そんな大変そうなこと、わたしなんかじゃ無理じゃないの?
「大丈夫や心配すんな。松井の黒い塔を攻略するくらいなら、ボチボチでもいけるわいな」
そうなんだ――。だったらいいけどさ――。
「よし。ほなら続きいくで。空の他の解釈やねんけどやな、『移ろいゆく世界を司る法則』、そういう意味もあんねや」
移ろいゆく世界を?え?なんじゃそりゃ?
「『移ろいゆく世界を司る法則』や。例えばお前さんが踏んだウンコはやな、ウンコになる前はどっかの犬の体の中で違う形としてあったわけや。それが、いらない物として排出されて道に残され、今度はお前さんの靴の裏につき、爪楊枝でほじくられた挙句水で流され、下水の中で水と溶け合いっちゅうふうにやな、世の中にあるすべての物はすべて形を変えて行っとるわけや。すなわち、物事には実体がなく、実体がないからこそ常に形を変えて行くっちゅうこっちゃ」
ふうん、そっか――、なんか難しいけれど、そういうことなんだね。
「どや?わかってくれたか?」
なんとなくだけどね――。
「よっしゃ上等や。ほんでこの場合の五蘊皆空の解釈やねんけど、ウンコを認識する過程なんてものは、ウンコ自体が常に形を変え変化する実体のないもんやねんから、ウンコを認識する過程もまたないっちゅうことになるんかな」
う~ん、なるほど――。わかったような、わからないような感じだね――。
「ま、今のところはそれで十分や。よし、それじゃあ、今度は『五蘊皆空』を唱える時のコツを教えていくで」
お、コツなんてものがあるの、それは助かるね。
そしてそのコツなんだけれど、それはとっても意外なものだった――。




