第31話 人のことはほっとけと仏さんも言うとう
「黒山さんのトイレ誘導行ってくれへん?」
なにかと思ったら、達郎がわたしにトイレ誘導に行けと言って来た。
「あっ、はい」
ちょっと焦ってわたしは返事した。確かにわたしは、旦那さんとしゃべっててなにもしてなかったもんね。しかしまさか、なまくらババアにそんなことを言われる日が来るなんて思ってもみなかったよ――でもまぁしょうがない。
――トイレ誘導も終わり、お昼ご飯の用意をしようかなという時に、山根さんと主任がフロアに戻って来た。山根さんは笑顔で「気持ちよかったわ~」なんか言っている。ちっ。誰がお風呂に入れたって、山根さんは風呂上り機嫌がいいのにさ、まるで主任に変わったから機嫌がよくなったみたいになってるじゃない。
でも、これこそが主任のやり方なんだろうね。絶妙なタイミングでわたしと入浴介助を変わることによって、自分を優秀だと思い込んでいるのに違いない。なるほどね、そのカラクリを知った今のわたしは、こんなのは軽く受け流さなくてはいけない。
――次の日、日勤勤務のわたしは、利用者に洗濯物をたたんでもらおうとテーブルに洗濯物を置いた後、早速渡辺さんに捕まっていた。
「澤村さん、今度また自分の息のかかった職員を小規模に入れようと企んどんねんで~。どう思う~?」
渡辺さんの話によると、どうやら澤村さんが、自分がかつていた職場の気の合う同僚を、マラーキ愛の園に新しく引き抜こうとしているらしい。これまでも、すでに2人のかつての気の合う同僚を引き抜いていた。
でも、わたしにしてみれば、だからなに?って話しだよ。マラーキ愛の園に澤村さんの気の合う仲間が増えたってさ、別にどうも思わないよ。人望があって大変素晴らしいことじゃない。しかし、そんなことは言えないので、適当に相づちを打つことにした。
「そうですか。それはいけませんね」
「そうやろ~、これは理事長に言いに行かなアカンわ~」
アンタ、なにかと言うとすぐそれだね。でも、それで状況がなにか変わってるようには思えないので、あの理事長になにか訴えたって意味ないんじゃないの?
15分程して、わたしはようやく渡辺さんの話しから解放された――あ~やれやれ。
しかし今度は、杉浦さんが井上さんに偉そうに言ってる声が聞こえて来た。
「アンタはたたまれへんねやから置いときなさい」
杉浦さんは今日もまた、洗濯物をたたんでいる井上さんに指図している。それにしてもだ。洗濯物をたたむ前に井上さんには、違う席に移動してもらったはずなのに、どうして杉浦さんの元に戻ってしまっいるのだろう?ホント、渡辺さんのどうでもいい話しを聞いている場合じゃないよ。
「なに言うてんの!たためるわ!」
井上さんが怒って言い返す。これはいけない、わたしは再び、井上さんに違う席に移動してもらった。
すると案の定、杉浦&原コンビの井上さんの悪口が始まった。
「なんで、洗濯物もようたたまれへんねやろな。まともな教育受けてへんのちゃうか?」
「そやろな。まともな教育受けとらんのやろな」
「なんでやろな~、お金がなかったんやろかな~、かわいそうにな~」
「そやな、かわいそうやな。」
これは酷い、めちゃくちゃ言ってる。わたしは2人の元に行って言った。
「井上さんは立派な家に生まれて、立派な教育を受けて来たんです!」
「嘘や~、じゃあなんで洗濯物ひとつたたまれへんねんな、そんなんおかしいやん」
「そやな。洗濯物たたまれへんのはおかしいわ」
「おかしくありません。ちょっとたたみ方を忘れただけです」
「洗濯物のたたみ方なんか忘れへんで~」
「そやな、忘れへんな」
「とにかく人のことはもう言わないで下さい!」
一向にラチがあかないので、わたしはこの問答を終わらせるべく言った。
「怒られたわ。お口チャックチャック」
「そやな。チャックチャック」
わたしが席を立ち去ってからも、相変わらず杉浦&原コンビは井上さんの悪口を言っていた。なんでもいいけどさ、渡辺さんにしろ、杉浦さんにしろ、なんでそんな人のことばっかり言うのよ?そうわたしが疑問を持った時、旦那さんの声が聞こえて来た。
「結局、渡辺さんも杉浦さんもやな、自分が正しいと寸分疑うことなく思っとるからやな、正しくないことをしとる他人が許されへんねや。ほんで、正しくしてやろうと思っていろいろ言うわけや。あっ」
なるほどね、確かにそうかもしれない。でもさ、そう考えると正しさって厄介だよね。
「そういうこっちゃな。正しいからこそ自信満々に主張するわけやけどやな、実のところ、それが争いの原因になっとるんやな。あっ」
そうだね、確かにそのとおりだよ。
「人は不完全な存在でやな、自分が正しいなんてことはありえへんねや。そんな自分が人のことをとやかくなんか資格なんてあらへんのやで。あっ」
なるほどね、それはそうかもしれない。
「ほんで、ワイが言いたいんは、人のことはほっとけということなんや。あっ」
あ、それ聞いたことある。旦那さんが最初に現れた土曜日に、わたしが渡辺さんと話した後に言ってたやつだ。なんでそんなことを、渡辺さんじゃなくってわたしに言って来るのって思ってたんだよ。
「それはやな、渡辺さんを反面教師にして学べっちゅうことでもあるけど、お前さんも渡辺さんのことをぐちゃぐちゃ頭の中で思とったから言うたんや。さっきも言うたように、人は人になんか言う資格なんかないねや。それに、他人が間違っとるって思っても、それはただの自分勝手な思い込みっていうことが多いからな。そやから他人のことは放っておいて、自分のことだけをよく見て、やるべきことをやるべきなんや。モンスターを生まへんためにもな。あっ」
なるほどね、そういうことだったのか――。
「人のことはほっとけと仏さんも言うとう――このことを忘れんようにな。ほなな。あっ」
旦那さんの声は消えた――それにしても、2回も「人のことはほっとけと仏さんも言うとう」と言って来るところを見ると、このセリフをよっぽど気に言ってるみたいだね。
確かに、人のことをぐちゃぐちゃ考えるからモンスターが生まれるんだもんね。よし、人のことはほっといて、今やってることを呟きながら、目の前にあることをやって行くことにしよう。
しかし、そうは簡単にいかないのが、この職場の困ったところなのだ――。




