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第2話 全部たいした話しじゃない

 なに!?今の声!?


 わたしはフロアを上下左右見渡した。見れば2メートル程前には、主任がわたしに背を向け、ケース記録やら日誌やらのバインダーが置いてある机の前で座っている。他には利用者がちょっと離れたテーブル席に3名いる。


 声の主は一体誰なの?とりあえず利用者3人は絶対違うと思う。3人全員婆さんだし、そもそも距離が遠すぎるからね。じゃあ主任が言ったの?いや、それもなんか違うな――。


 じゃあ誰なの?って話しなんだけれど、とりあえず、このことを考えるのは後にしよう。ただでさえギリギリに出勤したっていうのに、これ以上モサクサしていたら、また主任になんか言われちゃうからね。


「おはようございます」


 わたしは動揺を隠しつつ、挨拶してフロアに入った。


「おはようございます」


 主任はこちらを振り返ることなく、すっごく低いトーンで挨拶を返して来た。その背中からは、早く来やがれオーラをモウモウと沸き立たせている。こわ。確かに、ギリギリの出勤だったかもしんないけどさ、挨拶くらいこっちを見てすればどうなのよ、アホ。この感じの悪さ抜群の主任は松井康聖と言い、歳は40歳くらい、中肉中背でわりと身長がデカくって、頭頂部がやや禿げかかっている。


 日勤は出勤したらまず夜勤から申し送りを受けることになっている。わたしは、そそくさと主任の隣りに座って言った。


「申し送りお願いします」

 

 すると、主任が目を細めて――わたしが言うのもなんだけれど、主任の目は見えてるのかっていうくらい細い――こっちを見て言った。


「申し送りの前に中道さん、昨日洗濯物置いたまま帰ったでしょ?」


 ん?洗濯物?


「あ、はい。乾いてなかったもので」


 昨日わたしは、洗濯物が乾いてなかったから、洗濯物干しごと脱衣場に置いて帰っていた。一体それのなにがいけないって言うのよ?


「前、言いましたよね、日勤が帰る前にはちゃんと洗濯物を終わらせてから帰るようにって」


 なにそれ!?確かにそんなこと言ってたかもしんないけどさ、乾いてないもんはしょうがないじゃない!なに言ってんのよ!このハゲ!――とは思ったんだけれど、でもさ、なんか怒ってるぽいしね。しょうがない、謝っといてあげよう。


「はい。すいません」


「もっと早くに外で洗濯物を干してたら、こんなことにならなかったんじゃないですか?」


 はぁ?うるせえやっちゃな。確かにそうかもしんないけどさ、洗濯物なんてどうだっていいでしょ~が。


「そうですね」


 なんか言い返すと怒りかねないし、そうなったらさらに面倒臭いので、適当に同意しておいた。


「気をつけて下さい」


 はぁ?なにが気をつけろだ、バカ。もっと他に気をつけないといけないことがあるでしょ~が。アホたれ。


 申し送りが始まり、そこでもやっぱり主任は、利用者のコップを元置いてた場所に戻し忘れていただの、用意していた箸の色が違っていただの、パットの当て方が悪かっただの、いちいち言ってきて、猛烈にダルかった。全部たいした話しじゃない。とにかく主任と接すると、自分が駄目な人間だと思えてしまって嫌な気がしてしょうがなくなる。ホント、マジでさっさと帰ってくれないかな?


 そして主任はさっさと帰って行った――主任のいいところと言えば、時間通りさっさと帰ってくれるところくらいだよ。


 ふぅ~。わたしはひとつ大きく伸びをした。とりあえずこれで肩の荷が降りた。よかったよかった。では、早速問題に取りかかろう。例の声が、なんなのかってことだよ。


 確か、あのヘンなおっさんの声は、わたしがドアを開けたと同時くらいに聞こえて来たんだけれど、直接脳に語りかけてくるかのような感じだった。でもアレは、決して主任が言ったんじゃない。主任はあんなまぬけな感じで「ウンコを踏んだのは主任のせいやあれへんのやで」なんてこと言わないし、そもそも主任は、わたしがウンコを踏んでしまったことなんて知ってるわけがない。さらにわたしがそのことを主任のせいにしてるだなんて、エスパーじゃあるまいし、もっとわかるはずがない。


 もしかして幽霊!?こわ!――って、いや、ちっとも怖くないな、うん。なんかまぬけな声だったしね――。


 でも仮に幽霊だとして、その幽霊は、なんだってわたしがウンコを踏んだのは主任のせいじゃないだなんて言うんだろう?なにその幽霊?主任のファンかなんかの?


 ――あ、そうか!もしかしたら、主任に関係する幽霊なのかもしれない!守護霊とかなんかそういうの。それで、わたしがウンコを踏んだのを主任のせいにされているのを感じて、「これはいかん、とんだ濡れ衣じゃ」とばかりに訴えてきたのかもしれない――。


 なんにせよ、いくら考えたところで、答えは導き出せそうもない。この件は保留にして働くことにしよう。日勤は申し送りを終えると、利用者の部屋を巡って挨拶を交わすことになっている。


 その前にここでひとつ、わたしが働くグループホーム「ゼメシナール愛の家」が、どういう施設なのか、簡単に説明しとこうかな。


 グループホームは、正確には認知症対応型共同生活介護と言い、地域に住む生活に困難を抱えた認知症を抱えた高齢者等の人たちが、援助や介護を受けながら少人数で生活する施設で、「ゼメシナール愛の家」では9名が暮らしている。スタッフは、日中を早出、日勤、遅出の3人の介護スタッフと1人の看護師で受け持ち、夜勤は介護スタッフ1人で受け持っている。


 では働こう。わたしは順番に部屋を巡ることにした。その時だった――。


 「おはよう~」


 看護師の渡辺さんが利用者の部屋から現れ、わたしに挨拶をして来た。渡辺さんは30後半の細身の女の人なんだけれど、いっつもピッタリしたパンツを履いていて、上は短い水色のエプロンをしている。わりと美人で、長い髪を後ろで束ねてて、いっつもニコニコしていて、一見するととってもいい人そうなんだけれど、これが一筋縄ではいかないのだ。


「今日の澤村さんの話し聞いた~?」


 渡辺さんが、いつものようにニコニコ笑いながら言った。


「いや聞いてないです」


「またあの人やらかしてんで~。今日は夜勤明けやったんやけどな、利用者誰も起こしてなくってな、パット交換もしとらんかったみたいで、みんなオシッコまみれやったらしいねん。最悪やと思わへん?」


 はぁ?最悪なんでしょうね、多分。でも知らないよ、そんなの。同じ建物の中にあるとは言え、違う事業所なんだからさ。なのに渡辺さんは、とにかく澤村さんのことばっかり話して来る。またその話しが長い上に全然面白くないので、わたしとしてはできれば止めてもらいたいってわけ。仕事もあるしね。


「はい。そうですね」


 でもしょうがないので、わたしは適当に相づちを打った。


「やろ~、もう理事長に言うて、なんとかしてもらわなあかんわ。前の夜勤明けん時もそうやったらしいからなぁ。しかもな、朝の用意ちょっとしただけで、管理者の仕事があるからってさっさと事務所に行ってもうたらしいねん」


 めんどくせ~。なんで、そんな人の事業所のことをとやかく言うのよ?でもその理由はハッキリしている。渡辺さんは澤村さんを追い出したくてしょうがないのだ。なので理事長に、澤村さんのことを逐一報告しに行っているらしい。


「それは大変ですね」


 そう返事を返しつつ、大変なのはアンタの話しを聞かなきゃいけない今のわたしだよ、と言いたかった。


「そやろ~」


 それから長々と澤村さんがいかに困った人であるか、面白くもなんともない話しが続いた。仕事もせず、グダグダとなに言ってんの?ってなもんで、わたしにとってみれば渡辺さんの方が困った人なんだけれど、渡辺さんはそんなこと夢にも思わないようだ。


 わたしが渡辺さんの話しから解放されたのは、話しが始まって15分も経ってからのことだった。わたしは去り行く渡辺さんの後ろ姿を見ながら、わたしの方こそ理事長のところへ行って、渡辺さんによる澤村さんの文句が長くて業務妨害になってますって訴えたいくらいだと思った。


 その時だった――。


「人のことはほっとけ、と、仏さんが言うとう。あっ」


 また、例のおっさんの声が聞こえて来た――。


 



 





 


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