第14話 大変のバランス
あの勇者のぬいぐるみったら、夢にまで出て来たよ――。
朝起きて、お姉ちゃんのどこで売っているかわからない素敵そうなパンを食べながらわたしは考えていた。夢は明らかに昨日の続きだったんだけれど、お姫様と勇者のぬいぐるみはどう関係があるのだろう?そして、ゼメシナールで起きているという大変な事態とやらと、どう関連があるのだろう?
しかし今はわかりようもない。ともかく夜を待とう――。
――そして時刻は18時をすぎ、わたしは台所で食器を洗っている。
日勤は帰ってしまい、遅出の主任と2人だ。今のところ勇者のぬいぐるみが、なにかアクションを起こすことはない。それにしても空気が重い。わたしが現場に入ってここまでの1時間少し、主任と交わした言葉はほとんどない。まぁ元々主任は、基本的に職員とはほとんどしゃべらないんだけれど、注意だけはして来るからね。こちらとしては気を使うわ緊張するわで、疲れてしょうがない。はぁ~。
空気の重さに耐えながらわたしは急いだ。さっさと洗い物を終えて就寝準備に取りかからなくっちゃ、なにを言われるかわかったもんじゃないのだ。実際、1年半前くらいの話しなんだけれど、就寝準備をした人数が、主任5人に対してわたしが2人だった時、「比率が悪すぎます」って怒られたことがあるからね。4対3か3対4、このどちらかじゃないと、また地獄の声で「比率が悪すぎます」って怒られるに決まっている。はぁ~。
わたしは必死のパッチで食器洗いを終え、就寝準備に取りかかることにした。
誰から行こうかな?松永さんは今主任が部屋で介助してるみたいだからね、黒山さんから行っとこうかな。
「黒山さん!ちょっとこっちに来てもらっていいですか!?」
早速わたしは黒山さんに声をかけた。
「どぎょ行ぐの?」
例によって黒山さんが聞いて来た。「トイレ!!」ってデカい声で言いたいところなんだけれど、主任がいるのでうかつなことは言えない。
「ちょっと、あっちです!」
「あっちってどっぢ?」
やはりそう来たか。でも、やっぱりトイレとは言えない。しょうがないので、わたしはちょっと強引にトイレに連れて行った。
それからしばらくして黒山さんのおしっこが終わり、わたしたちはトイレを出た。するとフロアにいた主任が、キッと鋭くこっちを睨んだ。
え?なに?ビクッっとするわたし。
「中道さん、今月の目標はフロアの見守り強化だったですよね?」
主任が、地獄の底よりもっと低いところから出て来るようなすっご~い低いトーンで言って来た。確かにそうだけどさ、一体それがどうしたっていうのさ?
「はい」
戸惑い、恐怖に凍りつきながら返事をするわたし。
「僕が松永さんの部屋に入ってフロアに誰もいないのに、トイレ誘導に行かないで下さい」
早口でそう言ってから、主任はそっぽを向いてしまった。うげ~、こえ~、全身に悪寒が走る。それにしても、なんという感じの悪さだろう!
「すいません」
しょうがないからわたしは謝ったけれど、ムカッ腹が立ってしょうがない。だってさ、アンタが比率が悪いとか言うから、こっちは急いで行ってるのだ。ホントどうすればいいのよ!?
う~、ムカつく~。このクソ野郎、ホント死んでくれないかな――わたしは、そんなふうにいろんな恨み節を頭に巡らせながら、黒山さんの部屋に入って行った。
それからわたしは、黒山さんに歯磨きをしてもらったんだけれど、やっぱりムカついてしょうがない。ホント、あのクソ主任とは一緒に仕事なんてやってられないよ!確かに、言ってることは合ってんのかもしれないけどさ、そこまでキッチリカッチリなんてできないっちゅうの!
大体、フロアの見守りって言うけどさ、わたしが黒山さんのトイレに行ってる時にフロアにいた人なんて、山根さんを除けば、滅多に転倒しない人ばっかりだったじゃないのさ。その山根さんだって、テレビを見てて立ちそうな素振りなんかなかったしね。それなのに、なにが「トイレ誘導に行かないで下さい」だよ。そんなのほぼ言いがかりじゃない!今流行りのパワハラだよ!
わたしは怒りまくりながら、黒山さんのパジャマのボタンを留めてたんだけれどさ、さぁ留め終わりだというところで、ボタンを掛け違えていることに気がついた。げ、最初からやり直しじゃないのさ。えーい、もう面倒臭いな、なんかイライラする。それもこれも全部、あのクソ主任のせいだよ!アホ!
なんとか黒山さんに寝てもらうことができたので、わたしはフロアに戻ることにした。フロアでは、主任が杉浦さんと中村さんとしゃべっていた。主任は、わたしが部屋から出たのを見て、山中さんに声をかけた。
しかし山中さんは不機嫌で「トイレってなによ?」って怒っていた。あれま、これはトイレ誘導が難しい状況だぞ。しかし主任は、山中さんをあっさり立たせてトイレに連れて行った。トイレからは「なにすんのよ!」とか「アンタ誰や!」とか、山中さんの叫び声が聞こえて来ている。ほらね、案の定だよ、きっとえらいことになっていのだ。しかも山中さんは今、ぬいぐるみを持ってなかったからね、殴るつねるわで、手に負えないに決まっている。
わたしは、助けに行こうかとも思ったんだけれど、なんせ中にいるのが主任だからね。これが他の人なら助けに行くところなんだけどさ、下手に助けに行こうものなら「フロアに誰もいなくなるのに来ないで下さい」なんて地獄の声で言われちゃうかもしれないからやめておこう。なんせ「フロア見守り強化月間」だしね――。
しばらくして、パジャマ姿の山中さんと主任がトイレから出て来た。あれま、山中さんがあんな状態なのに、よく着替えさせることができたもんだね。主任以外ならあきらめてるところなんだろうけどさ、なにがなんでもやるべき時にやるべきことはするっていうのが主任流なのだ。
そして今度は、わたしが就寝介助をする準備になった。
さて、誰を行こうかな?――って、このチョイスが問題なのだ。今、主任は大変な山中さんを行ったわけだから、今度わたしが楽ちんな人を行っちゃうと「大変のバランスがおかしいです」なんて、地獄の声で言われちゃうかもしれないのだ。
となるとさ、山根さんしかいないんだよ。マグマの叫びの山根さんだ。こんな人こそ、1人で行くより2人で行った方がいいに決まってるんだけどさ、パートナーが主任ではそうもいかない――。
はぁ~あ、もうしょうがない。わたしは半分あきらめた気持ちで山根さんに声をかけることにした。
「山根さん、部屋にパジャマに着替えに行きませんか?」
「パジャマ?なんでそんなもんに着替えるんや?このままでええわ」
思ったとおり、すんなりとは行ってくれない。
「もう夜ですからね、寝る準備だけでもしとかないですか?」
「わたしまだ、寝んのやで」
「はい。寝なくてもいいですけど、パジャマに着替えてたら楽でしょ」
「着替えんでええわ、その方が楽や」
山根さんのずぼら振りは、やはりハンパではない。
「まぁそう言わずに、パジャマの方が楽でよく寝れますよ、はい、行きますよ」
わたしは、半ば強引に山根さんの腕を引っ張り、立ってもらおうとした。
「え~、嫌やなぁ」
すると山根さんは、嫌がりながらもあっさり立ってくれ、部屋に行ってすんなりとパジャマに着替えてくれた。よかった――わたしはフロアに戻ることにした。
あっ!――。
そこでわたしは、あることに気がついてしまった!山根さんの就寝介助が簡単に終わったことで、主任との大変のバランスが保てなくなってしまったのだ!やべえ。後、就寝介助で大変な人なんて、2人介助で行かなくちゃいけない五十嵐さんの「前」の担当くらいだ!
げ、マジで?夜勤入りのしょっぱなから、いきなり腰へ負担をかけなきゃいけないわけ?そんなに腰の具合がいいわけじゃないので、ちょっとこれは大変だぞ。
それからお互いに1人ずつ就寝介助を終わらせ、ついに残るは五十嵐さん1人となった。
いよいよだ。車椅子を押して行く主任、わたしはもう覚悟を決めて「前」を担当すると心に決めていた。しかし、もし主任に微かにでも心があるならば、「前行きます」って言ってくれるかもしれない。今はその可能性に期待するしかない。
トイレの前まで行き、わたしはドアを開けた。主任!今だよ!「前行きます」のタイミングはさ!
しかし残念ながら、主任は無言のままだった――。言って欲しくないことは言うクセに、言って欲しいことはなにひとつ言いやがらない――。しょうがない――「前」決定だ。はぁ~。
というわけでわたしは、必死のパッチで五十嵐さんを抱えて立ってもらった。く~、腰が辛いよ~。
それにしてもだよ、なんでこんなことをか弱いわたしがやらないといけないのよ。大変のバランスだかなんだか知らないけどさ、主任、アンタは男でガタイがいいんだからさ、こういうことは率先して行うべきじゃないの?
わたしは不満タラタラで頭の中がしっちゃかめっちゃかになりながら、五十嵐さんにパジャマに着替えてもらった。体がカチンコチンなので、なかなかうまく着せることができない。あ~イライラする。それでもなんとか着替え終わってから、主任を呼ぶべくブザーを押した。すると主任はすぐにやって来た。わたしは力を込め、再び五十嵐さんに立ってもらった。くぅ~、腰に来るなぁ~。
ふぅ~、でもこれで、なんとか五十嵐さんのトイレ介助は終わった。トイレから出ると、主任は6号室に五十嵐さんを寝かしに行った。ようやく一段落だよ――。
時計を見ると、時刻は18時55分になっていた。後30分もすれば主任が帰ってくれる。よし!後少しだよ!頑張れ!わたし!
なにをしようかな?今からやるべき夜勤帯の仕事としては、これまでの記録、トイレ掃除、椅子やテーブルを拭く作業、明日の朝ご飯の準備等がある。
まずはトイレ掃除からするか、なんせ「フロア見守り強化月間」だからね、主任がいるうちに終わらせておくのが賢明だもんね。もし下手に記録なんか始めたら、また主任に「僕がいるうちにトイレ掃除を先にして下さい」なんて言われかねないからね。ホント面倒臭いオッサンだよ。
「トイレ掃除入ります」
わたしは主任にそう告げ、トイレに入ろうとドアを開けた。
その時だった――。
「ゴチャゴチャと、いらんことを考えすぎとるな。こりゃあだいぶと危ういで。あっ」
今日ゼメシナールに来て始めて、例のヘンなオッサンの声が聞こえて来たのだ――。