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第10話 わたしは猛烈にイラついた

 時刻は12時。わたしは昼ご飯を食べ終え、山田さんは結局、鰆を全部平らげてしまった。それにしても、鯖の代わりは肉にしてくれっていうあの訴えは、ホントなんだったのよ。いよいよ意味がわかんない。


 ちなみに森川さんも今、無事にご飯を食べ終えて休憩に行ったところだ。マイスリッパをはいてたところを見ると、なんとか乾かすことができたみたい。


 昼食を食べ終え、利用者の口腔ケアを終えると、時刻はあっという間に12時半となっていた。口腔ケアを終えると、再びトイレ誘導だ。この時間のトイレ誘導も、早出が休憩に行ってしまっているので、遅出の山田さんとしなければならない。あ~あ。


 問題の山田さんは食器を洗っている。遅出はご飯を食べたら食器を洗うことになってるんだけれど、そんなの30分もあれば終わるはずなのだ。なのに、かれこれ40分は経っているというのにまだ終わっていない。なにをチンタラやってんの?って話しなんだけれど、おそらくは遅延行為じゃないかな?なんとかトイレ誘導に行かないでおこうというセコい作戦だよ。このクソヤンキーはそういうことだけには頭が働くのだ。ホント、頭に来る。完全になめてるよね。


 しかしなんせ時間がないので、とりあえずはトイレ誘導を始めましょう。まずは松永さんからだ。


 松永さんは93歳の爺さんなんだけれど、羨むばかりの色白もち肌の持ち主で、頭は綺麗にハゲている。いつも穏やかで、まるで仏さんのようなんだけれど、昔は奥さんに暴力をふるっていたらしい。しかし今は、いろいろ感情を抑える薬を飲んでいるせいか、いつも椅子に座って目をつむり、半分眠った感じですごしている。けれど唄を唄っていることも結構あり、今も椅子に座って揺れながら「月が出た出た~♫」と炭坑節を唄っている。


「松永さん、ちょっと来てもらっていいですか?」


 わたしは松永さんの隣りに行き話しかけた。


「え!?どこ行くんや!?」


 松永さんは唄うのを止め、ビックリするように言った。


「ちょっとそこまでです」


「そこまでってどこまでやの!?」


 いつもはすんなり行ってくれるんだけれど、今日はわりかしシャッキリ覚醒しているのか、疑問を投げかけて来た。たまにこういう時があるのだ。


「トイレです」


 わたしは正直に目的地を言った。


「トイレか!!丁度行こ思とったとこなんや!!」


 松永さんは、ビックリしたように会心の笑顔で言った。そうなの?凄い!グッドタイミングじゃない!


「よかった~!じゃあ行くぞ~!」

 

 わたしは楽しくなって、そのように呼びかけた。


「やるぞ~!!!!」

 

 松永さんが両腕を上げ大声を出す。こうして楽しく応えてくれるから、わたしは松永さんが好きだ。


「では立ちましょ~」


 わたしは松永さんに立ってもらうように促す。


「よいしょ~!!!!」


 松永さんは、かけ声も高らかに勢いよく立ってくれた。今日の松永さんは勢いがあるな。すかさずわたしは、松永さんの左脇に右腕を入れ、転ばないように支えながらゆっくりトイレに向かうことにする。松永さんは1人で歩けなくもないんだけれど、その歩行はチョボチョボでかなり危ういので、こうしてガッチリ支える必要があるのだ。


「京都~♫」


 わたしは歩きながら唄って呼びかける。


「おーはら♫さんっぜんっいんっ♫」


 松永さんが、その続きを大きな声で唄ってくれる。


「楽しそうでよかったね、松永さん」

 

 丁度近くを歩いていた渡辺さんが、ニッコリ笑って松永さんに話しかけた。渡辺さんは、こんなふうに楽しそうなのが大好きなのだ。


 わたしたちは無事トイレに着き、松永さんに便座に座ってもらった。パットを確認すると汚れてなかったので大丈夫、それではオシッコが終わるまでしばらく待ちましょう。


「松永さん、出ましたか?行きますよ~」


 しばらく待ってから、わたしは呼びかけた。だけれど松永さんの反応がない。あれ?おかしいな、さっきまであんなに勢いがあったのにな――。


「松永さ~ん!京都~!!♫」


 わたしは松永さんの両肩を持って、揺らしながら唄って呼びかけてみた。でもダメだ。まったく反応がない。実は、このように松永さんが突然なんにも反応しなくなることは、よくあることなのだ。だけれど、さっきまであんなにシャッキリ覚醒してたのになんで?って話しだよ。こんなに人って突然めっちゃ寝入れるものなの?


 まぁでも、こうして目の前でそのことを証明している人がいるんだから、人はいつなん時でも突然寝入ることができるのだろう。もうしょうがない。こうなってしまっては、松永さんはまあまあポッチャリしててかなり重いから、もはや1人では対応できない。まぁ、それはそれで、山田さんを呼んでやりゃあいいんだから、トイレ誘導させるいいキッカケになるか――。


 プルルルルル、ブルルルル。


 わたしはトイレにあるブザーを押した。すると、しばらくして渡辺さんがやって来てしまった。あれま、山田さんを呼びつけてやろうと思ってたのにさ、なんで渡辺さんが来るのよ?でもまさか「山田さんをお願いします」なんて言えないし、言ってる場合でもない。


「すいません。松永さんが動かなくなってしまったんで車椅子持って来てもらっていいですか?」

 

 仕方なくわたしが頼むと、渡辺さんは「はい」と返事して、すぐに車椅子を持って来てくれた。まったく看護師にこんなことさせといて、あのクソヤンキーは一体なにやってんのよ。こんなの介護の仕事でしょ~が――でも、そこに渡辺さんがいるのだからもうしょうがない。少々心苦しくはあったものの、わたしは松永さんの車椅子への移乗の助けを渡辺さんに頼むことにした。


「すいませんが、一緒に移乗手伝ってもらっていいですか?」


「うん、いいよ。私が左から抱えたらいい?」


 渡辺さんはニッコリ笑って快諾してくれた。なんかスンマセンね。


「はい、お願いします」


 わたしが松永さんの右から、渡辺さんが左から抱えて、持ち上げる体勢を作る。


「せーの!」


 2人で息を合わせて一気に持ち上げる。重たっ!なんと言っても、寝てて力が入ってないから重いのだ。それからなんとか2人で抱えながら紙パンツとズボンを上げた。よ~し、じゃあ車椅子に移ってもらうよ!


 よいしょ!


 そうして、なんとか松永さんを車椅子に移乗することができた。ふぅ~。


「ありがとうございます」


 わたしは渡辺さんにお礼を言う。渡辺さんは看護師なのに介護の仕事も率先してやってくれるので助かる。ただまぁ、そのおかげでなまくら介護職員が生まれることにもなってるんだけどね――。


「松永さん、さっきまであんなに唄っとったのになぁ」


 渡辺さんはそう言って、ニッコリ微笑んでトイレから出て行った。わたしも引き続いでトイレから出た。とりあえず松永さんにはベッドで横になってもらうことにしよう。


 トイレから出ると、山田さんはまだ台所にいて、なんかしているようだった。それを見たわたしは猛烈にイラついた。


「山田さん!!ちょっといいですか!!」


 わたしは、わりかし大きな声で山田さんを呼びつけてやった――。

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