第9話 ヘンな人
そんなにまるっきり余裕なんだったらさ、山根さんを起こすのを少しくらい手伝ったらどうなの?ってつくづく思っちゃう。山根さんがあんなにマグマみたいに叫んでたんだからさ、ちょっとくらいは気にしろって話しだよ、まったく――。
しょうがない、昼ご飯の用意を手伝うか――そう思った時、わたしはあることに気がついた。早出出勤者が、入浴介助から一向に現場復帰して来ないのだ。なにをやってるのだろう?ちょっと見に行ってみることにしよう。
コンコン。
わたしは脱衣所のドアを開けた。すると早出の森川さんが、椅子に座って自分のスリッパをドライヤーで乾かしていた。
「失礼します。ちょっとタオル借ります」
脱衣場に入るわたし。一応タオルを持って行くという要件を用意していたのだ。
「あ、はい。お疲れ様です。スリッパがちょっと濡れちゃいましてね。乾かしてるんです。エヘヘ」
森川さんが、わたしを見て笑顔で言った。え?スリッパが濡れたってどういうこと?わたしは思ったんだけれど、そのことにはつっこまずに返事をした。
「そうですか」
わたしは棚に置いてあったタオルを取った。それにしても、なんだってスリッパが濡れたりするのだろう?浴場専用のスリッパがあるわけで、自分のやつは脱衣場に置いていたら濡れるはずないんだけどな――。
う~む、謎だな――まぁしょうがないか、元々森川さんは謎だらけの人だしね。
そんな謎だらけの森川さんは、入社してからまだ半年くらいの30代半ばの男性職員だ。実際の歳よりは7、8歳若く見え、背が高くてスラッとしていて、丸坊主で優しそうな顔をしているんだけれど、謎多き変わり者だ。まずなんと言っても、今どき携帯電話を持っていない。基本的には純粋で優しいんだけれど、世間の潮流とかトレンドとか常識とか一切知らん顔って感じで、突飛な言動をすることが多い。趣味だって中国かなんかの難しい字体を書くことだし、好きな音楽だってベートーベンとかだしね。
そんな森川さんは、マイスリッパを乾かしていたせいで、現場復帰して来なかったってわけだ――。それについていろいろ疑問はあるけれど、まぁ、いつものことだししょうがない。じゃあ、昼ご飯の用意に戻ろうかな、と、脱衣場を立ち去ろうとしたその時のことだった――。
「そうそう。今日必殺技を思いついたんですよ!エヘヘ」
森川さんが、マイスリッパを乾かしながら会心の笑顔で言った。え?なに?必殺技?
「え?どんなのですか?」
「この前主任に、入浴介助終わるのが遅すぎるって注意されたんですけど、ついに早くする方法を思いついたんですよ!エヘヘ」
凄く嬉しそうな森川さん。よっぽど凄い必殺技なのだろう。
「どんなだと思います?」
「いや、わからないですね」
「聞きたいですか?」
「はい」
「なんと、実はですね!!なんと!!利用者が湯船につかってる時に、髪の毛を乾かすことにしたらですね、凄く早く終わったんですよ!!エヘヘ」
またまた会心の笑顔の森川さん。なんでもいいんだけどさ、声がデカイんだよ。しかしながら、いつもよりさらにデカい声から、驚くべき新技を編み出したっていう達成感のようなものがヒシヒシと伝わって来る。「なんと」を2回も使っているしね。
ただアレだよ――凄く早く終わったって笑ってるけどさ、アンタ今だに脱衣場にいるじゃないのさ。着替えもしてないし、相変わらずめっちゃ遅いんですけど――。
それにさ、電気器具を水にそんな近づけたら危なくないの?
「でもそれって危なくないですか?」
「なんでですか?」
「いやだって、もし間違って湯船にドライヤー落としたら、利用者が感電とかしないですか?」
「え!?そうなんですか!?」
えらいビックリしている森川さん。わたしも機械とか電気とか詳しくないんだけどさ、そうなんじゃないの?
「多分、そうじゃないですか?よくわかりませんけど」
「だったらダメじゃないですか!?」
「ダメじゃないですかね――」
「せっかく凄い必殺技思いついたと思ったのになぁ~」
悔しそうな森川さん。相変わらずスリッパを乾かしている。とりあえず、そんなヘンな必殺技を使うより、濡れるはずのないスリッパを濡らさないようにする方法を考えた方がよさそうだよ――。
ところで森川さん、その必殺技をまずわたしに言ってよかったね。これが他の人だったら、たちまちみんなに広まって、主任の耳に届いていただろうからさ。でもわたしは誰にも言わないよ。どちらかと言うと、わたしは森川さんの味方なのだ。面白いし、実は利用者のことを誰よりも思っているからね。
わたしがフロアに戻ってみたら、もう全員に昼ご飯が配り終わっていて、利用者が食べ始めていた。「ゼメシナール愛の家」では、利用者と職員が同じテーブルを囲んで食事することになっているので、わたしはカウンターに並んでいる職員分のご飯を取りに行った。
「この鰆のは山田さんのですから他の取ってね」
台所にいた調理師の神代さんが教えてくれた。はは~ん、どうやらあのクソヤンキーの野郎は、この鰆が気に入らなかったんだな。ところでそのクソヤンキーはどこ行ったのかな?
わたしは自分の分のお盆を持って行き、杉浦さんの前に座って食べることにした。別にどこに座って食べたっていいので、まぁ、なんとなくだ。
「よろしくお願いします」
わたしが席に座ると、杉浦さんがわたしに言った。
「はい。お願いします。いただきます」
わたしは手を合わせ、早速ご飯を食べることにした。
「ごちそうですよ。おいしいですからちゃんと味わって食べなさいよ」
なんかまるで先生が子供に言うかのような杉浦さん。ま、杉浦さんにしてみれば、わたしなんて子供みたいなもんなんだろうけどさ。
「ありがたや~ありがたや~」
わたしはちょっとふざけてやろうと思い、手を擦り合わせて拝んでオーバーに感謝して見せた。
山田さんが戻って来た。なんかちっちゃな黄色の巾着袋を持っている。なにアレ?あんなの今まで持って来てなかったけどな?わたしがちょっと不思議に思っていると、山田さんはわたしの隣りにその巾着袋を置いて、自分の分のご飯を持って来てから座った。そして山田さんは、昨日散々パチンコで負けて、ヤケクソになって飲みすぎたなんて話しを始めた。全部まったく興味がない。でも、しょうがないので適当に相づちを打っていると、いよいよ山田さんが巾着袋からタッパーを取り出したので、わたしは興味津々で、蓋が開くのをバレないようにチラッと見ていた。そこにはハンバーグが入っていた。なるほど、自分で鯖の代用品を持って来てたってわけか――。
でも、それって随分ヘンな話しだよね?だって自分でハンバーグを持って来てるんだったらさ、神代さんに肉を出せなんて文句言わなくたっていいじゃない。それに、入社して1年くらい経ったこのタイミングで、なんでまた急に、マイおかずを持って来ることにしたのかもよくわからない。わたしが疑問に思ってたら、驚愕の場面を目の当たりにすることになった!
なんと!山田さんが鰆にも箸を伸ばしたのだ!
ええ~!!結局鰆も食べるの~!!?
わたしはビックリして、思わず心の中で叫んでしまった。だって魚全般が嫌いで食べれないから、わざわざハンバーグを持って来たんじゃなかったの!?さっき神代さんにそうひつこく訴えてたじゃない。それがまさかの鰆食べだよ、そりゃビックリするでしょ?しかも、味見でちょいと一口、なんて程度じゃない。ガッツリ身を取って、そのふざけた口に持って行っているではないか――ヘンな人~。
あっ、そうそう。ヘンな人と言えばアレだ。森川さん。
全然、昼ご飯食べに来ないんですけど――まだマイスリッパを乾かしてんのかな?
ヘンな人~。




