言伝
結構長いです。二十分程で読めると思います。
瓶詰めにされた人形を、売れば金になるから、と、報酬の代わりに貰った。
稀にこういうことをしてくる奴がいる。迷惑極まりない、自分で売って現金だけ渡せ、と言いたくなった。実際言おうとしたのだが、どういうわけか、渡すだけ渡してさっさとどこかへ消えてしまったのである。路地裏は身を隠しやすい。普段なら追いかけていただろうが、その日はそれすらも面倒で、仕方なく大きめの瓶を鞄にしまった。
もうじき日が暮れる。この街にない質屋を、今から探すのは厳しいだろう。面倒な依頼だった為に、報酬の金で久々に外食をしようと思っていた。だというのに、財布の中は心許ない。外食の余裕はあるが、明日までそのままにするのは気が引ける。仕方なし、簡素な弁当を引っ提げて帰ることにした。
取引場所だった路地裏から、いくつも駅を通り過ぎたところ。井の中の都会に、俺の家はある。少し古びたアパートの二階、革靴を響かせ階段を上がる。最近鈴を付けた鍵が、金属音に紛れて小さく鳴いた。
「さて、どうしたもんかね」
時刻は午後の十時。隣人の生活音が聞こえ始める時間帯である。
冷えきった硬い白米を飲み込めば、胃の中まで冷やされるような感覚がする。夜はまだ肌寒さが這いずる時期、覚えるには嫌なものだ。掻き消すように温かい緑茶を手に取っては、部屋の隅に転がした鞄を横目に見ながら。一口、二口、嚥下させる。ぼやくように呟いてから、重くなった腰を持ち上げた。
この後は、風呂に入って、仕事の用意をして寝るだけ。それ以上の時間を作りたくはない、今朝は随分早起きをしたのだから。眺めるなら食べながらで充分。行儀悪く煮物を咀嚼しながら鞄のファスナーを開ける。
瓶の蓋がのっぺりとこちらを向いていた。金色の蓋、何も書いていないそれを掴んで取り出す。
「どこにでも居そうな顔してんな、こいつ」
取り出した瓶の中に座り込んでいる、球体関節の人形。短い黒髪に、白いシャツと水色のベスト。薄茶色のズボンを履いている。固く閉ざされた瞼の向こうには、きっと綺麗な色があるのだと、なんとなく思った。
確かに売り物にはなるだろう。なるだろうが、そんなに高値で売れるだろうか。からん、瓶を揺らして人形を倒してみる。膝を抱えたまま横になった人形の姿を、隅々まで見ても作り手の名前は見当たらない。
無名。やはり追いかけてでも現金で取引させるべきだったか。これで安かったらどうしてやろう、次会ったときは爪を剥いでやろうか。
瓶を机の上に置き、添える程度の漬物を口に放り込む。ぱり、ぽり。静物を眺めるのは向かないと自覚している。芸術を愛せる感性は持ち合わせていないのだ、それ以上を考えるのは無駄なことに思えた。空になった弁当の蓋を閉じ、手を合わせる。
腹が膨れれば眠気にくるまれる。面倒くさい、は天敵だ。風呂は明日の朝でいいかと、仕事の用意もそこそこに、早々に布団を敷いて寝てしまった。
『夢というのは不思議なもので、それがどれだけ現実に有り得ないことであろうと、当たり前であるかのように受け止めてしまうのである』
その日俺は、瓶詰めの人形と話す夢を見た。サイズはそのまま、小さくて、けれど球体関節は見当たらなかった。人形というよりは小人に近いだろうか。真っ直ぐ、自分の意志で立っていた。
まるで、泥棒が宝石を隠したようだと、思わずにはいられなかった。ペリドット、だろう。エメラルドよりも繊細で、新芽よりも幼げな瞳をしていた。
「はじめまして、こんばんは」
挨拶は簡素なもので、それでいてどこか電子的な声だった。高く無機質で、機械が精一杯の抑揚を表しているような、不思議な声。見た目は中性的だが、声は少年寄りだろうか。不快だとは思わなかったが、もっと人に近いものだと思っていたから意外だ。
「お前、喋れンのか」
俺の最初に出た言葉が、これ。現実ならひっくり返って驚いているだろうが、夢の中の俺は何処吹く風だ。
「はい、話せます」
「作り手の名前がなかったが、作りモンか?」
「一人で作られたものではありませんから、名前は入れられていません」
「へえ」
話は川の如く流れ進んでいく。テンポの良い会話は好きだが、こういうことじゃない。いや、それどころじゃないだろう。ツッコミを入れたいところばかりだというのに、夢とは以下略。
「あの、私、貴方の名前が知りたいです」
「なんで」
「なんとなく」
いい加減にも聞こえるような言葉は、人間味がするようで少し安心した。機械とは程遠い見た目だが、人でないものの声というものは、無意識の下の方で警戒心を掻き立てる。
「奈良坂だ。奈良坂鴇」
「トキ、は知っています。鳥ですか?」
「そう」
「人間なのに?」
その一言に吹き出した。小学生の頃の俺がほんの少しだけ思ったこと、と同じことを言っている。成程、言葉遣いは大人っぽいが、考え方まで同じなわけではないらしい。
「そういうお前の名前はなんなンだよ」
「卯の花、です」
「ぶはっ」
人のことを言えない話だ。卯の花は確か、ウツギかなにかの花の名前だった気がする。俺はなにがそんなに楽しいのかと言うほど、げらげらと腹を抱えて笑った。夢の中でも、こんなに笑えるものなのか。起きてからそんなことを思った。
「卯の花は、綺麗な花らしいです」
「く、はは。あー、知ってるよ。白い花だ」
「見たことがあるのですか?」
「ん、近所の公園に咲いてた」
笑いがおさまれば思考回路が動き出す。はて。引っかかる言葉があった。
「綺麗な花、らしい、って?」
「ええ、見たことはありません」
「誰かに聞いたのか?」
「はい。色んな人が知っていました」
話が読み込めなくて首を傾げた。色んな人、とは、作り手達だろうか。それとも──
目が、覚めた。
「…………なんだ、今の」
唐突に川が途切れたようで腑に落ちない。止まっているエスカレーターに足を踏み出した感覚だ。
気が付けば夜が終わろうとしている。輪郭を溶かすような夜明けだ。小さな時計の針の音が聞こえる。まだ起きるには早い、が、夢が気になって仕方がなかった。
あれは夢だ。幽体離脱をしたとか、別の次元に足を踏み込んだとか、そういうものじゃない。憶測が勝手に作り出した自分の記憶だと、疑うことすらしなかった。否、そんなことよりも。
「……お前、卯の花っつーのか」
夢の中での言葉を覚えるのは珍しい。その名前は鮮明で、境目が曖昧になった部屋の中でもくっきりと見えた。
返事はない。それでも、なにか、人知を超えたものだと感じた。所詮は自分の憶測だろうに。矛盾した思考に触れながらも、確かに高くは売れるだろうと思った。
二度寝をしても、人形は夢に出てこなかった。
「それ呪われてんじゃないすか?」
仕事の昼休み、話を聞いた部下はそう告げた。
「呪い、つってもなァ」
「動いたりしてないんすか?」
「夢ン中だけだな」
寝る前、瓶を揺らして倒した人形は、起きたときも同じ格好で転がっていた。瞼は閉ざされたままで、何度か話しかけてみたものの返事はなく。思い返せば、人形に語りかける中年のジジイは中々ホラーだ。
「じゃあ単なる夢、とか?」
「わからん」
昨日、人形を渡した依頼人に電話をかけても繋がらなかったのだ。おかけになった電話番号は、あー、面倒だ。なんだというのだ、俺の今日の晩飯もきっとコンビニ弁当だ。
「まあ、長いこと置いとくのは止した方がいいでしょうね」
「害を加える気はありませんよ」
部下の言葉を伝えたものの、人形の返事はあっさりしたものだった。
二度目の夢は、一度目よりも自分が現実に寄っていたように思う。簡単にいえば、起きたときのツッコミどころが少ない。そんな感じだ。
「私は、なにもしません」
「夢の中でしか、俺になにかをしてこない、か?」
「夢の中ではなんでもできますが、そういうことです」
たとえば人形が呪われていたとして、この言葉が欺瞞である可能性は否めないだろう。けれど、俺にそれを確認する術はない。塩や日本酒でも置いておけばいいのだろうか。
「でも、身体がなくなったら、どうなるかわかりません」
「身体、って、関節が球体の方か?」
「はい。恐らくは死にます」
家の電気を消し忘れていました、みたいな声だった。そんな、当然のことみたいに。こいつにも死の概念があるのか。まだなにも知らない、のに。
「怖くは、ねえのか」
「怖いというよりは、寂しいです」
「寂しい?」
「もう、誰とも話せなくなるのが」
憂うような、そんな声は出せないようだった。ペリドットが一際淡く輝くのを見たとき、そいつの感情に触れるまでは、唯の人形だった筈なのに。
売るのは、少し経ってからにしようと思った。
試しに、瓶の蓋の上に盛り塩をしてみた。
「机の上が白い粉塗れでしたが」
危ない言い方をされたのでやめた。
「あの人形、まだ売ってないんすか?」
「ああ」
部下の愛妻弁当がいつも羨ましくなる。コンビニ弁当に食傷して長い。俺もプチトマトが食べたい。
「俺、窶れたように見えるか?」
「いえ、全然」
「じゃあまだ無害だな」
「その言い方だと危ないようにしか聞こえねえっすよ」
この前の俺と同じことを思っていやがる。プチトマトをひょいと摘んだら、ぎゃあ、なんて声が響いた。
「今日は帰りが遅いですね」
「ああ、依頼が入ったからな」
人形が名乗ってから、一週間と少しが経っていた。話はいつも少しずつで、俺は一つ、その性質について知ることが出来た。
「依頼?」
「そう、副業ってやつだな。収入がいいンだ」
卯の花は、色んな人の所有物になっていたらしい。持ち主を転々としながら生きている、というのだ。その折々で色んなことを知ったのだ、と。動けも話せもしないが、見えてはいるから外の世界は知っているのだ、と。動けないくせにどうやって、純粋な問いかけは流されてしまった。
「どんな仕事ですか?」
「人に依頼された内容を、依頼人の代わりに執り行うだけだ」
卯の花の言葉はいつも同じ色をしている。時々、前の持ち主について話すときも。俺の愚痴を聞くときも。少年に近いが、無機質な声。
俺に聞かれれば答える。聞かれたら、俺も答える。それこそ無機質な、至ってありふれた、そんな時間は心地が良かった。
「今日はなにをしてきましたか?」
「んー、さあなァ」
「内緒ですか?」
「そう、内緒」
「ふふ」
表情はいつも柔らかくて、けれど俺もいつか、この人形を手放す日が来るのだろうと思った。それはどこか寂しくて、売り払うなんてことはとっくに頭の中から消え去っていた。
未来の俺の寂しいという感覚は、きっと口では説明出来ない。
それは、ある種の逃避だったのかもしれない。
「……そう、鴇さん、人を殺したんですね」
俺の夢なのだから。
バレたとして、なにもおかしくなかった。
だから、だって、だけど、早く、消さないといけないのに。
人を壊すのは、然してもなかった。
「ありがとうございました。これ、お代です」
ほんの簡単な仕掛けで、事故は起きる。簡単に病気は起こせる。新聞にも乗らないような、些細なもの。
彼奴が邪魔なんだ。あの人が居なければ。あの男の脚さえ折れれば。あの女が消えてくれないと。あんな子産まなければ。
「……確認した。じゃあな」
細い封筒に入れられた札束を見遣ってから、路地の奥へと足を向ける。真っ黒、どこへ通じているかわからないような道を、一人で。革靴の鳴き声が響く。自己顕示のようなそれを聞くのは、二人で。
背後から、声が落ちる。
「貴方は、どうしてこんなことを」
天井を見上げながら響いた声は、時計の針に潰されていく。午前五時。また、境目の曖昧な世界にいる。
「…………しるかよ、んなこと」
こめかみが濡れていくのが、この上なく気持ち悪かった。
その日の夢は、聞き慣れない音色から始まった。
「鴇さん、私はなにもしませんよ」
かつて聞いた言葉が繰り返される。対し、流れていく音は、高く透き通るような笛の音。こんな音が、夢の中で流れたことがあっただろうか。
奏者は見当たらない。どこから聞こえるのか、上澄みを掬うように、透明な音が鼓膜を揺らしている。
「この音、落ち着くでしょう?」
「…………」
「貴方が恐れていること、どれもしません」
卯の花は、座り込んだ俺の前に立つ。音色は俺の疑心を宥めすかして薄くさせる。どうして、こんな音を聞かせるのだろう。嗚呼、駄目だ。
「だから、大丈夫ですよ」
俺を見上げる目は、俺には不釣り合いな程うつくしい。
ああ、嗚呼、わかっているのだ。こんなことをして、自分が汚れていくことを。親に顔向けも出来ないような、咎められることなのだと。本当は、やりたくなんて、なくて。
でも、出来ないわけではなかったから。
たった、それだけの理由で。
「怖いことなんて、なにもしません」
笛の音が響く。空に昇っていく、高く、うつくしい音。駄目だ、これ以上聞いていたら、弱くなる。
それでも、耳を塞ぐことが出来ない。卯の花の声までが、こんなに暖かく響いてしまう。夢の中までも輪郭が溶けてしまう、溶けていく。そうだ、わかっている。わかっていたのだ。
ただ一言、大丈夫だと言われたかった。
「だから、泣かないでください」
子守唄のような音色と、子守唄みたいな声。年に似合わず徹夜なんてものをした身に、それはゆっくりと染み込んでいく。
目が覚めたのは、境目がすっかり見えるようになった頃だった。
それから、俺と卯の花は沢山話をするようになった。家に居る時間の大半を眠りに当て、休みの日は依頼も受けず卯の花と話し続けた。
卯の花は時折あの笛――縦笛と思っていたが、曰くフルートらしい――の音を聞かせてくれた。俺が気に入ったことを察したらしい。フルートは存外低い音を出せること、低い音も真っ直ぐで聞きやすいことを知った。益々夢の居心地は良くなって、卯の花はいつだって穏やかな時間を与えてくれた。
別れたくないと思っていたのが、もう随分と昔のことのようだ。この幸せがあれば、それだけで生きていけるとすら思った。
「そういや、この音ってお前が演奏してンのか」
何度聞いたかわからない音に意識を向けながら、ふと思い浮かんだ疑問。卯の花は夢の中ならなんでもできると言ったが、演奏なんてできるのだろうか。
「いいえ、私の音ではありません」
違ったようだ。ならば誰の音なのだろう。思っていることがそのまま顔に書いてあったらしい、尋ねるよりも先に答えが返ってきた。
「私が、一年前にお世話になった人です」
思いを馳せるように、卯の花は天を仰いだ。キラキラと輝くペリドットはいつの間にか、琥珀のような色合いになっている。そういえば、昨日もこれに近かった。日によって変わるものなのだろうか。
「彼女は、フルートの奏者でした。これは、私が幾度となく聞いた演奏の一つです」
タイトルをいくつか教えてもらったが、どうにも知識が足りない。流行りの歌なんかはあまり演奏しなかったらしいから、知らなくても無理はありません、と気遣われた。よくわからないが、こういう音なら確かに、アップテンポの曲は似合わないだろう。
「フルートってこんな綺麗なのか。プロか?」
「いいえ、アマチュアです。職業は裁判官でした」
「バケモンかよ」
率直に思ったことだが、卯の花はくすくすと笑うだけだった。だってそうだろう、どこがどうと問われれば難しいが、楽器の演奏が簡単なわけがない。練習場所だって限られるかもしれない。だというのに、裁判官だと。六法全書でも食べてんのか。
「とても賢い方で、私の作り手の一人を見つけた方でもあります」
「見つけた、って、お前を見ただけでか?」
「いえ。でも、名前や歳はおろか、作られた時期や場所すら、私は明確に教えませんでした。なのに、知られていました。気になったみたいで」
今日の卯の花はいつになく饒舌だ。彼女とやらの素性も気になるが、卯の花がどこか楽しそうに思える。俺と仲が良くなったからなのか、そいつのことが好きなのか。はて。
こいつにも、好きという感覚があるのだろうか。
「作り手、俺が聞いても教えてくれンのか?」
「内緒です」
「内緒か」
「ふふ」
嗚呼、それもいいかもしれない。卯の花がこんな風に笑うのなら。人になりたがろうとはしなくとも、人と話すのを好きだと笑うこいつが、誰かを好きになれるなら。
「その彼女とやらの名前、は?」
「それなら教えられます」
「いいのかよ」
好きな人について話したがる、小さな小さな、幸せという感情を。卯の花はこの日、確かに人だった。
卯の花が家に来て一か月が経った。
ペリドットは少しずつ色を変えていて、今ではガーネットのような色合いになっている。カウントダウンのようだと、なんとなく思った。なんのカウントダウンか、なんて、野暮でしかない。
「鴇さん、今日はなんの話をしましょうか」
「んー、そうだな……」
なにを話せばいいかわからなくなっていくにつれ、俺は彼女のことを聞いた。
名前はぎんじょうさつか。誾城沙束、と書くらしい。歳は三十路、都内のマンションで一人暮らし。フルートの他にもピアノやクラリネットを演奏出来る。本を読むのが好きで、ときには外国語の小説も読む。日本食が好きだが、作ることに関しては洋食の方が得意らしい。
聞けば聞くほど超人の意味を知らされる。十も年が離れているのに、ここまでくると最早妬みも感じないというものだ。
その代わりに浮かぶのは、親近感に似た何か。話を聞くだけで手に取るように伝わる。彼女が俺と同じように、卯の花と話すのを楽しんでいたことを。心地が良くて、話を聞くのが好きで、けれど聡かったことを。
「じゃあ、お前が誾城から聞いた本で、面白かったのを教えてくれよ」
「はい、わかりました」
笛の音は細く、切ない。貴方も俺と同じことを思っていたのだろうか。なあ、誾城沙束。
その夜、俺はウツギの花を一房、手折ってきた。
グラスに生けた真っ白の花と、少しの葉が机の上の彩りと化す。卯の花は銀朱の瞳を細めて一言、綺麗ですねと微笑んだ。なにもかもがうつくしかった。
明日には、もう終わりが来るのだろう。
「なあ、卯の花」
「はい、なんでしょう」
俺と卯の花は横に並んで話をする。鮮やかに、鮮やかに、染まったのか、それが本当の色なのか。
「最後の日、誾城は、お前と何を話した?」
「…………」
俺がわかっていることを、卯の花はわかっていたのだろう。ゆっくりと目を伏せ、言葉を探すように沈黙を差し出す。
最後に話すことは決まっていた。だから、これはその前置き。聞きたいことも話したいことも、聞いてほしいこともなにもかも、もうすっかり済んでしまったのだ。
けれど、前置きは時として脱線する。
「……彼女との最後の日は、最後の日ではありませんでした」
暗く落ち込んだ声が、言葉のちぐはぐさを色濃く映し出している。最後の日では、ない。
俺は、言葉を待った。卯の花は両手で顔を押さえた。小さな手が、小さな表情を覆い隠してしまう。まるで人が泣くように。
「……私の目は、色が変わっていきます。色が変わるのは、人から貰った時間が溜まった合図です。夢という時間を貰うことで、現実の世界を歩けるようになります。私は、そういう生き物です」
ぽつり、ぽつり。雨が降り出すような音で、卯の花はゆっくりと口を動かす。時間を貰って生きていく、生き物。ああ、もしかしたら。もしかしたら、俺が普段見ている夢も、誰かが暮らしていく糧の一部になっているのだろうか。
「時間が十分に溜まったら、自分の意志で歩いて、遠くへ行くことができるのです。けれど、あの日、……私は、それを待てませんでした」
声は震えている。それでも、話すことをやめようとはしない。
「……あの日は、コンクールがありました。ずっと、沢山、練習をしていました、彼女は。同じ楽団の人達を鼓舞し、励まし、コンクールに向けていくつもの努力を続けていました。才を持つ彼女の弱さを、私はそれを、知っていました。
様々な彼女の音を、聞いたことがあります。悩乱に惑う言葉も、爛漫に奏でる言葉も聞きました。彼女は、自分の音で、誰かを動かしたいと言っていました。プロでなくても、人のなにかに刺さるような音を、作りたいのだと。
それが出来上がるのが、ずっと楽しみでした。練習では聞けない、心を刺すような音を。コンクールなら聞けるのでしょう、彼女の作る音楽をこの耳で聞きたいと……、何度も、何度も思いました。私は、願い過ぎました。私は、私の願いを、叶えてしまったのです。我慢するつもりだったのに、あの家で、噫、彼女の帰りを待つはずだったのに」
顔を隠していた手が力なく下ろされる。下ろされた先にあったのは、赤い、紅い、双眸。深く吸い込まれそうな瞳には、姿を知らない彼女が映っている。白い陶器のような肌、長い睫毛に縁取られた卯の花の瞳は、この世で一番のなにかだとすら思えた。
「……人の姿を借りたとして、人の目に、彼女の目に映ることなんてないのです。一度人の姿を借りれば、同じ人には人形として会えなくなるのです。それでも私は、コンクールに向かってしまいました。彼女の、彼女が作り上げた人達の音を、どうしても聞きたかった。聞きたいと、思ってしまった、お慕い申しておりました、彼女を、待っていなければ、なのに! 私は、私は、彼女にただ、おめでとうと言いたかったのに!」
卯の花の声は、今にも壊れそうで尚、誰よりも強く響いていた。
うつくしいなにかの、うつくしくないなにかが、どれほど愛おしいものであろうか。嘆きを押し殺すことの強さの、どれほどしたたかなことか。ただひたすらに愛したものを、愛せないことの切なさを、卯の花は涙すら流せないのに。
「だからお前は、俺に教えてくれたのか」
ようやっと、溜飲が下がった。
「誾城沙束、だろ。名前と歳、住んでる県に職業か。ハンデにしちゃ多いが、知っちまったモンはしょうがねえ」
何故、彼女のことを教えてくれたのか。卯の花は、聞けば答えてくれるとはいえ、聞かれなければ話そうとしない。
卯の花は、俺や持ち主の人生に、大きく影響を与えることを嫌っていた。それは作り手の存在を話すことだったり、持ち主の素性を話すようなことだったりする。俺が卯の花を壊さないのは、依頼について、他者に話さないだろうと確信しているからだ。
「俺ァ最後にはな、なにか出来ることはねえか、って聞こうと思ってた。俺に出来ることが、お前が後悔してることがあるなら、なんだってしてやろうと思ってたンだ」
だからこそ、誾城について話をする卯の花には驚いた。最初は、まさかもうこの世には、とすら思った。けれど調べればその名前は出てきた。調べたことならあるのだ。探しこそしていないが、見付けられる自信ならある。
他の誰もが知るのを躊躇うようなことを、俺はいくつだって知っているのだ。
「伝えてやるよ。お前が言いたかったこと、思ってること。全部」
終わりが近づいてくる。すぐそこで、急かすように俺達を手招きしている。
「大丈夫だ、卯の花」
楽しかった。この時間が好きだった。けれど、それで終わりになんてさせてやるものか。
「だから泣くなよ。お前が泣いてたら、誾城に卯の花が泣いてたって言っちまうぞ?」
繋いでやるのだ。俺が、卯の花が、此処を過ごした証を。
「ふ、ふふ、……鴇さんは、泣き止ませ方が下手ですね」
「んん、そうか?」
「そうですよ。ふふ、楽しい人」
「お前こそ」
手招きをしている。もう、すぐそこに来ている。
「……鴇さん」
「礼ならなしだぞ。真っ当な手段使うわけじゃねえからな」
「それでも言いたいんです」
「やなこった」
「ありがとう」
──嗚呼、頑固な奴。どこにでも居そうな顔のくせに、機械音声みたいな声のくせに。真っ直ぐで、あたたかくて。繊細で、欲深くて──誰よりも、うつくしい生き物。
明け方、短い夢を見た。聞いたことのある曲が、コンサートホールに響いていた。
突き刺すように真っ直ぐ響くトランペット、包み込むようにあたたかなピアノ。繊細な旋律を奏でるヴァイオリン、一番に向かって欲深く振るわれる指揮棒。
どの楽器よりも、フルートの音は高く、丁寧で、──本当に、なによりもうつくしかった。
卯の花が居なくなっても世界は変わらない。俺は変わらず会社に通うし、部下の弁当にはプチトマトが入っている。公園のウツギは白い花を咲かせるし、空っぽの瓶は結構な値段で売れた。
夜行バスのチケットを買うことは出来るし、一人で知らない人を訪れることだって出来る。
世界はなにも変わらない。卯の花が居る世界は、いつだって同じ音が響いている。
「奈良坂鴇と申します、こんにちは」
だからこそ、俺達は繋がっていられるのだ。
「はじめまして、誾城沙束さん」
はじめまして。
名前を変えようか悩んでます、作者です。
変えるかもしれない。んー。