盲目の姫の花嫁衣裳
都からはるばる旅してきた姫をひと目見て、彼は内心で落胆の溜息を吐いた。仮にも王の娘だというのに、花嫁となるべく送り出された方だというのに、姫が纏う衣装は質素そのもの、花嫁衣裳らしい点といえば、白一色というところだけだったのだ。金糸や銀糸の刺繍はおろか、宝石のひとつも飾られていない。盲目の姫は父王にさえ冷遇されているという噂は、どうやら紛れもない真実だったようだ。見えないのだから衣装に金をかける必要はないだろう、という王の声がはっきりと聞こえるようだった。
(やはり、厄介払いでしかなかったか……)
彼が治めるこの土地は、都からも主要な街道や国境からも離れた純然たる田舎だ。これといった産物もない。王が持て余していると聞いた姫を引き受ければ、あるいは何かしらの恩を売れるかとも思ったが、これでは期待外れに終わるかもしれない。簡素すぎる花嫁衣装は、姫だけでなく彼とこの地への侮りでもあった。たとえ田舎者が気分を害したとしても、都や、まして外つ国まで醜聞が届くことはないだろうと見積もられているということだから。
(見た目は、美しいようだが)
薄いヴェールから透ける姫の頬や顎の線は細く整っていて、白い肌に淡い色の髪と併せて繊細な美を窺わせる。もしも両目に光があれば、誰からも望まれ、豪奢な衣装と盛大な式で婚礼を祝われていただろうに。だが現実には、この方は打算によって片田舎に送られることになったのだ。
「ようこそお出でくださいました。尊い方を伴侶にできる光栄に、うち震えております」
他人事のような、しかも無礼な品定めは、もちろん口にすることはしなかった。表情には滲んだかもしれないし、花嫁の前に膝を突く所作もやや雑なものになったかもしれないが。とにかくも、姫がそれに気づくことはないだろう。
花嫁の目が閉ざされているのは新郎新婦の双方にとって幸いなのだ。花婿は声音だけを取り繕えば良かったし、花嫁は夫となる者の失望の顔を見ずに済んだ。婚礼を祝うべく集った民が戸惑う姿も、彼女に付き従う乳母や侍女が屈辱に歯噛みする姿も。
どこかぎこちない雰囲気の式の間、花嫁だけが幸せそうに微笑んでいた。
形ばかりの式と宴がはねた後、寝室で新妻と二人きりになった彼はひたすら当惑していた。両の目を閉ざしたままの頼りなく華奢な方にどのように触れれば良いのか、光を持たない方に何を語りかければ良いのか分からなかったのだ。宴の話をしようにも、この方は料理や参列者のことをどれほど、そしてどのように理解しているのだろう。
「我が君、わたくしの衣装を自慢させてくださいませ」
「無論です」
姫の方からそのように言い出した時も、安堵は一瞬、彼の胸にはすぐに新たな不安が芽生えた。
ヴェールを取り去った姫の尊顔は確かに麗しく、それでいて得意げな微笑みには愛らしさもあった。しかし、何しろ自慢の衣装とやらは白一色の簡素なものでしかないのだ。侍女たちはこの方に何と言って聞かせたのだろう。豪奢な衣装だと嘘を聞かせるのは優しさかもしれないけれど、彼に上手く話を合わせることができるだろうか。
彼の無言の戸惑いは、無論姫の知るところではない。夫となった者の答えを聞いて、姫は嬉しそうに笑みを深めた。
「どうか、ご覧になって――」
見ろと言いながら、姫は、けれど彼の手を手探りに取って衣装の長い裾に触れさせた。彼女にとって見るとは触れることなのだろうか。そして、ひたすら白いだけと見えた衣装の表面に細かな凹凸があるのを感じ取って、彼は指先を跳ねさせる。
「見事な刺繍でございましょう?」
「え、ええ……とても……」
顔をよくよく近づけてみなければ分からなかっただろう。白の生地に、白の糸で。姫の花嫁衣裳には、それは精緻な刺繍がほどこされていたのだ。その存在に気付いてなお、燭台のささやかな灯りのもとでは何が描かれているかを見極めるのは困難だった。だから――目より、指先の方が、よく視える。
驚きに息を呑む彼の手を導いて、衣装を手繰って、姫は刺繍の一つ一つを説明していく。
「地に根を伸ばした種が芽を出し花を咲かせます。花の色と香りに鳥や蝶が集い、実れば民の恵みとなります。男たちが振るう鋤、女たちが紡ぐ糸。騎士の剣が彼らを守ります。誰も一人で生きるのではなくて、王侯もただ城に居て奢るのではなく、人と自然の営みの中に――」
目で捉えるのは難しい物語が、指先の感覚によってだけではなく、姫の言葉によっても色鮮やかに浮き上がった。刺繍の見事さだけでなく、生地の向こうに感じる姫の身体と熱によっても、彼の鼓動は速まる。
彼にとっては幸いなことに、胸元の膨らみが始まるちょうど手前で姫の指は止まった。そこは刺繍が綴る物語の終わりでもある、王が住まう城の尖塔の、その切っ先。そこまでを辿り終えると、姫は彼に微笑みかけた。
「お父様がわたくしへの支度を惜しむだろうと、お母様たちは早くから悟っておられました。だから長年かけて用意してくださったのです。華美が許されぬなら、見えないなりの贅を凝らそう、と。だからひと針ひと針丹精してくださいました。わたくしが覚えるべき心がけを教えながら」
「それは……」
「ものの役に立たぬ身ではございますが、せめて道を誤ることはなきよう、常に正しい助言を差し上げられれば、と存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます」
深々と頭を下げられて、彼は答えることができなかった。自身に恥じ入って舌が凍りついてしまったのだ。父王の軽侮だけでない、彼の落胆もきっと感じ取ったに違いないのに、この方は微笑んでくれたのだ。
侍女たちの渋面の理由も、こうなると色合いが変わってくる。これほど細かな刺繍だ、仕立てた者たちにとっては決してみすぼらしい婚礼ではなかったはずなのだ。姫の晴れの日を盛り立てることができなかったのは、ひとえに彼の打算と落胆のため。姫を迎えた彼の不明にこそ、女たちは憤っていたのだ。
(私こそ、何も見えていなかった……!)
「御目を……見せていただけるでしょうか」
「え……は、はい」
悔恨に震える声での突然の願いに不思議そうな表情を見せつつ、姫は初めて彼に目蓋を開いてみせてくれた。現れた空の色の目は澄んで美しく、純白の衣装には何よりの装飾とも見えた。彼の口から漏れる深い息は、今は感嘆の調子を帯びていた。
「指輪を用意しておりましたが、御目の色に合わぬようです。もっと良いものを、すぐに手配いたしましょう」
表情を見られることがないことに、先とは別の意味で安堵しながら彼は嘘を吐いた。指輪を用意していたのは真実だが、王と同様、見えぬのだからこの程度で良いだろうという考えのもとに見繕われたものでしかない。そのようなものは渡せない。触れても楽しめるよう、細かな彫刻を施して、この目に合う色の――この心にそぐう輝きの宝石を探さなくては。目に見えるものだけが全てではないのだと、彼はこの方に教えられたばかりなのだから。
「必ず、幸せにして差し上げましょう」
出会った時の不敬と非礼を償って、その上で心からの親愛と尊敬をこの方に注ごう。そう心に誓いながら、彼は新妻の細い身体を抱きしめた。