魔女と羽根ペン
「さっき伊澄君と話していて思ったの。これを伊澄君にあげれば面白い反応が見られるんじゃないかって」
少し愁いを帯びたエメラルドの瞳を細めて、いきなり何を言ってやがるんですかこの人は。
燦々と降りしきる日の光がじりじりとアスファルトを焦がしていく中、僕は昨日歩いたばかりの道を一歩一歩なぞるように辿っていた。
昨日と違うのは二つ、ケーキの箱を持っていない事と、額に玉のような汗を浮かべている事。
いや、額にと言うよりはむしろ全身にと言った方が良いかもしれない。
ワイシャツが汗ではりついて気持ち悪い事この上ないけれど、もうじき目的の場所に辿り着くからあと少しだけ我慢するとしよう。
そんな事をつらつらと考えているうちに到着したようで、青々とした緑が僕を出迎えてくれた。
木陰特有のひんやりとした空気を全身で味わい、額に浮かんだ汗の雫をスラックスのポケットから取り出したハンカチで拭う。
別に汗だくのままで入っても彼女はいっこうに構わないのだろうけど、何故か僕は扉の前で軽く身だしなみを整えた。
一息ついたところで取手に手をかけ、ゆっくりとドアを開ける。
中の様子を確かめるように顔だけを覗かせると、
「あら、伊澄君。今日はまた、一段と早いのね」
カウンターの奥で椅子に座ってなにやら本を読んでいたらしいリカさんから声をかけられた。
「今日は特に予定がありませんでしたから、学校終わってそのまままっすぐここに来たんですよ」
店内へと入った僕は、後ろ手でドアを閉めつつ言葉を返した。
「あら、嬉しいわ。私との約束は、伊澄君の中でそんなにも優先度が高いのね」
言葉通り顔を綻ばせながら、リカさんは椅子から立ち上がった。
そして、カウンターの裏を覗き込むようにかがみ、なにやらごそごそと手を動かしている。
そんなリカさんの様子を横目で見ながら、僕はカウンター脇のテーブルに鞄を置き、ほとんど定位置となっている入口側の椅子に腰を降ろした。
あぁ、やっぱり店の中は涼しいな。
決して冷房が効いている訳ではないのだけれど、むしろ冷房なんてこの店にはないのだけれど、店内は夏の暑さを閉め出したかのようにひんやりとした空気が漂っている。
これもきっとリカさんの魔法のおかげなんだろうな、と密かに僕は思っている。
だって、聞いても答えてくれそうにないし。
だったら、自分でそれらしい答えを考え出して、それで納得しておくしかないよね。
「あったわ、伊澄君っ!」
リカさんの弾むような声が、僕の思考を遮った。
手に小さな薄い縦長の箱を持った彼女は、カウンターを回りパタパタとスリッパの音を響かせながら、僕の前までやってきた。
「何ですか、それ?」
僕自身箱の中身に興味を持ったのと、リカさんからの期待の眼差しを裏切らないためにとで、目の前に差し出されたものの中身を訊ねる。
「アリスティフェルの羽根よ。滅多に手に入らない貴重なものなんだから」
あ、ありすてぃ……?
「……もしかして、それが昨日言っていた、僕に見せたい物というやつですか?」
「えぇ、そうよ」
恐る恐る訊ねた僕に、リカさんは力強い答えを返した。
昨日、ケーキを食べ終わり、雑談にも一区切りついた辺りで僕は帰る事にしたのだけれど、帰り際に彼女からこう言われたのだった。
伊澄君に見せたい物があるから明日もまた来てほしい、と。
あまり連続でここに来る事がないようにと気を付けている僕だったが、何故かその時は二つ返事でそのお願いを聞いていた。
「アリスティフェルはね、滅多にその姿が確認されない非常に珍しい鳥なの。でもね、この羽根を使って作った羽根ペンはとっても使い易いって事で有名なのよ」
熱く語るリカさんに適当に相槌を打ちながら、僕はテーブルの上に置かれたその箱へと手を伸ばした。
簡素な革張りの蓋を外し、折り重ねられた純白の布の上に置かれたそれをそっと手に取ってみる。
柔らかい。
それが触ってみての第一印象だった。
布に負けず劣らぬ美しい真っ白な羽根、その周りを波打つように深い群青が縁取っている。
「綺麗……ですね」
まるで長年愛用してきたかのように、すんなりふんわりと手に馴染む。
「でしょう? この羽根はね、見た目の美しさでも有名なの」
満面の笑みを浮かべて、リカさんが羽根に触れる。
柔らかい羽根を、それ以上に柔らかい手付きで撫で上げ、さらにその相好を崩す。
「でも、羽根がここまで青い鳥なんて見た事ないですよ。ありすてぃ何とかって、南国の鳥なんですか?」
羽根を眺めているうちに生まれた疑問を、さりげなくリカさんに投げかけてみる。
機嫌の良い今ならきっと答えてくれるに違いないという打算を忍ばせて。
「いいえ、この鳥は雪深い山奥に住んでいるの。だから中々発見されないのよ」
案の定リカさんはすらすらと流れるように言葉を返してくれた。
普段は思わせ振りな仕草や言葉ばかりであまりこちらの質問に答えてはくれないので、こうして答えが返ってくると中々に嬉しい。
「そうなんですか。じゃあ、手に入れるのはさぞかし大変だったんでしょうね」
緩みそうになる頬を抑えつつ言葉を返す。
「いいえ。それがね、この間久しぶりに手紙をくれた友人が送ってくれたのよ。吹雪の中で雪山を散策していた時に偶然出くわしたからって。それが、今朝ようやく届いたの」
顔中に喜色を浮かべたままリカさんが答える。
吹雪の中って……リカさんのご友人は超人か何かなのだろうか。
「アリスティフェルはね、その体色から雪山では非常に目立ってしまうのだけれど、その驚くべき忍耐強さでも有名でね、吹雪の時にしか狩りをしないの。吹き荒れる雪がその体を獲物の目から隠してくれるのね」
視線は決して羽根から逸らすことなく、頬を赤く染め上げ熱に浮かされたように滔々と語るリカさん。
初めて見るその姿に、僕は思わず見入ってしまった。
「それでね、押し寄せる風に逆らうように吹雪の中を飛んで行くから、こんな風にしなやかで強靭な羽根が作られるの。ねぇ、これってとても素敵な事だと思わない?」
唐突に微笑みかけられ、僕は思わず返答に詰まってしまった。
「それのどこが素敵なんですか? 僕には生き残るために、環境に適した形に進化した結果にしか思えませんけど」
軽く一呼吸して、少し気持ちを落ちつけてから逆に問いかける。
「まぁ、伊澄君にはロマンというものがないのね。……想像してみて。それまで巣穴で彫像のようにじっと息をひそめていた彼が、雪の吹き荒れる音を聞きつけその大きな翼を広げて巣穴から飛び立つの。そして、わざわざ自分に不利な状況の中で狩りをおこなう彼をまるで嘲笑うかのように吹き荒ぶ風をものともせず、悠々と羽撃き巣穴で吹雪に怯える哀れな獲物を鋭い爪にとらえる。生命の力強さに溢れた素敵な光景だと思わない?」
翠に輝く目を細め、溢れんばかりの笑顔を浮かべたリカさんが、とても楽しげにこちらを見てくる。
……確かに。
確かに、吹き荒ぶ風の中を悠然と飛んでいく様子は、実物を知らない僕の勝手な想像に過ぎないけれど、それでも素直に素敵だと思える光景だった。
「そう、ですね。実物を知らないので細かい事は分かりませんが、中々に素敵な光景だと思いますよ」
リカさんの笑顔につられたのか、ついつい僕も口元が緩んでしまった。
さっきまで一生懸命我慢していたというのに、その苦労が水の泡になってしまったなぁ。
そんな事が脳裏を掠めたけれど、今はこうしてリカさんと話をしている方が重要だったので細かい事は頭の奥にでも押しやっておこう。
「ところで、その羽根はやっぱり羽根ペンとして使うんですか?」
今はリカさんの手の中にある群青の羽根を見つめながら訊ねる。
「んー、どうしようかしら。最初はそうしようかなとも思ったんだけど、この羽根を見ている内になんだかもったいなくなってきちゃって。丁度今、どうしようか考えていたところだったのよ。ねぇ、伊澄君はどうするのが良いと思う?」
小さく首をかしげ、指で羽根を撫で上げながらリカさんが訊ねてくる。
「そんな事……いきなり言われても困ります。やっぱり貰った本人が決める事だと思いますよ」
完全に不意打ちな質問に、ぱっと見正論じみた答えを返すことでお茶を濁そうとしたのだけれど
「駄目よ。私は伊澄君に聞いているの。そんな中途半端な答えじゃ納得出来ないわ」
と、きっぱりと言われてしまった。
でもなぁ、僕は普段羽根ペンなんて使わないから、どう答えればいいのか良く分からないんだよなぁ。
使ってもボールペンか。
一番良く使うのはシャーペンだし、万年筆なんて握った事もない。
いや、あったかな?
良く覚えてないけれど。
「どうしたの、伊澄君、黙り込んじゃって? そんなに難しい質問だったかしら?」
でも、間違いなく万年筆を使った事はない……って、しまった。
どうやら考えごとに集中し過ぎてしまっていたらしい。
リカさんが心配そうな顔でこちらを見ている。
「いえ、大丈夫ですよ。ただ、普段羽根ペンなんてものに縁が無いのでどう答えればいいのか分からなかっただけです」
僕の言葉を聞いて安心したのか、柔らかな黒髪を靡かせてリカさんが勢い良く椅子から立ちあがった。
「そう、それなら良かったわ。実を言うとね、私、この羽根を伊澄君にあげようと思っていたの」
…………は?
「え、ちょ、ちょっと待って下さい。今何て言いましたか?」
僕の聞き間違いでなければ、今リカさんはさらっと凄い事を言った気がするんだけど。
「この、アリスティフェルの羽根を、伊澄君にあげる。そう言ったのよ?」
僕がうまく聞き取れなかったと思ったのか、細かく言葉を切りながら丁寧に説明してくれた。
しかし、問題は聞き取れたか取れなかったのかではない。
何故リカさんの友人がリカさんにあてて送ってきたものを僕が貰う事になるのか、それが問題なのだ。
「えっと、リカさんは良い、んですか。その、随分、楽しみにしていた、みたいでした、けど」
出所の良く分からない罪悪感のようなものが僕の口を開きにくくする。
なんだかリカさんの顔がまともに見られない。
そのまましばらくの間、重い沈黙が二人の間に降りた。
「……そうね。あまり良くはないわ」
一つ一つ、言葉を選ぶようにリカさんが口を開いた。
「でも、でもね。さっき伊澄君と話していて思ったの。この羽根を伊澄君にあげたら面白い反応が見られるんじゃないかって。予想通りの結果になって、私はもう満足なのよ」
少し愁いを帯びたエメラルドの瞳を細めて、いきなり何を言ってやがるんですかこの人は。
そんな軽い理由で友人の厚意を無下にしようだなんて、愛想を尽かされても知りませんよ。
「それなら心配いらないわ。彼はそんな小さい事を気にするような人じゃないもの。それに、この子もあなたの元に行きたい、と、そう言っているような気がするのよ」
慈しむように羽根の淵をなぞりながらリカさんが微笑む。
「……本当にそれで良いんですか? たぶん貰ったら返してほしいと言ってもそう簡単には返してあげないですよ」
僕は意外と意地が悪いですからね、と口角を釣り上げて見せる。
「あら、それなら平気よ。また今度彼に手紙を送る時にでもお願いするから。今度は百本くらいまとめて送って来て頂戴って」
……困らせてくれたお礼に少し意地悪をしてやろうかと思ったのだけれど、どうやらリカさんの方が一枚上手のようだった。
「そうですか。では、ありがたく頂戴する事にします」
そこまで言われては完全に僕の負けだ。
苦笑を浮かべて僕はリカさんの差し出す箱を受け取った。