魔女とケーキ1
「私? 私は魔女よ」
青々と生い茂る木々。
その隙間から零れ落ちる幾十の太陽の光を背に、彼女はそう言って微笑んだ。
とある夏の日の夕方、僅かにやわらいできた日射しと、アスファルトに色濃く残る昼間の熱気を一身に受け止めながら、僕は緩やかな下り坂となっている比良坂通りを下って行く。
んー、保冷剤多めに入れておいてもらって良かったなぁ。
リカさん、冷えたケーキと熱い珈琲のコントラストが良いんだって、前に熱弁してたからなぁ。
一歩足を進める毎に左のふくらはぎを掠める小さな違和感を感じながら、僕は店員さんの気配りに感謝していた。
それにしても今日は暑いなぁ。
午後からは雲が出て来て、少し過ごしやすい陽気になるでしょうって昨日の天気予報で言ってたんだけど。
ま、既に衣替えシーズンが到来してた事に感謝しておくとしようか。
生温い風が二の腕近くまで剥き出しになった僕の腕を撫でていく中、つらつらとそんな事を考えていると、歩道へと申し訳程度にひさしを張り出させた小ぢんまりとした本屋が見えて来た。
僕はその横の脇道へと逸れ、同時にケーキの入った箱を右手に持ち換え、空いた左手を首元に伸ばした。
人目がなくなった途端にこれとか、我ながら小心者だよなぁ。
込み上げてくる苦笑いを堪えながら、ワイシャツの第二ボタンを外し、ワイシャツの裾をスラックスの中から引っ張り出す。
先程よりも大きく開いた胸元を掴み、少しでも涼しい空気を取り入れようと無駄な足掻きをしてみる。
しかし、やはりと言うべきか、体温より多少低い程度の外気では大した効果はあげられなかった。
むしろ、無駄に左手を動かし続けた分、体温が上昇して余計に暑くなったかもしれない。
でもさ、頭では理解していても、どうしてもやりたくなってしまうんだからしょうがないじゃないか。
心の中でそう言い訳して、止まっていた足を再び動かし始めた。
視界に入る物のほぼ全てがコンクリートで構成されていた比良坂通りとは違い、片側一車線の比較的小さなこの通りでは、ちらほらと木造の民家や青々とした緑が目に入ってくる。
心なしか、気温も先程よりは低くなったような気もしてくる。
やっぱり植物って偉大だよね。
でも、目的地はここではないので、そのまま道路を横断し、先を急ぐ。
少しばかり歩いた先にある横道へと入り、左右を民家に挟まれた微妙に長い路地を歩いて行く。
大通りの大して意味をなさないそれとは違い、確かな涼を感じさせる日陰の中を進んで行くと、歩道もろくに整備されていない、まさしく田舎道といった雰囲気の通りに出た。
車なんてほぼ通る事のないその通りを即座に横断し、両脇を木々が塞いだ小路に足を踏み入れる。
さほど時間をかけずに通り抜けると、先程とはまた毛色の違った住宅街へと出た。
きちんと歩道は整備されており、それなりに人や車の通りもある。
不意に道路へと飛び出すと、たまにスピードを出した車に轢かれかけるため、しっかりと左右を確認してから道路を横断する。
そこから更に足を動かし続け、背中にじんわりと滲んだ汗が気持ち悪さを伴いながらフリーフォールをし始めた辺りで、ようやく目的地へと到達した。
閑静な住宅街の一角を占拠するその店は、僅かなスペースに所狭しと生い茂る青々とした木々に隠れるようにひっそりと佇んでいる。
……まぁ、住宅街のど真ん中でいきなり鬱蒼とした緑が出現する訳だから、実際はひっそりとは程遠いんだけどね。
一歩敷地内へと足を踏み入れると、アスファルト特有の熱気から解放され、木々が作り出す心地好い空気が肌を撫でた。
店の軒先までやって来た僕は、ドアの横に立て掛けられた縦長の看板に目を移す。
『魔女の箱庭』
可愛らしい字体で書かれた店名を見る度、僕はある疑問にかられる。
この店はいったい何屋なのだろうか、と。
まぁ、僕は此処に買い物をしに来た訳じゃないから、大して関係はないのだけど。
さて、此処に来るまでにだいぶ時間をくってしまったから、流石にそろそろ店の中に入るべきか。
普段だったらもう少し早く着いたんだけど、やはり暑いと気力が削られるなぁ。
多めに入れてもらった保冷剤が役に立って良かった良かった。
右手に持っていた通学鞄を一旦地面に置き、ドアに手をかける。
ゆっくりと取手を回し、外開きのドアを開ける。
中からはひんやりとした空気が溢れだし、薄暗い店内にうっすらと僕の影が顔を覗かせる。
店の中に誰もいない事を確認してから、薄暗い店内へと足を踏み入れた。
全く、不用心な人なんだから。
せめて店番くらい雇えば良いのに。
何度目になるか分からない愚痴を心の中で溢しつつ、入口の真っ正面にあるカウンターへと近付く。
一旦深呼吸した後、僕は息を大きく吸い込み、店の奥まで届くように声を張り上げた。
「リカさん、伊澄です。この前言ってた駅前のお店の新作ケーキ持って来ましたよー」
数秒の静寂。
しんと張り詰めていた空気を壊すように、薄闇に包まれたカウンター奥の通路からどたどたと何かが動く音がする。
音は瞬く間に近付いて来て、そして、すぐに止んだ。
薄闇の奥から慌ただしい衣擦れの音が響き、再び数秒の沈黙が訪れる。
静まりかえった店の中に、鈴の音のように美しい声が響く。
「こんにちは、伊澄君。そろそろ来る頃だと思っていたわ」
所々に皺のついた真っ白なワンピースが宙を舞い、一拍遅れて背中まで伸びた艶のある黒髪がその跡をなぞった。
「何言ってるんですか、リカさん。さっきまで思いっきり昼寝していたくせに」
ため息と共に吐き出された僕の言葉に、ワンピースとよく似た白磁の頬が紅潮し、長い黒髪の隙間から覗く人形めいた笑顔にひびが入った。
「な、何を言っているのかしら、伊澄君は?そ、そんな事ある訳ないじゃない」
薄く細められていたエメラルドの瞳が、今は大きく見開かれ、芸術的なラインを描いて宙を彷徨う。
「なら、せめて寝癖を直してから言って下さい」
そう言って僕は、リカさんの長い黒髪を指差した。
「嘘よ! だってさっきちゃんと寝癖直したもの! ……って、あ……」
慌てて自分の髪へと両手を伸ばしたリカさんの動きが唐突に止まった。
顔に浮かぶのは、やってしまったという、焦りと悔しさを足して二で割ったような微妙な表情。
「自爆、ですね」
小さく口元を歪める僕を見て、リカさんは心底悔しそうに首を左右に振る。
「ずるい、ずるいわ伊澄君! 私は寝起きで上手く頭が回らないのよ。それなのに、あんな非道い手を使って私を嵌めるなんて……!」
「昼寝していた事は認めるんですね」
この人、黙ってさえいれば息を飲む程の美人なんだけどなぁ。
口を開くと一気に子供っぽくなるんだよね。
「えぇ、認めるわ。だって、これ以上立ち話をしていると、折角伊澄君が買って来てくれたケーキが温まってしまうんだもの」
あっさりと開き直ったリカさんの澄んだ翠色の目は、僕の持つ表面に少し水滴の付いた白い箱へと注がれている。
本当食い意地張ってるよなぁ、この人。
「じゃあ、僕が食器を用意しますから、リカさんはその間に珈琲を入れて下さい」
ケーキの入った箱をカウンターから少し離れた木製の丸テーブルの上に置き、いそいそとサイフォンを用意しているリカさんの後ろにある戸棚を開けて、二組分のティーセットとお皿を取り出す。
そこでふと思い浮かんだ疑問を、僕はそのまま口にする。
「ところで、リカさん。一つ質問しても良いですか?」
「なぁに、伊澄君?」
後ろを振り向く事なくリカさんが答える。
「珈琲を入れるのにサイフォンを使うんですか? そんな悠長な事をしていたら、結局ケーキが温まってしまうじゃないですか」
折角買って来たのだから、なるべく美味しく食べてもらいたいと思うのは当然の事だろう。
この間インスタントのパックをお裾分けしてあるのだから、出来ればそっちの方を使って欲しいんだけど……。
そんな僕の思いをよそに、リカさんは口元に笑みを浮かべながら言葉を返してきた。
「それなら心配要らないわ」
妙に自信の込められたその声に、僕はリカさんと初めて出会った日の事を思い出した。
あれは一年前の事。
奇しくも今日と同じ暑い夏の日の午後だった。
中学とは学区の違う高校に通う事になった僕は、半日授業で暇になった午後を見知らぬ街並の散策に使っていた。
通学路から大きく外れた住宅街の中に突如現れた緑の城に興味を惹かれて、また少しでも涼を求めて僕はその中へと足を踏み入れた。
そして、僕は彼女、リカさんに出会った。
リカさんがあの時と同じ雰囲気を漂わせている時に続く言葉は唯一つ。
「だって――」
サイフォンの準備を終えたリカさんがゆっくりと振り向き、ルージュを引いたように紅い唇を開く。
「――だって、私は魔女だもの」