8、ファウストの亡霊 その4
これとあともう一つ、カナデとフィラルドのお話が続きます。
「今日は一段と風が強いなあ」
学区の緩やかな坂の上、豪奢なステンドグラスが美しい白壁の教会の屋根で、フィラルド・シュッツヴィルは風にたなびく修道服の裾を片手で押さえながら晴れ渡る空を眺めていた。連日続く快晴日の中でも今日は一番心地よい風が吹いている。
「うんうん、流石は風の国」
全身で風を感じたいのか、フィラルドは両手を大きく広げると深く息を吸った。ここは王都と違い、緑の匂いが強く感じられる。
この空気を吸えただけでもう十分だ、という顔をしながら何回か頷くフィラルド。
ここメンデルンを都に据えるルーデンは、その特徴的な気候性から内外の人に関わらず「風の国」と称されている。
ルーデンは西にカルタ連峰が控える土地。時期によって風量は変化するが、年中連峰から強烈な山谷風が吹きつける。そしてその山谷風というのも、普通の山谷風じゃない。
通常、山谷風というのは日中は地上から山へ、夜間は山頂から地上へと吹くものなのだが、ルーデンでは何故かそれが真逆に吹くのである。
「――アモネイ様のご加護、か」
フィラルドはひっそりと呟く。
カルタ連峰が神話の舞台であることも起因して、この土地に吹く奇妙な風はよくアモネイ様の仕業に喩えられる。アモネイ様のご加護が与えられた祝福されし国、ルーデン。これが「風の国」と呼ばれる所以である。
――もっとも今は「風の州」だけどね、とフィラルドは心の中で補足する。
「さーて、そろそろ教会に戻りますかな!」
ふわり修道服を翻すと、満足気な表情で屋根をゆっくり来た方へ戻っていく。しかし、その顔は教会の中へ入っていくにつれて段々と疲れたものになっていく。
何故なら、あんまりのんびりしていると今日の分の仕事が片付かないからだ。フィラルドは自分の机の上に積まれているであろう書物の山を想像して、がっくりと肩を落とした。
フィラルドはゼストリア正教会に所属する修道士だ。教会から一応助祭位を授かっている身であるがその実、教典やカルタス神話の研究のために王都の学院から派遣された宗教学者というのが本来の職業である。したがって布教活動などは熱心に行っていない。
研究の為に教会関係施設を頻繁に出入りするフィラルドに、王都の大司教が各地の教会を自由に見聞できる権限として助祭位を与えたのだ。
それは一重にフィラルドの研究成果が評価されているからではない。フィラルドが本当に、過剰表現ではなく本当に頻繁に教会や重要施設を出入りするからだ。
故に大司教は当分お邪魔虫が王都に帰ってこられないように、学院長と手を結んで「アモネイ様のご加護の正体について調べる」という無理難題を突きつけてきたのである。
「こんな遠い西の地まで来たんだ。収穫なしじゃ帰れないよね……」
そういうわけでとにかくこの土地に関する色々な文献を紐解く必要がある。
フィラルドが先日、「ルーデンの地理や郷土史についての書物が欲しい」と神父に所望したら、王都からフィラルドのことを重々仰せつかっていたのだろう、今朝方満面の笑みで台車に山のように積んで持ってきたのだ。
「本当に良い性格してるよ、大司教様も学院長もさ……」
まあ、毒を食らわば皿まで、である。文句を言わずに作業に取りかかるのが懸命だというものだ。フィラルドは克己するように自分の頬を叩いて教会の中へと姿を消していった。
フィラルドが部屋に戻ろうとしたとき、偶々教会の神父とばったり会ってしまった。
神父は軽く手を上げると涼やかな笑顔でフィラルドに近寄ってくる。
「フィラルド助祭、どうですかな? 研究の進捗は」
――分かりきっているくせに。
フィラルドは研究の役に立たない、台車に積まれた有象無象の礼を今ここでしてやろうかとも思ったが、努めて冷静に受け答えた。
「はい、お恥ずかしながらまだまだ掛かりそうです。一昨日からずっと頂いた資料の整理をしていたので――」
あれを資料と呼べるならな、と心中で補足する。
神父はそれを聞いてさぞ満足したように、軽く頭を下げて通りすぎていった。
修道服を着ていなければ危うく背後から尻を蹴飛ばすところだった。
教会からあてがわれた部屋は客室ではなかった。別の物置として使われていた場所に椅子とテーブルを置いたものだ。教会のきらびやかな外観とはかけ離れた質素な部屋となっている。
そこに大量の本が積まれているのだから、もうどうしようもない狭さなのだ。三回に一回は内側に積まれた本の山が扉にもたれかかって、入室するのにへいこらする羽目に。
そして今回はその三回に一回を引いてしまったようだ。扉が、重い。
「もう、なんで、開か、ないのっ!」
うんうん唸りながら捻ってもドアノブが回らない。――うんうん、積んでる詰んでる。
フィラルドは思い切り踏ん張って少しあいた隙間に爪先を差し込む。ついで左肩を入れると、てこの原理で強引に開く。中から待ってましたとばかりに積まれていた本が部屋の外に流れ出る。
――かくして午前を丸々使って整理した研究資料という名のごみの山を、再び整理するところからフィラルドの午後は始まる。
「はあー……何だか詐欺にあってるみたいだよ」
暫く資料を整理していた頃、突然部屋の南側に申し訳程度に取り付けられた小窓がガタガタと鳴り始めた。
「ん? 風、かなあ」
作業を中断して小窓に近寄るフィラルド。
窓の立て付けを確認したが、しっかりと取り付けられており、さっきのような激しい音は鳴らないはずである。
風にしたってここはメンデルンだ。夜中でもひっきりなしに風は吹いている。宿泊初日から数日が経っているのに、今まで音が気にならなかったのは不自然だ。
それに南側といっても教会はメンデルンの"学区"と呼ばれる最南端の地区の、これまた最南端に位置する場所。現にこの小窓からは街の城壁しか見えない。
ああだこうだと音の鳴る理由について考えを巡らせながらも、そこにただボケッと突っ立っているわけにはいかない。資料整理に戻ろうとすると、再び小窓が揺れ始めた。今度はさっきよりも大きい。
まるで石でも投げ込まれているかのように激しく揺れる窓に、フィラルドは流石に我慢できなくなった。
フィラルドは風で資料が飛ばされぬように閉じきっていた小窓を開け放った。これ以上この異音に悩まされては本当に資料整理だけで日が暮れてしまう! それだけは勘弁して欲しい!
「あ、あの! 誰か分からないけれど、悪戯なら止めてもらえないかな!」
開け放った窓から周囲を見渡しても、壁、壁、壁。どこまでいっても壁が続いているだけで人の気配などない。
「気のせいかな?」
上を見てみても、「守りの堅さなら王都に匹敵する」と賞されたメンデルンの堅牢な高い城壁が延々と伸びていて、その先には小さな女の子しか――
「――えっ女の子っ!?」
それは確かに女の子だった。
肩に掛かるか掛からないかの辺りで綺麗に切り揃えられた金色の髪。髪の隙間から黒みがかった茶色の瞳がチラチラ見える。幼いが美人の風格のある女の子だ。
女の子は声のした方を見下ろすと、窓から首を突き出してこちらを見上げるフィラルドを見つける。
「あのー危ないよーお兄さん」
「危ないのは君の方だよー! 早く降りておいでぇ」
女の子はフィラルドに手を振ると、壁の天辺から下を見下ろしながらにっこりと笑う。その笑みには何だかよからぬことを企んだ小悪魔のような雰囲気が宿っている。
――あれ? そう言えばあの娘、どうやって城壁の上まで?
その理由は女の子が次の瞬間に取った行動で明らかになる。――なんと、壁の上から空中に向かってジャンプしたのである。
「なっ――!?」
もう制止するタイミングを完全に逃したあとだった。女の子の体は空を切り裂いてみるみるフィラルドのいる窓の前の地面に落ちていく。
――全く勘弁して欲しい。ルーデンに着いてまだ数日しか経っていないのに、こんなショッキングな出来事に遭遇してしまうとは。
フィラルドは両目を強く瞑る。あんな可弱い女の子があの高さの壁から墜落したら、結果は目に見えている。どんな姿勢で身体を守ろうと、命が助かる筈がない。
――こういう時にアモネイ様のご加護は必要なんじゃないのか!?
しかし、どうすることも出来ずにただその時を待つフィラルドの耳には、何の激突音もしない。気になって目をうっすら開けてみる。
「お兄さんどうしたの?」
女の子は地面から身体一つ分上の空中で浮いていた。その光景にフィラルドの目は残り一気に開かれる。
女の子の周りを意思を持ったように漂う微風の気配。――これは魔法なのだろうか。
「き、きみ、魔法が使えるの?」
「魔法なんかあるの? この世界」
女の子はきょとんとしている。そんなこと初めて知ったという顔をしている。
だが現にこうして浮いてるじゃないか! と声に出せずにフィラルドは口をパクパクさせながら女の子を見た。
「えっ……だって、そ、それ魔法だよね? 風系統の」
それとも本当にアモネイ様のご加護なのだろうか。そうだとしたら紛いなりにも聖職者の端くれ。女の子を助けたいという願いが天に聞き入れられたのかと、フィラルドは勝手に解釈してしまう。
「おお! これはなんという僥倖! かつてない感謝を天に召します我らのシトゥクに、そしてアモネイ様にも!」
女の子は急に空を仰ぎながら両手を重ねて祈るフィラルドに一歩引く。
しかし、フィラルドの発言に気になる箇所を見つけて問いただしてくる。
「ねえ、シトゥクって、あの神様のシトゥク?」
「ん? ああ、そうだよ。僕はフィラルド・シュッツヴィル、見ての通り聖職者の端くれさ」
フィラルドは修道服を女の子にちらつかせる。
「君もアモネイ様に助けてもらったんだ。感謝のお祈りくらいしたらどうだい?」
「お祈り? 何言ってるの、これは私の力よ。何だか知らないけど私、少しの間貴方たちの世界に居させて貰ってるみたいなの」
あれ、この娘が何をいっているのかさっぱりだ。だが、力と言うからにはやっぱり魔法なのだろうか。
「力ってことはやっぱり魔法なんだよね、それ。――もしかして魔法を無意識に……ねえ君、今お腹のした辺りが熱くなってたりしないかい?」
言われて女の子は自分の下腹部を擦る。が、すぐに首を横に振った。
「あのね、これ魔法じゃないわ。『シキ』って言って生まれつきの力なの。私の世界でも珍しいけれど、こうした力を持った者が何人も居るわ」
そう言って女の子は纏った微風が自分の操作によるものだという証に、手を振り上げてストンと地面に着地して見せる。
魔法ではない特殊な能力。――もしかして、これがアモネイ様のご加護というやつか!?
「ね、ねえ!ちょっとそこで待ってて!すぐそっちに行くから!」
思わぬ研究対象の登場にフィラルドは、小窓から女の子に大声でそこにいるように指示して、部屋の扉を乱暴に開け放った。折角整理していた資料の山を突き崩すのも厭わずに。
「お待たせ!」
フィラルドは教会の裏庭を経由して、部屋の裏側――女の子の待つ場所へとやって来た。
日頃の運動不足が祟って、肩は忙しなく上下している。
女の子は退屈そうに地面の小石を弄りながら待ってくれていた。フィラルドを見つけると唇を尖らせる。
「遅いよ! わたし、色々とこの街の中を見て回りたいのに時間がなくなっちゃう」
「ごめんよ。――君の名前は?」
「カナデ」
「カナデちゃん、僕はさっきも名乗ったけどフィラルド。よろしくね」
「はーい、よろしく。――で、フィラルドさんは私に何か用なの?」
カナデは城壁に寄りかかると、自分が呼び止められた理由を聞いてきた。
「さん付けはいいよ。あーうん……カナデちゃんさ、見慣れない格好だよね。この国の人じゃないの?」
「この国っていうとルーデン? 違うよ」
やはり異国の人間だったか、とフィラルドは興奮する。
ゼストリアでは、楊や北の民族の記した書物は禁書となっているため、向こうに別の形で伝播していった神話については、現地の人間から直接聞いてみないと分からないのだ。
思わぬ幸運にさっきまでの不幸な気分は吹っ飛んでいく。もう、今日は資料整理している暇なんかないな。
「じゃあ街を見てまわりたいってのは観光の事なんだね?」
「そうかな。うんそうだね、カンコー」
「それなら丁度良いや! 僕もこの街に来たばかりなんだ。良ければ一緒にまわらない? ついでに君のことも聞かせてよ」
こんな素晴らしい研究対象、みすみす見逃す手はない。フィラルドは何とか彼女の気を引いて、色々と話を聞きたいと思ったのだ。
カナデも満更ではなさそうだ。街を見てまわりたいのは本音のようで、本人は平静を装っているが、瞳は好奇心に輝いている。
普段研究に没頭しているフィラルドは、その瞳に自分と似たものを感じて一層カナデのことを気に入った。
「一人でまわるより楽しそうだし、いいよ!」
「よし! じゃあここは南の地区だから、坂を降りてフィアー通りを見に行こう!」
初対面ながらも意気投合した二人は、横に並んで教会の裏口から坂道へ続く細い路地へと姿を消していった。――その二人を教会の神父は廊下の窓から眺めていた。
街に繰り出した二人は端から見ると、若い父親とその娘のようだった。
背丈も大部差があり、会話をする時なんかフィラルドは真下を、カナデは真上を見るようにして話しながら歩いている。両脇の露店の店主たちも二人が通り過ぎると、自然と肩の辺りを揉んだりしてしまう。
通りには様々な露店が並んでいた。
カナデは店の一つ一つを興味津々に眺めてまわる。ヤンのいた町とは人の多さも物の多さも格段に違っていて、見るもの全てが珍しいものばかり。正味これが夢だということ、夢の中に存在するはずのない未体験のものが次々と目の前に現れていること、街に来るまではそれらを少し不自然だと思っていたこと。それら全てを忘れて心躍らせている。
対してフィラルドの方はメンデルンを訪れたのは初めてだ、と言っていた割にはかなり落ち着いた様子。本人は気が付いていないようだが、目的が観光ではないことがバレバレである。散策中、頻繁にカナデの出生や住んでいた世界、『シキ』とは何かについて色々と質問してくるのだから分かりやすい。
聞けばフィラルドは修道士ではなく、本当の職業は学者だそうだ。カナデはフィラルドが執拗に自分のことを聞きまわすのを少々不審がっていたけれど、それを知った時にストンと落ちた。
「じゃあ君はそのニホンという国からこちらに来たんだね、ここからどのくらい遠いの?」
「分からない。起きたら少し離れた町の近くに倒れてたから」
「そうか。――色々大変だったね」
しかし、フィラルドはカナデのことを異国から訪れて、家族とはぐれてしまった子供だと勘違いしているようだった。カナデもそういう風に思い込んでくれているなら、わざわざ訂正するのも面倒だと感じて放っておいている。
「ところでフィラルドは何の研究をしているの?学者さんなんでしょう?」
「あ、うん。僕は神話について研究しているんだ。スフィア教は神話がベースになっているのに、その神話にはまだ完全な理解がなされていないんだ。ここへは兄妹神の一柱、アモネイについて調べに来たんだよ」
兄妹神というとカナデはヤンから聞いた話を想起する。確かシトゥクの他に五つの神様がいるとかいう。
「アモネイは何の神なの?」
「風を司る神さ。経典にはね、シトゥクが世界を創造したと伝えてあるけど、本当は兄妹神の力を借りているんだ。神話の記述を分かりやすく解釈させるために、教会は色んなところを端折ったり、改編したりしてるんだ」
「風の神様か。私、アモネイ好きかも」
「アモネイも君のことを気に入っているのかもね。その力はいったい何なんだろうね」
そう言うとフィラルドは口元を手で押さえながら微笑した。
「私も知りたい。こんな力、いらないのに何で持ってるのか――」
――笑うところじゃないよ。この得体の知らない力のせいでどれだけ生活し辛いことか。神様が気まぐれでくれたようなものなら、とっとと返してしまいたい。
「あっ……」
少し思うところがあって突然だんまりしてしまったカナデを横目に、フィラルドはやってしまった、という風な顔をしていた。どうせはぐれてしまった幼い子供に、神様に気に入られている――幸運だねなんて酷いことを言ってしまった、などと思っているのだろう。
カナデはそれを見てひっそりと口角を上げる。何か美味しいものをねだる事にした。色々と話に付き合ってあげたのだから、正当な報酬だ。少し唇を尖らせて言ってみる。
「ねえ、それよりもお腹空いちゃったな!フィラルド、この辺りで何か美味しいものない?」
「そ、そうだねー。よし!何か奢ってあげよう!どんなのがいい?」
「えっいいの!?じゃあ何か甘いものとしょっぱいものを交互に食べたい!」
「……い、いいよー!何でも買ってあげちゃう!」
二人は互いに食べたいものを提案しあいながら脇道に逸れて、フィラルドがメンデルンに着いてから偶然見つけた、行きつけの食堂へと向かうことにした。
――二人は跡をつける影の存在に気づくことはなかった。