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存在証明式(仮)  作者: 御劔ツカサ
第一章 コード:アクティベイション
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7、ファウストの亡霊 その3

リョウたちがアモネイ様の噂を調べ始める前の話です。

 森の中に少女が一人、瞼をうすらと開けて横たわっている。


「――ここ、どこ?」


 目覚めたときからずっと少女の後頭部を襲う感覚は、乗り物酔いのそれに近い。

 記憶の混濁と共に全身へ訪れる、眠りすぎてしまった後のような倦怠感。何をどうすればここまで身体が疲労するのか、全く想像もつかない。脳の命令を一向に受諾しない四肢。

 唯一動かせるのは眼球のみ。

 眼球も酷く消耗していた。視界の真ん中に太陽を直視したような丸くて黒い穴。少女が周りの状況を確認するたびにその穴がちらついて、端で緑や赤色の線が走る。


「森の中?」


 森、といっても少女の口から出たその単語は木々が乱立している様子を表現したに過ぎない。ぼやけた視界の先は少女に全く覚えのない世界が広がっていた。


 取り敢えず起き上がってみることにする。少女は再び下半身に力を込め、体を起こそうとした。

 だがすぐバランスを崩して、同じ場所に何度も尻餅をつく。地面に墜落した瞬間、短い悲鳴を上げながら。


「きゃっ」


 すっ頓狂な声を出してしまい少女は恥ずかしくなる。髪に隠れた耳が熱を帯び、赤くなっていることは確認しなくても分かった。

 誰にも見られていないとしても平静を装う。すると、本当に落ち着いてきたことで余裕が生まれる。少女は自分の置かれている状況を分析出来るようになってくる。


 時刻はおおよそ日中だということが分かった。

 鬱蒼と生い茂る木々の合間から、少しだけだが日の光が入ってきている。光量からして正午かそれに近い時間帯のようだ。青々とした枝葉から漏れる淡い光が、少女の視覚に鋭利なナイフを突きつけるかの如く、ガンガンと響く。まだ視神系が少しいかれているらしい。


 そしてこの森のような周りの景色。

 少女は先程「全く覚えのない場所」と感じていたが、それもそのはず。少女の地元には森林と呼べるほど沢山の緑に囲まれた場所は存在しない。少女が電車で向かっていた街にもない。

 つまり、今見えている景色そのものが現実にはあり得ないものなのだ。


「現実にあり得ない景色……そうか、――」


 ――ならきっとここは夢の中だ。それで全て合点がいくではないか。


 電車に揺られながら眠りこけている自分を想像してみる。こちらで起きたときに頭がクラクラしたのは、向こうの感覚がシフトしたからかもしれない。

 少女は昔、父親と乗った遊覧船で気持ち悪くなって、盛大に()()()()()ことがある。自慢じゃないが、乗り物にはかなり弱いのだ。乗っている電車で酔っていたとしてもおかしくない。

 そう結論付けると、やんわり体を支配していた恐怖が薄れていくのを感じた。――どうせ夢ならば、ここが何処だろうと構うものか。


 そこが夢だと気付いた人間は夢の世界で自由な行動が出来るそうだ。何処かの本で読んだことがある。世界を自由に出来るとはなんと素晴らしいことか。王様になった気分だ。

 いつの間にか起き上がれるようになっていた少女は、楽しげな表情でこの夢の世界――アルスヘインを散策するための一歩を踏み出していったのだった。




 適当に歩いているうちに、少女は呆れてしまうくらい簡単に森を抜けてしまった。

 目の前には辺り一面、平原が広がっている。

 そこが見知らぬ風景であっても、もはや少女には何の疑問も浮かばないことは言うまでもない。平原には真ん中を東に向かってまっすぐ伸びる砂利道が続いていた。


 道すがら少女はスキップ交じりに歩いていく。普段は他人の目を気にしてスキップなんて踏まないのだが、夢の中だという解放感と見晴らしの良い景色が少女の心を後押しする。


 ――見た目に違わずお淑やかな子ね、と近所のおばさん達から評されている少女も、心の()()が外れるとこんなものだ。普通に年相応のはしゃぎ様を見せることだってある。心の中で自分を引き合いに出して、シュウくんを悪い子だというおばさん達にあっかんべーをした。

 少女は本当の自分のことすらろくすっぽ知らないくせに、勝手な印象で周りの人間を語るおばさん達が大嫌いだった。一体自分たちが何を知っているというのか。――どうせ()()()()に気づいたら、手の平を返して離れていくくせに。


「つまんないこと考えるの止めよ。夢から覚めちゃう」


 少女は今いる世界の面白そうなものを求めて、少女は道を進み続ける。

 やがて視界に町が見えてきた。少女の歩くスピードは少しずつ速くなっていった。





 敢えなく町に着いた少女の第一声。


「――ドルクエ?」


 辿り着いたその町は、少女のクラスで流行っている家庭用ゲーム機のソフト『ドルアーガクエスト』――通称ドルクエに出てくる宿場町の外観にそっくりだったのだ。これには少女も驚いた。案外無意識にゲームの世界へ思いを馳せていたのだろうか。


 少女自身が日頃からよくゲームを嗜んでいるわけではなかったが、そうしたものには多少なりとも造詣が深い。――原因はシュウくんである。


 シュウくんはやたらと少女にちょっかいを出してくる意地悪なクラスメイト。放課後はよく自分の友達を家に呼んでゲームをしている。

 シュウくんは機嫌がいいときにたまーに少女を家に誘ってくれることがある。その時に遊ぶゲームが専らドルクエなので、少女はそれをよく知っていたのだ。

 シュウくんの家にあるソフトがドルクエだけ、ということはない。沢山のソフトを持っているはずだ。


 いつもプレイするゲームがドルクエ、という現象は、少女にちょっかいを出したいシュウくんの意地悪な気持ちが引き起こしている。――セーブデータの空きがないから! とドルクエを最初からプレイさせてくるのだ。

 一度その現場をシュウくんのお兄さんが目撃して、シュウくんはこっぴどく叱られたことがあった。でも男の子という生き物は、自分のカッコ悪い所を見た人には一層つんけんするものだ。その後もシュウくんは少女に対して細かなちょっかいを継続していくことになる。


 例えシュウくんが自分に意地悪でも、少女自身はそれを全く気にしていない。

 ただ、クラスの男子と遊ぶのが物珍しかっただけ。ゲームの進捗などには端から興味がない。その内容もまた然り。寧ろ興味があったのはシュウくん本人だったのかも知れない。


 だがいくらどうでもいい事だったとしても、何度も反復して同じことをやっていると単調な作業なら尚のこと、自然と頭に入ってくるというものだ。

 夕方のチャイムが鳴る頃には大体同じようなセーブポイントに辿り着いていることが多く、少女の中ではその町が見えるとそろそろ帰らなければならない、という目印みたいなものになっていた。

 試練の洞窟を抜けた先の町、ロマルア。


「ほんと、ロマルアにそっくり」


 町の中もロマルアにそっくりなのかなと思っていたがそうでもなかった。

 外観と違って全然ドルクエ感は感じられない。

 白の生地に赤で何かの記号の様なものの刺繍がなされた服を着ている人々。知らない文字が書かれた看板をぶら下げる店や家々。どれも少女の深層心理には存在しないオリジナルのイメージたち。夢の中に存在するはずのないもの達。それらが目の前に現れて、少女を不自然な感覚に陥れる。


 建ち並ぶ石造りの家々の中に、一際騒がしい場所があった。

 何かの店と思われるその建物の入り口から、少し距離のある少女の耳にまで届く程大きな声が漏れ出している。


「――お前さんのせいで、この半日の働きがパーだ!!」


 恐る々々店に近付き、中の様子を窺う。そこには何事かを揉め合う二人の男性と、仲介に入ろうとしている一人の女性が立っていた。皆さっきすれ違った町の人々同様、奇妙な民族衣装のような服を着ていた。

 二人の男のうち一人は少女と年が近そうな青年。しかもどこかで見たことのある顔をしている。

 ――夢の中だからどこかで会ったことのある人が出演しているのかもしれない。少女はさしてその青年を気に留めなかった。

 揉めているところに割り込んで面倒くさいことに巻き込まれたくない。少女は三人に気付かれないように忍び足で店の前を通り過ぎていった。――去り際に言い争いの一部始終を盗み聞きながら。


「だから、この金貨の価値がそんなに高いなんて、知らなかったんですよ!」


「そんなわけあるか! この辺りで流通している硬貨はユリド貨幣だけだ。金銀銅とありゃ金の価値が一番高いのなんて馬鹿でも分かる。客にお釣りで金貨を渡すのを、一瞬でも躊躇しなかったお前さんは馬鹿だ!」


「だからっ!――」


「まあまあお父さん、それくらいにしてあげなって。リョウも反省してるみたいだし」


「だったら最初から口答えするな。『この世界のことは知らない』なんて適当な嘘つくくらいならな!」


「う、嘘じゃないって!」


「もーうリョウも余計なことを言わないでよ! お店の邪魔をするなら部屋に戻ってもらうから!――お父さんもいい加減にしてよね!!」


 女性の方が男性達より強いのか、二人とも大人しく彼女の言うことを聞く。青年は女性に見えの奥へ連行されていった。



「かっこ悪いなあ。すぐ謝ればいいのに」


 店を離れた少女は先ほどの青年を責めた。どうして男の子って素直になれないんだろう。

 どう聞いても青年に落ち度があった。この世界のことを知らないなんて、当たり前じゃないか。私の夢なんだから。――ん?

 心の中で何かが引っ掛かる。しかし、もうその話には興味がなくなってしまったので少女は先を進むことにした。


 その後も少女は、奇妙なものを見掛けては時折立ち止まってそれを観察し、飽きたら次の面白そうなものを求めて歩く、という動作を延々と繰り返していった。

 ――ところで、一体いつになったら夢は覚めるのだろう。少女は段々この世界にマンネリを感じつつ、到々町の正反対まで来てしまった。


「もう見るものないし、真っ直ぐ進もうかな」


 少女は来た道を折り返すことなく町を出ていくことを決めた。





 少しすると道の先は小高い丘になっていた。

 少女が丘の中腹に差し掛かる辺りで、ゴウゴウと音を立てながら四つの羽根を回す風車の群れが姿を現す。


「うわあ」


 少女の住む街にも目の前の風車の様なものが建てられている場所がある。

 そこは欧米――多分オランダ――の風景を模して造られたというテーマパークだ。風車は実際に回っているが、中で小麦を挽いていたりなどはしていない。ただのアトラクションとしてそこに設置されている。

 ――きっとこの風車はそれがモチーフに違いない。いつの間にやら少女は、夢の世界のものに現実世界のモデルとなるものを探す遊びを開発していた。

 その遊びの答え合わせをするため、歩いていた道を逸れて進路を風車小屋に変更する少女。

 風車の前まで来ると、白髪の小柄な老人が立っており、少女の姿を見つけるや否や手を振りながら話し掛けてきた。


「こんにちは、お嬢ちゃん。また見ない顔だね」


「こんにちは」


「むう……お嬢ちゃんも変な格好をしとるの」


 ――変な格好? それはこっちのセリフだ。

 確かに少女は普段の制服とは異なり、買い物に出掛ける用に着た白と紺のドッキングワンピース姿だが、妙な格好でもなんでもない。ただの私服だ。

 自分の服装にいちゃもんを付けられたのかと勘違いして、ムスッとしてしまった少女を老人は困った顔で見る。

 老人は胸の辺りまで伸ばされた長い髭に、曲がった腰。年齢は六、七十といったところで、町の人たちと同じような服を着ている。

 やはり何度見ても、少女にはその服の元ネタとなるものが分からない。どっちが変な格好なんだか。服飾センスの奇抜さなら、完全に負けているのはこっちだ。


「変なのはお爺さんたちの方だわ。だってあなた達は私の夢の中の人なんだから」


 自分が夢の中のものだと言われた老人はキョトンとした顔で少女を見た。そして、髭をしごきながら黙していたが、突然笑いだす。


「ホッホッホ、面白いことを言うお嬢ちゃんじゃな。――アルスヘインは紛れもなく現実の世界じゃないか。なんだお嬢ちゃん、起きたばかりなのかい?」


「アルスヘイン?」


 服装の次は寝ぼけた子供扱いときたが、それには腹を立てない。

 それよりもこの世界はアルスヘインというらしい。そんな名前の土地が出てくる話を少女は読んだことがない。勿論、ドルクエでもない。少女の記憶には存在の欠片もない、アルスヘインという単語は全く架空のものだった。

 記憶に存在しないものが夢に出てくるのは変だ。少女はそこで初めてこの世界が、夢とは違う実在の世界だという可能性を疑ってみる。

 しかし、そんなのは荒唐無稽だ。そんなことあるはずがない。一瞬でもアルスへインを現実の世界だと思い込んでしまった自分が馬鹿らしくて、少女は思わず苦笑いする。


「アルスヘインってのが、この世界の名前なの?」


「そうじゃ。正確にはこのノイツの町を含んだ巨大な大陸の名前じゃが。世界に大陸は一つしか存在しないのだから勘違いはするまい?――故にこの地に住まう人々は世界全体を指してアルスヘインと呼んでいるのだよ」


「神話ねえ……」


 神話ときたか。なんとも胡散臭い話だ。RPGには神話が付き物だ、というシュウくんのセリフが浮かぶ。

 風車小屋に来客は少ないのだろう、老人は久し振りの来客に饒舌になっていった。


「いかにも。――全知全能の神シトゥクがカルタの海に降り立ち、三日三晩で一つの大陸を創造した。それがアルスヘイン」


 聞いたことのない語句を連発する老人。少女は次第に訝しげな表情を隠さなくなっていった。学校のボランティアでよく行く老人ホームのお爺ちゃんお婆ちゃんを相手にするような顔で、その話を聞いている。


「シトゥクは五柱の兄妹神たちに大陸の行く末を見守るよう命じて、自らは天上へと還っていった。兄妹たちも他にやるべき事があったため、その地に造り上げた生命――すなわち我々ヒトにアルスヘインの管理を託して異界へと姿をお隠しになった。お母さんから神話は教わらなかったかい?」


「そんな話、初めて聞いたわ」


 ――だってそれは夢の中ででっち上げられたお話なのだから、とはおくびにも出さない。


「うーん、最近の者はカルタス神話に対する意識が低すぎる。ユリウス様も戦前はロムダイトの採掘に興味をお持ちになっていたようだし、この国の未来が心配じゃな。――ああ、今は国でもなかったわい」


 大人が政治に話をする時の顔は嫌いだ。この世の全てが気に入らない様に喋るから。

 ユリウス様? ロムダイト? 知らない単語だが、多分自分の嫌いな話をしている。少女はなんとなくそのことが分かった。

 内容も急に難しくなってきたので、少女は老人の話が退屈になってしまう。気になった神話についてもう少し聞かせてくれないか、少女は自ら考えたことを話してみることにした。


「よく分からないけど、その神さまのお話を大事にする意味が分からないわ」


「おお?」


 語り一片だった老人は急に少女が話に食い付いてきてくれて、嬉しそうな顔をする。話を聞かせた甲斐があるわい、と表情が心の内をありありと物語っていた。

 だが、同時に少女が神話に否定的な意見を述べたことには難色を示した。老人は神話を深く信じている口なのだろう。少女の話の続きを聞きたがっている。


「だってそのシトゥクって神さまも、その兄妹の神さまたちも今のアルスヘイン? にはいないのでしょう? ここにいない人の話なんかしても仕方ないわ」


 子供の発想は世間のしがらみを感じていない分、大人より自由で柔軟なものが多い。つまり、管理者たる神が不在のこの世界で、その神話を信用する価値はあるのかと言っているのである。


「では信じなくてもいいと?」


「そこまでは言わないけれど……」


「なるほど。お嬢ちゃんは神話を信じることに意義を感じないんじゃな?」


 少女はこくりと頷く。だって存在するかも分からないものを信じることに、一体どれだけの意味があると言うのだろう。


「確かにシトゥク様を信じても小麦が育つわけではない。だが皆がシトゥク様を信じているから、こうして今日も小麦を風車で挽くことができるんじゃよ」


 言っていることがあべこべだ。信じても小麦は育たないのに、信じているから小麦が挽ける。少女は老人がボケているのかと思ってしまった。


「お嬢ちゃんは何を大切にしとるのかな?」


 大切なものか。沢山ありすぎるし、どれもかけがえのないものだから何を答えようか。――強いて言うなら、


「――メダル、かな」


 自分で答えて驚いた。なんだって突然そんなものを答えたのか。

 メダルとは、少女が幼稚園児の頃にお誕生日会でシュウくんから貰った、金色の折り紙で作られたお祝いのメダルのことだ。

 意外なことにあの頃のシュウくんは少女と普通に接していた。寧ろ他のお友達よりも少女と仲がよかったと言える。


 二人が小学校に上がってから少し経つと、シュウくんは新しく出来た友達と遊ぶようになった。少女に対する意地悪もその頃から始まった。

 だが、ある事件を切欠に少女はクラスの皆から意地悪をされ始める。それはシュウくんの意地悪とベクトルが全然異なっており、少女自身のある特質が起因していた。


 それからというものシュウくんはたまに少女を家にひっそりと呼んで、一緒に遊んでくれるようになった。幼稚園児の頃のように。

 何となくそれが彼の優しさなのかもしれない、と思った少女は、それ以降のシュウくんの些細な意地悪が気にならなくなった。だから、捨てようと思っていたメダルも大事に机の引き出しにしまっている。


 きっと少女の大切なものがメダル、と聞いても老人にはピンとこないだろう。そのメダルの歴史を知らないのだから当然だ。

 しかし、老人はにこやかに少女の答えに頷いている。――なんだ? お爺さんは私の心が読めるのか!?


「分からん」


 ――分からんのかい。


「分からんが、そのメダルとやらをお嬢ちゃんが大切にしていることが分かった」


 うーん、どういうことだろう。どうも老人の話が読めない。


「それが分かってどうなるの?」


「お嬢ちゃんの気に触ることを一つ、未然に防止することができる」


「それはそうかも」


「うむ。アルスへインには様々な人が住んでいるが、皆神話を大切にしておる。その意味が分かるかな?」


「同じものを大切にしているから?」


「その通り。神話の意義とは、それを信じる者同士の心を結ぶことなんじゃよ」


「心を結ぶ、か」


 この世界がどこか穏やかな空気に包まれているのには、そうした人々の心を結ばせるものがあるからなのだろう。老人の後ろの風車は、それに応えるようにギシリと木の噛み合う音を出しながら回転している。

 話に一区切りがついて、老人は自己紹介してきた。


「わしはヤン。ここで風車の守り人をやっておる」


「奏、双海奏。私、この風車好きよ」


 カナデは老人の後ろの風車を指差して、はにかむように笑ってみせた。元々好きなのも勿論あるが、ヤンが風車を大事にしているのが分かるから、余計に親近感が湧く。もしかしたら自分は今、風車を通してヤンと心を結ばせているのかもしれない。


「それは嬉しいね。またいつでも遊びにおいで」


「うん、でも次はいつ会えるか分からないわ」


「どうしてだい?」


 奇妙なことを言うカナデにヤンは首を傾げた。


「私、あの道を真っ直ぐ行って面白いものが見つからなかったら、頬をつねって帰るから」


 ヤンはカナデの発言に少し間を置くと、今度はどっと笑いだした。カナデは急に自分が笑われてキョトンとしてしまった。


「ハッハッハ、カナデちゃんはまだこの世界を夢の中だと言っておるのか? その冗談はもう飽きてしまったわい」


「冗談なんかじゃないわ! 本当にこの向こうへ行って戻ってきたら帰るもの!」


 カナデは馬鹿にされたのが癪に障って、すっかり気分を害してしまった。ヤンは不機嫌になってしまったカナデを宥めすかすように、笑ってしまった理由を説明してくれる。


「済まなかった、怒らんでおくれ。行って戻るといっても、メンデルンまでは早馬で一時間、普通の馬車で三時間も離れておるぞ。まさか歩きでは行くまい?」


 ――なんだ、そんなことか。


「それなら心配ないわ」


 カナデはそう言って街道の方へ歩き出した。ヤンはその後を付いていく。カナデが一体何をするのか、興味津々のご様子。頻りに髭を触りながら道の真ん中で立ち止まったカナデを見つめている。


 ――ママとはこれを使わないって約束してたけれど、夢だしいいよね?


 カナデは心の中で母親に頭を下げる。そしてゆっくりと目を瞑る。


「見ててね。これを使ってひとっ飛びすれば、馬で三時間だろうが関係ないわ」


 すると、カナデの額に光輝く何かの刻印が浮かび上がるではないか。その瞬間からカナデの周りの空気が揺らぎ始めた。


「な、なんじゃ!?」


 異様な空気感が漂うこの場に、ヤンの眠っているように見える瞳が見開く。


「私ね、『シキ』なの」


 カナデは瞳を閉じながら自分のこれまでを話し始めた。

 空気の揺らぎは次第に増大して、微風になっている。


「これのせいで学校でいじめられていたことがあるわ。あれは体育の時間だった――」


 一言一言カナデが言葉を紡ぐ度に風は激しくなっていく。いつの間にか風はカナデの周りに集まりだしていた。ヤンの後ろで勢いよく回っていた風車は皆減速し始める。ヤンはただ呆然とその光景を見つめていた。


「ドッジボールでね、ボールがぶつかりそうになったの。体育で使うボールって硬くて嫌いだったんだ。だから、無意識に力を使ってしまったの」


 カナデは身の上話をしながら見えない糸を編むように両手を動かす。動きに合わせて風がカナデの周りを回転していく。風は視覚化できる程までに成長していた。


「――お嬢ちゃんは一体……!?」


「夢が覚めたら、私も周りの人たちと心を結ばせる努力をしてみるわ!――じゃあ、道の向こうを見てくるね!」


 そう言うと風は巨大な竜巻となってカナデの体を持ち上げ、瞬く間にヤンの元から遠ざかっていった。


「あんなに幼い子があれほど神に愛されているとは……あれは下手するとヴェーダクラスの使い手じゃな」


 ヤンは目の前で起きたことが信じられなくて、ただその場に立ち尽くしてしまった。――気が付くと風は元通りに戻り、風車は何事もなかったかのように通常業務を再開していた。

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