9、ファウストの亡霊 その5
フィラルドはロリコンではありませんからね。
かつてこれほど理不尽な食い逃げ犯たちを誰が見たというのだろうか。フィラルドはカナデの手を引っ張りながら全速力で学区の小道を縫い走っていく。
道の角を右に左に曲がる度、五、六メートル後方の追っ手の姿が見え隠れする。追っ手は目元を布で覆っており、人相などは全く確認できない。ただ執拗に二人を追いまわしていること以外に分かることは一つもなかった。
「なん……なんだっ!? あいつ!」
「分からないけど、私たちを襲ってきたよ!?」
カナデは何度も脚が縺れそうになりながらも必死にフィラルドの全力疾走に食らいつく。
いつもの平和で賑やかなフィアー通りの裏道で、今日知り合ったばかりの二人は何者かによって追われていた。
*****
事の始まりは二人が食堂の席について三十分程度経った頃である。
フィラルドは昼食を済ませていたので軽めのものを、カナデは希望通りに甘いものとしょっぱいものを交互に口に運んでいた。
こちらの食事も食材に見慣れぬものが多々混じっているが、基本的にはイタリアンのようなかんじだな、とカナデは感じた。
まあヤンが小麦を挽くための風車を管理していたりと、カナデの知っている食材の名前もあったので、そこまで変な料理は想像してなかった。フォークとナイフがあることには驚いたが。
見慣れぬ食事に笑顔で舌鼓を打つカナデとは裏腹に、フィラルドはテーブルに敷き詰められた散財のあとを、魂の抜けた表情で眺めていた。
フィラルドは随分と軽くなってしまった修道服の裾の辺りを擦りながら、哀愁漂う声でカナデに尋ねる。
「――何か口にあったものはあるかい?」
多分、こちらの国の料理は始めてなのだろう、とフィラルドは凄まじい速度で次々と料理を胃袋に納めていくカナデを見ていた。
料理が口にあってるかどうかなどは聞くまでもないのだが、折角奢ったのだ。彼女のご機嫌な様子を是非本人の口から聞きたいと思った。
「うん。この緑の野菜の料理が美味しかったわ!」
カナデはテーブルに並べられた沢山の空き皿の中から、一つをナイフで指し示す。
巨大なインゲン豆みたいなものを塩焼きにしたものだった。カナデの中で一番イメージが近いのは、サボテンステーキだ。味は全然違うが。歯応えのある野菜を鉄板の上で焼いている、という点では違いはない。
「あれは野菜じゃなくて、果物だよ……まあでも気に入ってもらえて良かったよ」
そうか、あれは果物だったのか。カナデはフォークの先を舐めながらふーん、と鼻を鳴らした。
「果物なのに甘くないなんて不思議ね」
「そうだね、確かに言われてみると惣菜として扱われる果物は、そのキウリだけかも」
「キウリって言うんだ、これ」
カナデは最後の一欠片を突っつきながら答える。
「キウリは生で食べると美味しくないんだ。普通は塩焼きにしたり、漬け物にしたりして食べるんだよ」
「それじゃあもう野菜じゃない」
美味しいことには美味しかったが、正直あれを初めて食べようと思った人の気が知れない。それにかなりの歯応えがあった。きっと火を通してなかったらめちゃめちゃ固いキュウリのような食感がするはずだ。――そう言えば、どことなくキウリとキュウリ。音の響きが似ている。――と言うか一文字たりないだけじゃないか!
「……やっぱりこれは野菜だわ」
「ははは、僕も小さい頃に初めて食べたときはそう思ったもんだよ」
「でも、美味しかった! もう一つ頼んでいい?」
フィラルドは開いた口が塞がらなかった。
テーブルに敷き詰められた食器の殆どはカナデが平らげてしまったものだが、その上まだ食べるというのか。恐るべし、女子の胃袋。
何でも奢ってあげると言ってしまった手前、断れないフィラルド。額に汗を溜めながら、ひきつった笑顔で言った。
「ももももちろんいいよ。――でもそれで最後、ね?」
カナデはフィラルドの額から汗が垂れるのをじっと見つめてから、こくりと頷いた。
その後も食事を続けていた二人の前に、明らかに怪しい見てくれの人物が近寄ってくる。
「失礼お嬢さん、お名前を伺ってもよろしいかな?」
上下をぴっちりとした暗い紺色の服、外衣には色褪せた亜麻色のローブを羽織っている。すらっとした体格をしており、口元を布で覆っているため男女の区別が付けられなかったが、声色で男性ということが分かった。暗い闇を感じさせるような声を聞いたときは、ゾクリとした。
「カ、カナデですけど……」
カナデの名前を聞いた途端に男の目が見開く。
その目に殺気のようなものを感じ取ったカナデとフィラルドは警戒を厳にして、何時でも席を立てるように身構える。
「雇用主がお前を探している。――一緒に来て貰えないか?」
圧力をかけるように一方的に命令してくる男にカナデは精一杯の虚勢を張ってみる。
「く、雇用主って誰なの? 一体私に何の用?」
「俺は雇われの身でね、詳しくは知らない。それは実際に会ってから聞いて貰おう」
すると男はいきなりカナデの腕を掴む。見た目は細いのに尋常じゃない力で掴むと、強引にカナデを引っ張り上げた。
「きゃっ」
乱暴をする男に、静観していたフィラルドが止めに入る。男から普通じゃない空気が漂っているのはフィラルドも感じ取っていた。カナデを掴んでいた腕をひっぺがして問う。
「ま、待ってくれ。素性も理由もないのに強引に彼女を連れていこうとするのは、あまりに不敬が過ぎる。僕の服装を見ての狼藉かな?」
男はカナデに意識を集中していたみたいで、フィラルドの修道服には目が向いていなかったらしい。
「その手の警告は俺には通用しない。素直に付いてこないのなら、少々荒くても構わないと雇用主から言われているのでね――」
男はそう言うとローブの中に手を忍び込ませる。
――そうか、失念していた!
この大陸での聖職者の身分は騎士階級の人間に匹敵する。そのような者の連れ人に無礼を働くことは一般市民の取れる行動じゃない。つまり、男は普通の市民じゃないのだ。
「――なら、こちらも礼儀を尽くす義理は、ないね!」
フィラルドはすっかり怯えきっているカナデの手を取り、ローブの裏で何かをまさぐっている男の横を勢いよくすり抜けていく。
男は聖職者であるフィラルドが突然走り出すなどと考えてもいなかったようで、少し驚いて動きが止まってしまっていた。
こうしてフィラルドとカナデはその一瞬の隙に男との距離を稼ぐことに成功した。
*****
二人が道の角を曲がり姿を消したのを、男と何だか表が騒がしいのが気になって出てきた食堂の店主は呆然と見ていた。
店主は状況を誤解したのか、しかめっ面で男に話し掛ける。
「あんた、あの二人の知り合い? 悪いんだけど、代わりに支払ってくれないかな?」
男はそれには応えず、ローブの中から鋭利な刃物を取り出した。
それを見た店主は「ひぃっ!」と声を漏らした青ざめる。腰が抜けて道に倒れ込んでしまう。
「悪いが今は持ち合わせがない。もう行ってもいいかな?」
「え、ええ、どうぞ! キウリの塩焼きがまだ残ってるんだけど、食べてくかい?」
店主は刃物を取り出した男の気を荒立てないように、冗談を交えて
「……いいや、結構だ……」
「ですよねー」
「――っ!」
男はヘラヘラとする店主を尻目に、凄まじい速さで二人の走り去った方角へ駆けていってしまった。
店主は危険人物が去ってくれて一安心したのだった。
*****
――というわけで今に至る。
何とかあの男を上手く撒ける手段はないか、カナデとフィラルドは考えながら走り続けていた。
フィラルドは緊張を悟られないように一拍呼吸を整えてから、カナデに追っ手の男が知り合いじゃないか尋ねる。
「――ねえ! あいつ、ほんっとうに知れない人なの!?」
「本当に本当! フィラルドこそ、知らないの?」
「僕はああいう輩とは無縁だよ! ずっと学院に籠って研究してたからねっ!――とりあえず人の目がある通りまで急ごう。どうやって撒くかはその後でいいからっ」
狭い路地をひたすら走り抜く二人。何度か男を攪乱するために敢えて通りまで遠回りの道を使ったりしながら。
それにしてもフィラルドは初めて来た、と言うわりに随分と街の地理に詳しいような。カナデはそれが不思議でしょうがなかった。
何とかフィアー通りまで戻って来れた。二人とも馴れない全速力のせいで心臓が飛び出そうになっている。
「しっかし――」
「あの男はどこなの?」
追ってくる男を人混みで撹乱するのはナイスアイデアだったが、こちらも相手の行動が確認できないのに今更気がついたのだ。
「これじゃあ何処に逃げるのが良いのか全然分からないわ!」
「と、とりあえずここに戻ってきたときに通った裏路地からは離れようか」
「そうね」
立ち止まって話しているために、通行人は二人を邪魔そうな顔をして避けていく。
ここに突っ立っていたって、やがて男に距離を詰められる。向こうがこちらの居場所に見当がついていないと確信したわけではないのだ。
とにかく二人は街の中を動き続けることにした。
それから一時間は歩きまわっていたかと思う。
追っ手の男の気配も感じないし、そろそろ警戒を解いてもいい頃だろう、と二人は判断した。
通りには城門までの道のりに三つ、円形の広場がある。フィラルドとカナデは王城に一番近い広場まで行くと、そこに置かれたベンチに腰掛けた。
と、ここでフィラルドは自分達に周りの視線が集まっていることに気付く。
だが、どうやら自分が注目されているわけではないようだ。視線の先を正確に辿っていく。皆はカナデを見ていた。
「あーそうか」
「ん?」
カナデは子猫のように首を傾げる。
フィラルドは何も言わずにずっと顔を上下しながら、カナデのことを見つめていた。
やがてその変態的な視線に我慢できなくなり、カナデは聞いた。
「顔に何か付いてる?」
「ううん」
「じゃあ、何?」
何を見ているのかと聞かれたフィラルドは、暫し腕を組んで何事かを考えてから、一人納得したように頷くと、かなり真面目な顔でこう言った。
「カナデちゃん、脱いで」
……………………………………。
「……ごめん、今なんて?」
カナデは自分の耳から聞こえた単語が信じられなくて、もう一度同じセリフを言って貰うことにした。空耳という可能性もある。
しかし、フィラルドの口から出た言葉はやはりカナデの聞き間違いではなく、明らかに常軌を逸した発言だった。
「カナデちゃん、脱いで」
……………………………………。
物凄い勢いでベンチに端までズルズルと逃げていくカナデ。フィラルドのあれな視線から身を守るために両手で自分の体を抱えてみる。
二人の間に謎の沈黙が訪れる。
そして、やっとフィラルドは自分が大変な誤解を産むような発言をしたことに気が付いたようだ。
慌てて手を激しく振って誤解だアピールをする。
「あああ! ち、違うよ! カナデちゃん、服だって服!!」
「――うん、分かったからもう私に話し掛けないで。こっち見ないで。近寄らないで」
「そうじゃないんだよ! その服が目立ってるって言いたいんだ!」
――はて、服とな?
カナデは改めて自分の服装を確認する。うん、何の変哲もないワンピースだ。これのどこに目立つ要素があるのだというのか。
そう言われても全く意味が分からない、という顔をしているカナデにフィラルドは頭を掻きむしりながら説明した。
「その服、街の人たちや僕が着ている服と全然感じが違うんだよ」
なるほど。それで気が付いたが、カナデに好奇な目を向けているのはフィラルドだけじゃなかった。周りの人たちもカナデの不思議な格好を見ていたのだ。
そう言うことならもっと早く言ってほしかった。これのせいでまたあの男に見つかっては、逃げてきた意味がない。カナデはフィラルドに悪態をついた。
「なら最初からそう言ってよ」
「言ったよ! 服だって!」
「脱げって言ったじゃない! 危うくあなたに対する信頼が地につく所だったわ」
それを言われると苦しい、という顔をするフィラルド。うう、と唸って自分の頭をゴツゴツと殴り始めてしまった。
だが、確かにこれは不味い。夢の中とは言え、追っ手に掴まって嫌なことをされたら寝覚めが悪い。見つからないようにするためには服装を変えなければならない。
「――でも、着替えなんて持ってないしなー」
「あっそれならいい考えがあるよ!」
いつの間にかフィラルドは調子を取り戻していた。立ち直りが早すぎて、先ほどのセクハラをあまり反省してないんじゃないかと、カナデは少し気に入らないような表情になる。
が、それには全く気にせずにフィラルドはカナデを着替えさせるための名案を披露した。
「僕が今泊まっている教会に予備の修道服があるはずだ。――君、今夜泊まるところもないだろう? 良かったら教会まで来ない?」
「泊まる? 教会に?」
「うん。だって君、一人でしょ?」
「一人……」
教会への宿泊を勧められたところで、カナデはこの夢が長すぎることに引っ掛かった。
そして、フィラルドはカナデのことを"一人"と言った。
今まで見た夢にこんな長い時間何かをしたり、されたりするようなものがあっただろうか。次第にカナデの体を不安の空気が包み込み始める。
追っ手の男から逃れるために必死に走った足も痛いし、フィラルドに奢って貰ったご馳走もとても妄想の為せる範疇を超えていた。――それにここは夢の世界だ、と言ったときのヤンの反応。
「夢、だよね……」フィラルドが聞き取れない程にボソッと呟くカナデ。辺りはすっかり暗くなり始めていた。
ドルクエでロマルアに着いた頃に鳴るはずの帰りのチャイムも、セーブデータを保存してくれないシュウくんの「もう帰るの?」という寂しそうな声も、カナデの夢だと思っているこの世界には聞こえてこない。
夢じゃないとしたら、どうすればいいの――
カナデは突然黙りこくってしまった。
急に物静かになってしまったカナデを、フィラルドは何とも言えない哀しそうな顔で見ていた。きっと辺りが暗くなってきて、始めて今の自分が一人ぼっちだということに気が付いたのだろう。
何者か追われているようだし、このまま放っておくわけにも行くまい。
この子を連れて帰ったときの、神父のにこやかな顔から発せられる毒の含まれた嫌みが鬱陶しいが、止むを得まい。困っている人は無償で助けなければならないのがスフィア教の教えだ。教えに反することを神父は言わないだろう。
それに彼女の不思議な力は、もしかしたら僕の研究しているものと何か関係があるのかもしれない。
『シキ』とは一体何なのだろうか。研究の進捗に関わらず、その単語はフィラルドの中に妙な知識欲を生じさせていた。
「よーし、そうと決まれば僕と一緒に帰ろう。――教会に」
フィラルドはそう言うと、ベンチから立ち上がって歩き始めた。少し進んだところでカナデが後ろを付いてきているかを確認する。
カナデは信じられないほど素直に後を付いてきていた。
――彼女に何が隠されているのか分からないけれど、僕が何とかしてあげないと彼女は一人になってしまう。
頼れる者が一人もいない状況というのは、人の心を物凄い勢いで蝕んでいく。
フィラルドには孤独の苦しさをよく分かっているので、彼女を置いていくことは出来なかった。
フィラルドはすっかり不安に圧し殺されそうになっているカナデの手を自然に握って上げた。
細くて小さな手だ。
一人にさせないようにしっかりと握らなければならないのに、強く握ると簡単に折れてしまいそうだった。
フィラルドはカナデを元気付けるように出鱈目に陽気な声で、明日からの仕事をサボる宣言をしてみせた。
「僕、明日から仕事をお休みして、君を色んな所に連れてってあげるよ! どこでも好きなところを言ってくれて構わないからね」
「……」
返事は無かったが強く握り返してきたカナデの手を、フィラルドは肯定の意とみなしたのだった。