転生なんて望まなかったんだよ
頭から飛び込むのは怖かったから、足から落ちようと思った。
縁に腰掛けて、暗闇ばかりの底をしばらく見据えていた。少しの間こうしていても、生が惜しいとは思えない。
自身の人生に、貧相な心に、器の狭量に、大きく溜息を吐いた。
「もう、いい、ですよね」
淵にかけていた手に力を込めて、身を乗り出し――落ちる。
どぷん、と想像よりもとろみのある音がした。それから一泊置いた後、その水の冷たさに凍えた。
藻掻きもせず、じっと沈むのを待っている。侵入してくる水や、漂う着物の感触が妙にリアルで――、着物?
「……っ」
ごぼりと吐き出した空気が一瞬だけ視界を埋めて、すぐに遠のいていった。私が落ちていくほどに、口から泡が溢れて天に消える。諦めた人生を、少しずつ切り離していくようだった。
ごぼり、ごぼり、ごぼり。
苦しいけれど、これは夢。そう、わかっているから、苦しいのは今だけ。すぐに目覚めるから、大丈夫。苦しいのは、苦しいのは、悲しいのは、今だけだよ。
水中で走れない夢は子供の時から何度も見た。けれど最近は、ただ溺れるだけだ。悲鳴の代わりに泡が昇って、涙の代わりに心音が溢れて、落ちていく。闇へ。
悲しいと訴える心が凪いでいく。
これでいい。私はもう何者にも侵されない。
私はきっと、私の心に構うことさえ疲れてしまったのだわ。
*
小さな南の島が私の故郷で、この先もずっとお世話になる予定の場所。
この地で、武将と農民の娘が結婚したらしい。とてもとても昔のお話だ。
政略結婚とは名ばかりの、熱くて切ない恋愛婚。その中には、農民の娘は実はさる高貴な血筋の――とかいうありふれたエピソードや、幼少期の出会い、誘拐からの救出劇、許嫁からの嫌がらせなど、盛りに盛られた物語が町の図書館に置いてある。戦で攻め込まれた時、敵に辱められてなるものかと海に身投げした元農民娘の、涙ぐましい最期まで。
私はその話が大嫌いだ。どこにでもある悲劇なのに、この町のその話だけは嫌いだ。
今目の前にある展示品――武将から農民娘への恋文なんて、吐き気がして見られたものじゃない、のに。
「……ぁ」
鼻の奥がつんと痛い。顔が一気に熱を持って、喉の奥がひくついた。これは泣いてしまう兆候だ。小学校の時から、泣いたことなんてないのに。
これ以上はダメだと本能でわかっていても、瞳がそれから離れなかった。硝子ケースに飾られてライトアップされた、古ぼけた紙をじっと見つめ続ける。
ろくに読めもしない、みみずののたくったような文字が、おぞましい。
「おい……?」
「どうしたの? どこか、痛い?」
耳慣れた低い声が二つ、耳に飛び込んだ。幼馴染の双子のものだった。一番安心できる声なのに、今はそれがとても痛くて、二人から距離をとりたくなった。けれど足も動かなかった。親とはぐれた迷子の子供みたいに、ひたすらそこに立ち竦む。
肩に誰かの手が乗った。それが『どちら』のものか、判別は不可能だった。
博物館という公共の場で泣き顔を晒すことを、恥と知っていても、止まらない。
(ああ、嫌いだ。嫌いだ。――嫌いだ)
ただ嫌いと叫びたくなって、だけどそれはさすがに我慢した。代わりに何も言えなくなった私を気遣ってか、二人は私を外に連れ出してくれた。
埃臭い博物館から出ると、体中の酸素を取り替えてしまいたくなった。何度か深呼吸を繰り返して、奢ってもらった冷たいいちごオレを一気に飲み干す。
何も言わない私を見て、一人は苦く笑って、一人は「もう平気?」と無感情に尋ねてきた。さらさらの黒髪と、ちょっと茶色い瞳、顔立ちまでそっくりなのに、性格はとことん似ていない兄弟だ。
男の子二人と女の子一人という構図は、物語ではありがちかもしれない。
彼らと私は、陽が沈む水平線を横目に家路を歩く。
今日は波が穏やかで、先日の台風なんて忘れそうだ。だけどどこか湿っぽくて生暖かい空気が肌を包んで、服の下にまで入り込んで、汗をじわじわ誘ってくる。脇とか、背中とか、服の色が変わっていなければいいけど。
「ごめんね」
「うん?」
思考に耽っていると、聴き慣れた声が左隣から聞こえて反射的に答えた。
「俺が、博物館に行こうなんて言い出したから」
「勝手に変なところで泣いた私が悪いんです」
今日は『伝説』を中心とした展示だった。乗り気ではなかったけれど、はっきり断らなかった私が悪い。まさかあんなに大げさな拒否反応が出るなんて、私自身予想していなかた。
醜態は早く忘れさってほしいし、話題を変えるようとして話の種を捻り出す。そうすると出てくるのは、今朝の夢の話だった。
潮風に靡く髪を押さえて、ぽつりと呟く。
「水って苦しいよねえ」
「…………」
「うん、急にどうしたの?」
「いやあ、昨晩ちょっと飛び降り自殺する夢をみちゃって。でもこういう夢って良い兆候らしいよ」
笑うと、幼馴染の二人は言葉に詰まったようだった。
弟の方は一瞬目を見開いたけど何も言わなくて、兄の方は苦笑する。
「夢か……」
「でも夢の中って、そこまで感覚ないでしょ?」
「んー、妙にリアルだったんですよ。夢の中でトイレに行ったらおもらししてた、とかそういうものと一緒じゃないですかね。起きたら布団を頭まで被ってて、息苦しかったし」
「女子がそういうこと言うか」
弟の方が頭を軽く叩いてくる。表情があまり変わらないけれど、その代わりに手が出るのは昔からだ。
「キミは女に夢を見すぎなんですよう」
顔を海岸の方に背けて、火照った顔を夕日の赤に隠す。速くなった脈拍を意識したくなかった。けれどずっとそうしてもいられないし、彼を睨んでみると、彼もまっすぐこちらを見返してくる。
「……悪い」
「わかれば良し」
悪戯に笑って彼の頭に手を伸ばすと、ぽんぽんと撫でてやった。それを払わず、大人しくされるがままになっている彼なんて、きっとクラスの女子は見たこともないだろう。近寄りがたい彼に気軽に触れられるのは、家族以外で私だけだから。
背後からくすくすと声がした。さっきから口を開かなかった人が、嫌に優美に笑っていた。何が面白いのやら。
「仲良しさんだねえ」
兄の方は、私の気持ちを知っている。幼い時からずっと温め続けた私の想いを、咎めることもなく、かと言って応援もせずにいてくれる。
恥ずかしさ半分に睨みつけていたら、今度は弟の方がぽつりと「俺も、変な夢みる」なんて呟くものだから、それも聞き逃せなかった。
兄の方もそれは初耳らしくて、「そうなの? どんなの?」と好奇心をあらわにしていた。
「すっげー昔みたいでさ。俺が綺麗な人といちゃいちゃしてた」
「なんですかそれただのいい夢じゃないですか」
「んー……妙に現実くさかった」
「はは、それって願望じゃないの?」
「兄貴は見ねーの?」
「俺はそういうのは見ないかなー」
双子だからって、なんでも同じわけじゃない。それはまあ当たり前なのだけど、双子だとどうしても一セットとして考えやすい。
兄弟、見る夢は違うんだ。と妙なことで驚いてしまった私の頭に、双子の拳が同じタイミングで落とされた。二人にとって、双子であるということがコンプレックスでもあるらしい。仲が悪いわけでもないけど、なかなか複雑なようで。
「なあ」
「なんですか」
「あのさ、海で溺れるって、塩辛いのか?」
彼が神妙に聞いてくる。今日はよく喋るなと不思議に想いながら、簡単に答えた。
「さあ? 辛いんじゃない?」
「…………」
彼は納得したのか、していないのか、それきり会話は続かなかった。考え込んでいるようで、遠くを見つめている。彼は時々こうして自分の世界に飛んでしまう。この、真剣で寂しげな瞳が、私は大好きだった。
彼のこの瞳を見るたびに懐かしい気分になれる。
家に帰っても、頭の中は『彼』のことばかりだった。今日も話せた、良かった。頭に触れてくれた、気持ちよかった。そうして心地良いままでベッドに入り、眠りについて――溺れる夢を見る。
どぼん。
その水は塩辛いかと意識してみたけれど、やっぱり味はしなかった。夢の中だもん。仕方ない。
目が覚めてすぐに時計を確認してみたら、まだ夜中の二時くらい。
「うあー……」
息苦しい。ここ数日は、死ぬ瞬間までが見えてしまう。
荒くなった息を吐いてー、吸ってー、と繰り返して、心を落ち着けてみる。
すると、ふと昨日の会話を思い出してしまった。
『すっげー昔みたいでさ。俺が綺麗な人といちゃいちゃしてた』
――すっげー昔。
――嫌いな伝説……溺れ死んだ元農民の娘。
――何故か着物で溺れる私。
そうだ、あの娘が死んだのは、ちょうど今の私くらいの年頃で――。
輪廻転生というものがあるなら、そしてそれを自覚するとしたら、きっとこういう瞬間なんだろう。まさに、今。心臓がどくどくと五月蝿く鳴って、ベッドの上でのたうち回った。
顔が熱い。どうしよう。
彼が見た夢。考え込んだ彼。どこか遠くを見つめていた彼。
私が見る夢。泣き出した私。生まれた時から恋している私。
『自覚』した私は今、『前』の『彼』が愛しげに囁く声を思い出してしまった。
*
「おはようございます」
「はよー」
「おはよう」
教室でも、彼の顔が素直に見られない。まだ赤みが残っていそうで、それを指摘されでもしたら気絶してしまう。
内心で『平常心』を五十回ほど唱えながら席につけば、隣の席の人が少し驚いたように「いいことあった?」と聞いてきた。曖昧に返事をして、すぐに机に突っ伏した。今朝は眠たいふりをする。
どうしよう。嫌いだと思っていた伝説が、今では優しい物語みたい。
だってもしも彼が、あの真剣な瞳で昔の私を考えていてくれたなら、私を探してくれていたなら、これほど運命的なことはない。決められたレールを辿るみたいに、未来は眩くて明るくて、とっても温かい。私に優しくて、邪魔者もいなくて、今度こそ好きな人と一緒になれる。
少女小説はもう読めない。物語みたいな運命に手が届く。
緩む口元を抑えられなくて、1限目までにどうにか直さないといけない、なんて焦り始めた。
ざわつく教室内が静まって、ホームルームが始まるのを察する。だらしない顔を正して黒板の方を見て、そしてそこに。……そこに、目の前に、なんだろう、よくわからないけど、あれ?
絶望が立っていた。
「……え?」
困惑と溜息が同時に出てくる。その声は誰にも聞き取られることなく消えていった。
教室中が、黒板の方に注目している。クラスメイトのみならず、机も、椅子も、時計も、窓も、隅っこの掃除用具倉庫すら。『彼女』を見つめているのだと、そんな錯覚すら覚えるほどに。
「今日から、この学校でお世話になります」
彼女は綺麗だった。
背後の黒板に上品な文字が連なっているのがぼやけて見えたけれど、それはきっと彼女の名前か何かだ。
華開いたような、穏やかな笑顔の転校生。
光を弾く黒髪に、陶器のような肌と――優しげな瞳。同い年とは思えないほど落ち着いた物腰。鈴が軽く転がるような声が、教室中の音を一瞬にして消し去った。
こんな人間が実在するのかと思った。
そして何よりも信じられなかったのは――、彼が彼女と視線が交わった時に、泣きたいような、静かな笑みを浮かべていたことだった。
頭の中で何かが壊れた。
その日はずっと呆然とした。先生に何度か注意されたけれど、結局は心配されて保健室で半日を終えた。私の鞄を持って迎えにきてくれたのは、彼と同じ顔をしながら、柔らかい雰囲気の人だった。
違う。貴方じゃない。そんな最低なこと、言えるわけない。
「……大丈夫?」
「…………」
肯けなかった。
二人きりで眺める夕日には圧倒的に何かが足りなくて、喪失感に襲われる。
そしてこの日から、『彼』は私達と行動することはなくなった。
*
数ヶ月前までは三人で歩いていた道を、二人で歩く。
私は『彼』が好きで、『彼』の兄は私の気持ちを知っていて。もしも私が『彼』と結ばれたなら、それはきっととても幸せな未来なんだろうなって思っていて。それもまあ、有り得ない話ではないと思っていて。だって生まれた時から私達は三人でいたからさ。
期待、してたんだよ。
それなのに、彼女は急にそこに現れて、当たり前のように彼と付き合い始めた。
彼はそれが使命だと言うように彼女を過保護なくらいに厳しく守って、登下校も一緒にして、彼女に近づく男から遠ざけた。
兄や私を蔑ろにしているわけじゃない。毎朝挨拶もするし、クラスメイトに対するものより密な会話だってしてくれる。それでも彼の心は彼女にある。
夏明けから地獄の数ヶ月間、彼らを見つめて生きた。
そうして溜め続けた黒黒しいものが爆発したのは、彼等が放課後の教室で口付けていたのを見た時だ。つまり、今日。
私は私を思い出した。
枯葉をかしゅりと踏みつけて走った。何十段とある急な石段を、憎しみを込めて駆け上がる。その上に、誰もいない、寂れた神社があった。三人でよく遊んだ思い出の場所だって、そんなこと、私はもう忘れていた。
何もかもが憎らしい。彼と遊んだ記憶、手を繋いだ幼い日々。全部、要らない。呪われた時間を、それと知らずに笑顔で過ごしていただけだった。
「意味わかんない!」
境内の井戸の中に、ありったけの想いを放り込んだ。声に乗せたそれが、水面を震わせる。
「なんなの、あいつ、私、私が先に……っ」
そうだよ。
転生しても、現世で先にあの人を見つけていても、結局私は邪魔者なんだよ。ねえ、本当は気づいていたんじゃないの? 私。
大海原に散った『農民の娘』と、恋に狂って井戸で自害した意地悪な『許嫁』。愛されるのはどちらかなんて、決まっていた。
叶わない恋だ。誰にも歓迎されないで。醜い執着だらけで、綺麗なところなんて一つも見えない。私が敗れてはじかれて、めでたしめでたし。
「あ、ぁ、あああああ……ああああああああぁあ」
心に沈殿していた、汚いものが巻き上げられる。
思考は情報を無理やり収束させて、私に理解だけを求める。
何も解りたくないのに。納得できるわけもないのに。
事実だけを淡々と纏めて、私を苛んだ。
「きらい、きらい、嫌いきらい、きらい、嫌いきらい、きらい、嫌い嫌い嫌い嫌い! 意味わかんないよ、ずっと、だって、私が、いっぱい、わたしが……――っ!」
博物館で見た、彼から彼女への恋文。私が遠くから見つめただけの、彼の愛。彼が囁いて彼女が恥ずかしそうにする仲睦まじい姿。
なんてこと。
私は結局、勝手に期待して、裏切られたと今も喚いて、此処で一人、醜く咆哮を上げるだけの存在だ。
古ぼけた井戸は、ちょっとつつくだけで壊れそうだった。だから蹴ってみたのに、どこも欠けない。割れない。
年を重ねたそれは、昔と変わらず沈黙するだけ。
昔の私がこの中で死んでいても、その屍を閉じ込めておくだけ。
八つ当たりでさえ、何も壊せなかった。
怒りを彼にぶつけるには臆病で、彼女にぶつけては彼に怒られると恐れて、輪廻がどうたらとおかしい人扱いされるのも嫌だった。
弱い私が壊せるのは、私の身だけだ。
じんじんと痛む足の指先が、惨めな気分を煽る。
何も考えずに、井戸の水を汲み上げた。それを頭から被ってみたけど、どうにもならない。冷える頭なんて持ち合わせていない。現実逃避に勤しみたい脳は、やっぱり彼と私が主演の都合良いラブストーリーを描く。
ああ、私はまだ馬鹿なこと考えてる。まだ足りない。
夕暮れの秋空の下で、私が水を被る音だけが響いた。足下には枯葉が溺れて揺らめいていた。
彼を諦めて心を鎮めろと命令してくる理性が、腕を動かした。それが癖になった。
日が完全に沈んだ頃、井戸の桶を頭上まで持ち上げた腕が、ぴたりと止まった。おかしいな。まだ足りないのに。仕方ないからそのまま桶を逆さまにした。でも、いつまで経っても水の感触がしない。どうしてだろう。
手を見たら、桶がなくなっていた。麻痺して、触覚がいつからか消えていたらしい。
どうにもできない。桶はどこにいったのかと考える気力すらない。
そのまま立ち竦んでいたら、頭に何かが被さった。水じゃない。温かい布。誰かの体温が移ったコートだった。
「風邪ひくよ」
苦笑を混じえたその声は知っている。振り返ったら、さっきまで私が使っていた桶を片手に、幼馴染の一人が立っていた。
やっぱり、兄の方。
私が望み続けたひとではなくて。
「……見てたの」
「うん、見てたよ」
「いつから」
「最初から」
「変な女って、思った?」
「うん」
笑みを深めて、彼は頷く。
珍しいものを見たという風に、面白可笑しそうに。
「どろどろしてて、般若みたいな顔してたね」
うん。
「嫉妬は醜いって、本当だったんだ」
うん。
「キミのそんな怖い顔、初めて見た」
うん、そうだね。
返す言葉も見当たらなくて、かけられたコートを握り締めて顔を隠した。そうして、自分がやっと落ち着いたことに気付く。
「……ねえ」
私が反応しないのを見計らってか、彼は背後から抱き締めてきた。
「俺にしなよ」
「……え」
「俺にしなよ。アイツなんて諦めてよ。俺がどれくらい、アイツに嫉妬したと思ってるの」
――今の君みたいに醜い想いを、生まれた時からずっと背負ってるみたいなんだ。
そう、耳元で優しく彼が恐ろしいと思った。
「なんで、私?」
「なんでって? ああ、やっぱり気づいてなかったんだね。『前』の俺の存在すら、知らなかったでしょ?」
風がひゅるりと鳴いた。
「君ってずっと馬鹿みたいにアイツばっかり見てたからさ、知らなかったでしょ。誰かさんが勝手に身投げなんてしちゃうからさあ。失恋の傷心中に此処で君の遺体を引き上げた俺の気持ち、どうしてくれんの」
転生の悪役ものが流行っていると聞いて書いたらなんか違った。