二日目。〜迎える朝、絶叫
お盆、二日目。
遠松家の地域は、旧暦のお盆ではなく、新暦の月遅れのお盆だ。
この日は、世間では一日目とともに帰省ラッシュの日である。
昨日家族の前で、告白します宣言をした遠松家の三女・三織。
朝方の六時、彼女は夢の中。
すやすやと眠る彼女、しかしそれは普段のはなし。 今は額にうっすら寝汗以外の汗をかき、眉間にシワを寄せ、苦しそうな寝顔であった。
というのも。
『ふかふかの寝床だーっ!!』
ちっちゃくて、ぼろぼろな小人忍者が夜這いしてきた夢を見ていた。
夢は、普段心の奥底で無意識に願う事柄が、眠っている間に“夢見る”かたちで姿を表すのだという。
(だからといって、想いを告げる予定のあいつならわからないでもない)
三織の意識は目覚めへ向けて浮上し始めていた。そんなはっきりともしない意識で三織は考えた。
では……自分は小人、しかもぼろぼろな忍者に夜這いされたいとでもいうのか。
しかもがしっ! と片手で握り潰すのが心の奥底で願う攻撃的な願いの現れだというのか?!
意識の覚醒があと少し、あと一歩、という意識でそこまで考えた三織は、ひとつの行動に出た。
―――すなわち。
「んなわけ、あるかーっっ! いや、ないっっ!!」
自分自身への激しい突っ込みで目覚めた。しかも右手を前方へつきだして、という無意識下での行動も付随してのお目覚めであった。 思った以上に力んで叫んでいたらしく、三織は肩を激しく上下させて、ぜぇはぁぶはぁとかいう非常に乙女らしくもない呼吸音声を吐いてしまった。
そのことに軽くショックを受けながら(だって十七の乙女だから)、三織はつきだした状態の右手を見て―――停止した。すべてが止まった。
『ぐぇ……はや、く……離してくれー……』
青い顔して、潰された蛙のような悲鳴をあげる“それ”が、三織の年齢にしては小さな手に収まっていた。
「いっやああああああああああああああああっっっっ??!!!」
―――遠松家のお盆二日目の朝は、三女の家中に響き渡ろうかという(実際響き渡った)悲鳴で開幕した。……この日は、三織が一番、朝が早かったのである。
「ゴキブリ?」
朝、七時。居間にて、五人の家族が食卓を囲んでいた。父・末男、母・駒子、長女・一香、次女・二奈、三女・三織。
いつもなら――三人であっても――賑やかすぎる食卓も、今日は恐ろしいまでに静かで、空気が重かった。
「朝早く大声で叫んだ原因が、ゴキブリなの?」
そんな重い沈黙の中、尋問のように言葉を発するのが、遠松家の影の大黒柱・駒子。この人に逆らってはいけない、というのが父以下遠松家の家族の暗黙の了解であった。
今も、影の大黒柱たる母に逆らってはいけないと、騒ぎの当人である三織以外は発言はしていない。
「はい、まごうことなきゴキブリでした」
三織は震えあがりながら答えた。
実際は、ゴキブリなんかではない。ゴキブリが可愛らしく思えるくらいの出来事であった。思わず、仏壇へ助けを求めてしまうくらいに。
だからといって、さすがにあれを馬鹿正直に話せなかった。話したが最後、心の病気を疑われそうだったからだ。
なので、三織はゴキブリが布団の中にいたのだと言い張ることにした。朝ふと目が覚めて、そこにはゴキブリがいたと。
……十七の乙女の布団の中にゴキブリがいたなんて、なんて不潔! と思ってしまうし、抵抗もある。他の人にもそう思われてしまうのもいただけない………が、しかし。それ以上にあれを素直に話したくないことの方が大きかったからに他ならない。
「……本当に?」
駒子は片方の眉をつり上げた。
「絶叫をあげながら、何故か仏壇の前まで行って、ひとりぽくぽくちーんと木魚を叩くという奇行に出た原因が、本当にゴキブリ?」
ぎらん、と輝く目で駒子は娘に問う。まるでその様は尋問中の刑事のようで、三織は震え上がってこくこくと頷いた。
「まぁ、いいわ。そういうことにしてあげましょう」
駒子は髪をかきあげ、溜め池を吐きながらそう告げた。一方、娘の三織は母の怒りにまだ震え上がっており、顔が真っ青であった。
そんな娘に、母はいらっときたのだろう。
「うだうだせんと朝ご飯をさっさと食べなさい!」
……結局、三織は雷を再び落とされたのだった。
「……最悪」
そして、午前も昼に近い頃。
三織は、この暑い炎天下、墓掃除に来ていた。
朝食のあと、片付けも済まし、宿題という名の地獄にさぁいざ向かわんと三織が気合いを入れたときだった。
―――『今日の宿題が終わったなら、裏のお寺にあるうちのお墓のお掃除に行きなさいね』
問答無用と顔に書いた母・駒子が、三織にお掃除ワンセットを渡してきたのである。しかも真面目な三織が、いつも午前中の前半にその日の分の宿題を終わらせることを知った上で、だ。三織には断ることができなかった。
そして今日の宿題が、滞りなく終わったのは十時。いつも通りであった。
「……で。何であんたがいるのよ」
三織は恨めしい気持ちをたくさん込めまくった目でそれ―――今朝の騒ぎの元凶を見た。
それ―――ぼろぼろな忍者装束を身にまとった、小人。小さな三織の手と同じくらいの身長のサイズで、腰に刀まで差した小人である。
『オレは別に悪くないぞー!!』
遠松家のお墓の上に胡座をかぐ小人が、耳がキンキンするくらいの高めの声で吠えた。この小人、朝起きたら三織が握り潰しかけていた小人である。この小人がいたから、三織は絶叫をあげたのだ。
三織は絶叫をあげたあと、小人を窓めがけてぶん投げたことまでは覚えていた。その後は姿を見なかったので、てっきりゆめまぼろしだと思って忘れることにしたのだ、これ幸いと。
……お墓掃除に来て、お墓の上でちまっと胡座をかいているのを見るまでは。
そして、三織は今朝のは何だと問い質したのである。
この小人は見える、触れる、話せる。小人は間違いなく、あちらのものだろう。
三織は、よく幼い頃から“あちら”との境界線がよく見えていた。
―――あるときは、近所の公園の低木の影の中にあった。
―――あるときは、近所の小川の中にあった。
―――あるときは、竹藪付近に群生した藪椿の中にあった。
―――あるときは、トンネルの壁にあった。
三織が見た“あちら”との境界は、すべてが表現しがたい雰囲気を発していた。
そして、境界には……蜃気楼のように“あちら”のモノがこっちへ来いと手招きしているのだ。
三織は、一度モノによって“あちら”へ連れていかれかけたことがある。まだまだ幼い頃、境界の正体がわかっていないときの話だ。
あれは、確か七つにもなっていなかった頃のことだった。
『アイスー……ふぇ、みぃのアイスーぅ……』
ちょうど、三織はアイスを落としたときだった。大好きなストロベリーアイスを、地面の段差に躓いてこけかけたときに落としたのだ。
そのとき、目と鼻の先の公園の木の影になっているところに、こちらに向かって手招きしている黒っぽい影を見た。手にはアイスを持っていた。
『ぐすっ……、アイス、くれるの……?』
首をかしげ問う三織に、影は頷き返し、手招きをする。それを見ていると、三織の思考がもやがかかったみたいにぼうっとした。三織は、何も疑問に抱かずに影へ近寄っていったのだ。
『みーちゃん、アレに近付いちゃだめだ!!』
警戒心もなく、操られたように近付いていく三織の手を、三織より少し大きな手が引っ張った。
『だれ?』
その手の持ち主は、三織から見て逆光で顔が見えなかった。けれども、三織より大きいのがわかった。そして、ちりんと鈴が鳴った。
それが、三織が彼をより意識した出来事だった。
それまでは、よく遊ぶ機会のある、ただの近所の仲良い子の一人だった。
あの日以来、ことあるごとに彼は―――三織の想い人は、幼い三織に根気良く教えてくれた。“あちら”との境界のことを。
『“あちら”から、たまにヒトでないモノが来るから、近付いちゃいけなからな!!』
『ダメなのー……?』
三織は当時まだよく理解できておらず、なんとなく“助けてくれた”としか理解できていなかった。
そんな三織に、彼は頼もしくいったのだ。
『ぼくがみーちゃんを守る! 何からも、守るから! みーちゃんに危険が迫っても絶対に、そばにいるから! 僕がみーちゃんを守るんだ!』
その言葉を受け、三織は落ちた。一発で恋に落ちた。幼い三織には、大きな彼が、絵本に出てくる白馬の王子さまに見えた。
『やくそくだよ』
『約束だよ』
三織を助けてくれた、そのことがきっかけで、三織は彼を意識し始めた、ひとりの男の子として。
そして、彼の“守るよ”宣言で一瞬にして恋に落ちた。
長く続く片想いの始まりは、幼い日の初恋だった。
「………」
そして、今。
“守るよ”宣言をした彼はいない。
けれども、目の前の小人は、間違いなく“あちら”との境界と同じ雰囲気をまとっている。
あの日の影と同じ気配を。
三織に“守るよ”といった彼は、今ここにいない。三織を今すぐに守ってくれる彼は、いない。
だからこそ、三織は自分で自分の身を守らなくちゃいけない。
「で、うちのお墓の上にいるあんたは何」
周囲の草をむしりながら、三織は尋ねた。三織は、身体中に力を入れていた。無意識に、震えるのだ、体が。誰も、守ってくれない。自分を守ることができるのは、自分だけ。
それに、
(いつまでも守られてる場合じゃない)
自分を自分で守ることができるようにならないといけないのだから。
あの日のように、手を差し伸べてくれる彼はいないのだから。約束は、守られなかった。忘れらるものなのだ、子供同士の約束は。
いつかは忘れられて、風化する。それをいつまでも頼りにしてはいられない。成長しないといけない。
だからこそ、長年越しの想いを告げるのだから。
ズルズル引きずるこの気持ちにけりをつけて、前へ進まないといけないのだから。
「あんたは、何者、何が目的」
一歩、後ずさる。利き足に力を込める。いつでも走り出せるように、震える体を叱咤して、構える。
視線は前。
意識は後方。
準備は大丈夫。
いつでも逃げることはできる―――できるとかじゃない、逃げないといけない。
三織の草を握る手が汗ばむ。背中を汗が滴る。額からも汗が滴る。それらの汗は、暑いからではない。緊張から。でも、意識したら負け。だから三織は暑いからだと無理やり体に言い聞かせた。
油断したら、助けを呼びたくなってしまう。唇を噛み締めた。唇を一文字に結んだ。
対峙する小人が口を開いた。三織は、無意識に唾を飲み込んだ。ごくり、と喉が鳴る。
『聞いて驚くなーっっ!!』
三織に話を振られた小人忍者は、立ち上がって腰に両手を当てて胸を反らした。その自信に満ち溢れた顔には“えへん!”と書かれていた。
(あれ………)
三織は、何か違和感を感じた。
何だか、おかしい。
何だか、違う。
何だろう、この……違和感は。
小人は、三織が見ているうちにも何だか自信を増していく。
(自信? ……あぁ)
三織は気付いた。そして体が激しく脱力感をともなっていくのを感じた。
(凄く、凄く嫌な予感が)
『オレはご先祖様だーっっ!!』
ふんぞり返った小人は高らかに名乗りをあげた。三織は草むしりの手を止め、ピシッと硬直した。指で少しつついただけで、パキッと音がしてすぐにひび割れ、そのまま崩れていきそうな具合だ。
三織の緊張が一気にとれた瞬間でもあった。
三織は馬鹿馬鹿しくなった。あれだけ緊張し、張り詰めていた空気は霧散した。
えへん、と胸を反らす小人は、やはりあちらの気配を纏っている。
けれども、それを覆す、脱力感、肩透かし感、思いっきりずれているという感想。小人は、緊張して恐怖を感じおののくことが実に馬鹿馬鹿しくさせる空気を纏っていたのだ。
思わず三織が叫んでしまうくらいには。
「嘘ぉおおおおおおおおおおお!!! 嫌ああああああああああああ!!!」
青く澄み渡る夏空がどこまでも続く、晩夏まであと少しの午前。誰もいない寺裏の墓地に、三織の本日二度目になる大絶叫が響き渡った。
―――三織は再び絶叫をあげるはめになった。
『何とっ! 失礼な子孫だっ!!』
小人忍者はぷりぷりと頬を膨らませた。
(しかも、これが……ご先祖? まじ? 有り得ない!!)
三織は現実から逃避したくなった。
「あいつ………」
墓場の入り口付近で、自分たちをじっと見つめる影があったことを、三織は気付いてはいなかった。
夏空は三織の戸惑いなど置き去りに、今まさに曇り始めていた。
この物語に出てくる地名やら何やらはすべてフィクションです。