寂しがりの影法師
――ああ、今日も失敗ばっかりだ。
闇色に沈んだ街は、その姿を隠そうと随分と無理して明かりを灯す。有機物、無機物のいずれもそれに照らされて形を浮かばせていた。その中にいる有機物の一つ――“足立啓太”と名付けられた人間――は虚飾の街中で、今日も溜息をついた。
足立は、ごく一般の若いサラリーマンだ。そのスーツは悲しいほどに闇に染まり、彼の身体と街の境界線を曖昧にさせている。彼はふらふらとした足取りで帰巣本能の赴くまま、歩を進めていた。
――帰りたい、帰りたい。でも帰ってもまた同じ生活の繰り返しだ。
彼の脳内では、今日の夕飯としてコンビニで何を買うか、洗濯物と風呂をどのタイミングで入れば時間短縮か、明日何時に家を出れば会社に間に合うか……そんなことばかりが浮かんでいる。彼は疲れきった表情で、懐に忍ばせていた箱を取り出す。“six sters”と書かれているその箱から煙草を一つ、つまみ出した。それを咥えて先端にライターで火を灯す。この箱の下部分には健康を犯すという注意が書かれていた。
――こうでもしないと精神がもたない。でもここで負けるわけにはいかないんだ。失敗を少しでも減らさなければ、周りの信頼を失ってしまう。
彼の身体は疲労でぐったりとしていたが、それに反して真っ黒い瞳は闇に溶け込むことなく、光を写してギラリと光っていた。
――俺はこんなもんじゃない。成長しろ、成長しろ。
そして孤高で孤独な彼は、足早にあらかじめ買おうと決めていた、冷やし中華と無糖のコーヒーを購入し、コンビニを後にして黙々と歩き続ける。彼の根城であるどこにでもありそうなアパートが、視界に写った。ほんの少しだけ彼の肩にかかる力が和らいだように見えた。
その時だ。
『ねぇ、君はなんでそんなに頑張るの?』
「…………!?」
突如、自分の背後から男の声がして足立はとびあがって驚いた。いきなり話しかけられたことはもちろん、何より彼を驚かせたのは、その声が“足立啓太”、彼自身の声質となんら変わりがなかったからである。そしてその声の元を確認しようとして足立は背後を振り返る。
「な……なんだよこれ……!」
彼の背後には誰もいなかった。あるのは己の“影”だけ。しかしながらその影は、彼の知っているものではなく実物に目がある場所に、その影にも赤い瞳のような光が埋め込まれていた。
『ボクはなんだっていいよ。ボクはただここで、暇つぶしをしているだけさ。いるだけでもなんだから、キミに話しかけてみた』
「なんだ、煙草って依存性があるってのは知ってるが……幻覚症状なんてあるのか?」
『幻覚ねぇ。まぁそれでもいいのだけど、自分の影とぼそぼそ話しこんでいたら変人扱いされちゃうよ? プライドの高いキミには耐えられないでしょう』
足立は、自分の影にそんなことを言われて思わず辺りを見渡した。幸いなことに周りには誰もいないようだ。そして舌打ちをしつつ、足立は自分のアパートの階段を上り、“103号室”つまり足立の住んでいる部屋のカギを刺し、扉を開けた。
「それで、お前は幻覚なのか!? 幻覚じゃないのか!? どっちなんだ!」
彼はアパートの電気をつけて、浮かび上がった自分の影に向かって吠えていた。警戒心剥き出しのその声には少なからず恐怖の色が滲んでいる。その足立の足はワナワナと震えていた。
『キミはまるで昔の日本の騎士のようだね』
すると足立の影は、本体の動きを無視して座り込んだ。あぐらをかいているようなシルエットが絨毯に写る。そしてその影は頭をカリカリとかいた。
『……キミは悪魔という概念を信じるかな?』
「は……悪魔…………?」
足立は口をだらしなくポカンと開け、その影が言うこと反復した。影の赤い瞳はそんな足立の姿を捉えて離さない。
『ボクの名は、アスタロト。悪魔の立派な“騎士”さ』
そしてその赤い瞳がググッと持ち上がってくる。足立は後ろに退くが、影もそれと同じ間隔で近づいてくる。影を切り離すことはできない。
「うわぁあっ……!」
足立は懸命に叫びそうになる衝動を抑えて、尻餅をつく。赤い瞳はそのまま持ち上がり――影から球体が出てきた。
「…………ん?」
よく見ればジ○リ作品の、あの真っ黒な小さい球体に似たような身体をしていた。見れば見るほど、それはちっぽけで取るに足らないものだった。足立は恐怖の感情を忘れ、興味本位にその黒い球体を親指と人差し指でつまむ。
『ひてててて! なにするんだ!』
そのアスタロトと名乗った黒いものは柔らかく、つまんで上に持ち上げるとぐにっと伸びた。感触的にはふわふわとした餅のようだ。そんな餅は存在しないが、強いて感覚を表現するのならそんな感じだ。
「お前、悪魔なんだろ? 成敗してやる」
『ま、待て待て! ボクがいなくなったらキミの人生は一生そのままさ!』
「……構わん」
『話を聞いてくれぇぇぇ!!』
アスタロトという物体はフルフルと動いて、足立の手を振り払う。そして足立が隙を見せたところでまた彼の影に沈んでいった。
『ハハハ、キミの影の中に入ってしまえばボクに関与できるまい!」
足立も初めはアスタロトを捕らえようとしばらくの間奮闘したのだが、それに意味がないことが判明し疲労のピークがきたようで、コンビニで買ってきた冷やし中華を食べ始めた。
そして一介のサラリーマンと、小さな悪魔の同居が始まったのだった。
*****
悪魔というのにも人間社会と同様、『格』というものがある。
3つに分けるなら帝王、王、騎士である。帝王は優れた王が兼任する形になる。地獄界には日本のような年功序列というものはない。絶対的な実力社会、つまりはどれほどの魔術を使えるかというところだ。
この足立につきまとっている、アスタロトという名の悪魔は一番格下に位置する騎士に属していた。騎士といえば聞こえはいいが、実際のところは何にもできない半人前である。
足立も最初は悪魔という理解しがたい概念に、恐怖していた。しかし、どうやら日光に当てられるとそれがアスタロトにとって致命傷になるということがわかり敵わない相手ではないことがわかった。さらに、たまにその影をコントロールしてどこかへ行こうとするが、それは人目のない場所に限定されていて、あまりこちらを困らせようとか思っていないようだった。
むしろたまに家に帰り、くたびれた茶色のソファの上でうたた寝をしていていると、毛布がかけてあったり、服が畳んであったりしている。あまつにはお風呂が沸いていたりしている。足立はそれを見て苦笑をするのだった。
「ここまで俺との“契約”を守りたいのか?」
『もちろんさ、ボクはキミを踏み台にして王へ飛躍する第一歩にしなければならないんだ』
足立と“影の中にいる小人”であるアスタロトは、とある契約を交わしたのだった。悪魔というのは人間に関与し契約というものを結ぶ。前例としてメフィストフェレスという王の位を持つ悪魔は、ファウスト博士という老人と、若返って人生をやり直し満足できたら、博士から魂を奪うことができるという内容の契約を交わしたことがあるのだという。それは見事に成功し、その後、血まみれの室内に、ただふたつの目玉と歯が散乱している博士の姿が発見された、というものがあるらしい。
しかし、足立とアスタロトはそんな物騒な契約を交わしていなかった。何よりアスタロトは騎士であるため常軌を逸脱するような魔法など使えなかったのだ。
“足立が成長をしてそれを本人が自覚したならば、その法をアスタロトへ授ける”
それで交わした内容はこのようなものだった。これだけではどのような意味か理解するのが難しいだろう。しかし、足立とアスタロトはこの字面だけで共通認識をしていた。
*****
『今日のお仕事はどうだった?』
「……放っておいてくれ」
『そんなだとボク困っちゃうんだけど』
「うっせぇ! 黙ってろ!!」
悪魔の契約というのは無期限ではない。66日という制約がある。約二ヶ月という時間の中でアスタロトは結果を出さなければならなかった。しかしどんなに家事をサポートしても足立は会社内で失敗を繰り返してしまうのだった。しかもそれはほぼ同じ内容の失敗のようだった。それでは“成長してる”とは口が裂けても言えない。
『同じ失敗を繰り返してしまうというのは、なんでなのだろうね? キミも直したいと思っているのだろう』
「…………」
今日も自宅で、足立はコンビニに購入した夕飯を食べている。苛立ちを抑えられずろくに噛みもしないで野菜ジュースでおにぎりを流し込んでいた。影に住んでいるアスタロトはそんな足立の様子を見て肩をすくめて座り込んでいた。
「……焦ってしまうんだ。同じ現象が起こったときに頭が真っ白になってしまう。早く解決しなければならないって思って、結局同じ方法で失敗してしまうんだ」
力なく足立はそう呟いた。その姿に少なからずアスタロトは驚く。今の今まで足立は弱音を吐いたことなんてなかったのだった。いつも彼は黙り込んだままだったのだが、小さい声でそう呟いたのだ。それから足立は堰が切れたように語りだす。
「俺は今の自分に満足したくない……もっと、もっとできるはずなんだ。なのにできない自分がいる。“あの時”だってそうだ。要求されればいくらだって俺は成長できるんだ。できるはずなんだよ……」
『“あの時”って?』
アスタロトの問いに、足立はしまったとでも言いたげな表情を浮かべる。そしてしばらく空になった野菜ジュースのパックを見つめながら、どこか諦めたような風に口を開いた。
「俺が小さい頃……そうだな、小学生高学年くらいだったか。俺には兄貴がいて、そいつが本当にどうしようもない奴だった。親は結構子供に期待していてな。兄貴には私立のしっかりとした中学校を行ってほしかったんだろうけど、私立どころか公立で、しかもろくに学校さえ行かなかった。だからその親の望みは俺に集中したよ」
足立はネクタイを緩めながら、ふぅっと息をつく。その顔にはいつになく疲労を感じさせていた。アスタロトはそれを聞いてどこか腑に落ちていた。何故ここまで彼は“自身の成長”に執着をするのか。
「やりたかった遊びなんてほぼしてこなかった。部活に委員会に勉強に……。でもいつしか親の評価なんてどうでもよくなった。自分こそが一番でありたかった」
『――――――――――――しまえばいい』
「ん? 今なんていった?」
『なら、怠惰してしまえばいい』
「は…………?」
それを言った途端、カラッポな足立の顔に表情が戻った。しかしそれは悪魔もおぞましく思うほどの“怒り”の感情だ。足立は相手が影でなければ掴みかかっていそうな形相で睨みつけたのだった。
『“成長”という足立の固定概念を疑ってみればいい。キミの考えていることは実は偏狭的なのかもしれない』
「意味がわからない……。怠惰をして“成長”できるわけがねぇだろ! それなら俺は死んだほうがマシだ!!」
足立はそう言って、ダンッと机に拳を叩きつけた。アスタロトはその音にびっくりしたようで、そのまま黙り込んでしまった。そして足立もそれ以上何も言うことなく、風呂も入らないまま布団に寝転がりうずくまった。影もそれに従うまま寄り添うようにそこへ伏していた――。
*****
契約期間、あと三日。アスタロトは焦っていた。しかし、この悪魔は王になるための段階だとかそんなことはもうどうでもよくなっていた。足立と一緒に暮らしているうちに、このまま彼が変われずにいたら、いつか自らに絶望して、命を絶ってしまうのではないかとさえ思ったからだ。
しかもアスタロトにはもう一つ、足立を助けたい理由がある。“成長”を求める人間が諦める姿を見たくなかった。影にひそむ彼にも、とある願いがあったのだ。しかしそれは彼の命を脅かすような大きな“賭け”であり、それを踏み出す勇気がどうしてもなかった。だからこそ、足立から取り決めた契約で求めた要求は“足立が成長をしてそれを本人が自覚したならば、その法をアスタロトへ授ける”というものだったのだ。
今日も、夜風に煽られながら足立は自宅に帰ってきた。その表情はいつも以上に――――固い。アスタロトが何かを話しかける前に、足立はそのまま台所に向かう。影はどこか嫌な予感がして後をついていく。足立の手には――――月色の包丁が握られていた。
『待って足立! キミは一体何をしているんだ!?』
「…………うるさい」
『キミは自分の殻を破って“成長”したかったんじゃないのか!』
「うっせぇって言ってんだ! てめぇが怠惰しろって言ったんだろ! もういいよ、休ませてくれよ!! もう蔑むような会社の奴らの前に身体を晒したくねぇんだ!!」
足立の包丁を握る手はガタガタと震えていた。切るつもりがなくてもその震えで逆手を痛めてしまいそうだった。そして抑え込んでいた感情が爆発したのか、顔をくしゃくしゃにして泣き叫んでいた。まるで幼い頃に戻ってしまったようだった。
「俺だって頑張ってるんだ! なんで認めてくれないんだ……なんで……なんで…………」
『もう良いんだ足立。無理をする必要は、ない。キミは充分頑張ったよ。それでも周りは認めてくれないときがある。なら、キミはキミをわかってあげなきゃいけない』
「俺が、俺をわかる?」
『キミが思っている“成長”は他人が認めて初めて成立するものなんだ。でも世の中理不尽なこともあるさ。それならキミがキミを認めてあげればいい。つらいキミを受け入れてあげればいい』
「…………」
アスタロトは影の中から、ズルズルと“浮上”をしてきた。ちっぽけな黒の球体は米粒のような瞳を足立に向けた。
『ボクはキミ自身を守るために、一度立ち止まってみるのもありだと思うんだ。でもそれはあくまで“一度”だよ。それが“永遠”になってしまえば、本当にキミは“成長”できない』
「俺は……休んでもいいのか?」
『いいとも』
「誰も……怒らない?」
『あぁ、怒らないよ』
足立は、蚊が鳴くような声で“そっか”と呟いた。そして包丁をまた台所にかたした。そして緊張の糸がぶっつりと切れたのか――そこに座り込んでしまった。アスタロトはそんな足立の側にずっと支えるように居続けた。
*****
あれから二日が経った。契約期限を一日残して、足立との契約は成立という形となった。足立は散々自分を苦しめた会社を辞めた。親にはしばらく内緒にするそうだ。これからどの職に就こうか考えてもいないらしい。しばらくバイトをして、自分の好きなバイクに没頭することにしたようだ。
『というわけで、これで契約通りボクにその方法をくれるかな?』
「あぁ、もちろんだ。ありがとな」
『言っておくけど、怠惰はやりすぎると腐るから気をつけてね』
「肝に銘じておくよ」
足立は肩をすくめてハハハと笑っていた。そして自分の影から浮かびあがっている黒い球体、アスタロトを見つめていた。
「にしてもこんな日中に姿を現すなんて珍しいじゃないか。その方法っていうのを俺から忘却させるのに必要な要素なのか?」
『いいや、そんなわけではないんだけどね……ボクも自分の殻を破りたくて、それに踏み切れるような刺激が欲しかったんだ。だから、もう方法はすでにキミから自然と受け取れたものなんだよ』
アスタロトの物言いに、足立は首を傾げる。内容が抽象的すぎてイマイチ理解ができなかったのだろう。しかしアスタロトは目を輝かせながら、こう続けた。
『ボクはずっと影から出てみたかった……“陽だまり”に出てみたかった。本当は王になるとかどうでもよくて……。悪魔である自分が嫌なんだ。綺麗事かもしれないけど、ボクはボクの方法で人間の役にたちたい。それなら一回この身体を抜け出したいんだ。魂も身体と共に消えてしまうのかもしれないけど』
ちっぽけな身体で、でもアスタロトは足立に精一杯自分の“夢”を語った。
『ボクの背中を押してくれないかな?』
足立はそのアスタロトの姿に、にこりと笑って、アスタロトの身体をそっと両手で包み込んだ。そして願いをかけるように目を閉じた。
「大丈夫。お前なら、きっと」
その言葉に、アスタロトは満足したようだった。その黒い球体はゆっくりと浮いていき影からそっと離れていった。ゆっくりとその身体は陽だまりに当てられていく。するとその身体は薄いレンズのようにスーっと透けていった。それはシャボン玉のように美しい色をしていた。
ゆっくりその身体は陽だまりに溶けていく。それはまるで魂を具現化させたかのように幻想的で――数秒のうちに形を消していった。足立はその光景を目に焼けつけた。こんなに現実から離れた美しい情景は、二度と見ることはないだろうと思いながら――――柔らかい陽の光を見つめていた。
アスタロト。まったく異なるふたつの顔をもったもの。ひとつは怠惰を推奨する悪魔という一面。そして、もう一つの一面は四十の軍隊を指揮する座天使の君主というものである。
しかしどちらの姿にも同じ魂が宿っていたと知るものは――ただ一人の元サラリーマンを残して――誰もいない。