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水魚の交わり

作者: 麻戸 槊來

病気などに対する卑屈な表現をさせていただいています。

あらかじめご了承ください。

一昔ひとむかし前のある日の事。ひとつの家で、男と女が暮らしておりました。


男は美丈夫で、道を歩けば、おなごからの視線を独り占めするといった具合でありました。

両親は今は無く。男は一人息子であったがゆえに、父親が一代で築いた貿易会社を引き継ぎ、仕事一筋で生きておりました。



もともとこの男は色事に関しては淡白で、そろそろ妻を娶らなければと思いながらも、気分に応じておなごを選んでは、一夜の戯れを楽しんでおりました。


ですが、それも過去の事。

半年前に高熱を出したことで、熱がひいてから男の片足は不自由になり、後遺症が原因で床に伏すことが多くなってしまいました。

そのことから総取締役の座を下され、親の残した遺産と、今まで働いたお金をひたすら使う日々を送っておりました。




一見うらやましく感じる日々ですが、それは男にとっては苦痛でした。

仕事一筋で生きてきた男には、別段、趣味といえることもなく。寝る間も惜しみ、仕事に励む忙しい生活に慣れていた男には、三十を手前にして片足が自由に動かない目標を失った生活は想像を絶するものでした。

好きな仕事をすることもできずにすさんでいった男から、人々はみな去ってゆきました。


ギリギリまで、男の資産を狙ったハイエナの様な者もいましたが、男はそういう輩を一番に嫌い、追い返します。例え片足が不自由であろうと。―――いいえ、不自由であるからこそ、誇りだけは失わんとして、男も必死に虚勢を張っておりました。


そして皆、近寄る事すらかなわないと知ると、唾を吐きかけ去っていくのです。猫なで声から一変したその様をみて、自尊心の強い男は唇をかみしめる日々を送っていたのです。




・・・それでもなお、男の事を見捨てなかった女が一人だけおりました。


その女は、男の親が勝手に見繕った許嫁でした。

女の両親は、片足が不自由になった男を見限ったのにもかかわらず、女は男に献身的に尽くしました。

どんなに辛く当られても、ひたすら微笑んで望みをかなえ、自分の見合いを蹴ってまで男の家に住み込んで世話をし続けていました。


俺はこんな体だし、お前のことなど好いてないぞと、卑屈に語る男の言葉にも耳を貸さず。『私は、ただお傍にいるだけで』そう答え、男の世話を続けていました。





そんなある日のことでした。

普段通り会話をしていた男が、唐突に低い怒りを湛えた声で言いました。


―――そうか。お前は、私を捨てようとしているのだな


女はその言葉に激しく反応し、否定の言葉を口にします。


―――いいえ。そんな訳がございません


そう、必死に弁解をしました。ですが自身の妄執に囚われた男に、女の声は届きません。否定の言葉を聞いてもなお、男は言いつのります。


―――いや、お前は私から離れようとしている。お前がいなければ何事もできん私を置いて


―――違います。貴方様は、素晴らしい御方でございます


間髪いれずに返しているにもかかわらず、女が話す度に、男はどんどんと顔を歪めます。

片足を患ってからは、弱みを見せんとして表情の乏しかった男にしては、珍しい程に感情をあらわにしておりました。


声は低いのに、癇癪持ちのようなその様は、まるで子どものようだと女は頭の片隅で考えながら男を眺めます。勝手な事を口にする男に対する怒りはなく、困惑だけがその胸を占めていました。


―――何故だ。お前は私の無能っぷりを知っているだろう。お前がいなければ、息もできん


あまりに傲慢な様子で語られた言葉は、ともすればなんと情けないと眉をしかめられるものでしょう。此処までおとなしかった女も、その言葉には了承しかねて顔を険しくし、反論します。


―――そんな筈がございません。貴方様は私がお世話をさせて貰う前まで、すべてのことを御一人でやっておいででした。第一、私が貴方様から離れるときは、貴方様に私が必要でなくなった時でございます


―――君はそうやって嘘をつくのだな。元より、君は私にとってどれだけ自身が重要なのかを分かっていない。どうか分かってくれ。君がいなければ私は本当に駄目なのだ。そしてどうか諦めてくれ。

 君が私を殺しでもしないうちは、私は決して君を放しはしない


常とは違う女の反応に不安を覚え、今まで封じていた想いを男は吐き出したのでした。惚れた女にすらも弱みを見せんとしていたのに、此処まで来て箍が外れたのでしょう。


すると突然、男は女を思いっきり抱きしめ、まるで何物にも女の姿を映させないというように抱きしめ続けるのです。骨すらきしませんと抱く腕に力を込めているのに女はそれにすら、関心のないような冷たい瞳のまま、言葉を発しました。


―――貴方は何を言ってるの。きっと貴方は死んだって私を放したりなんてしないんだわ。ずっと私は、このまま自由も与えられず、貴方という人しか知らずに生き、貴方しか知らずに死ぬんだわ


女の言葉に漸く、男はきつく抱きしめていた体を少しあけ、女の顔を覗き込みました。言葉はなかったとはいえ、女に男女の行為を教えたのは目のまえの男でした。

そして、彼女のお腹には二人の子供が宿っているのです。きっと、男と子供の世話をするのはさぞ重い負担となり、女の肩に押しかかる事でしょう。

これまでの男の様子を見る限り、子供の面倒などとてもじゃありませんが任せられません。


……しかし男の危惧をよそに、女はこの哀れな男を見捨てる選択など持ち合わせてはおりませんでした。


―――嗚呼、きっとそうだな。そしてそれを望んだのは君だ。


―――えぇ、そうね。私はそれを望んだわ


男と女は互いに顔を見つめ、微笑みあいました。

数ヵ月後には、可愛らしい赤子を抱き微笑みあう二人の姿が、その家で見られる事でしょう。






水魚之交すいぎょのまじわり…水と魚の関係のように、離れることのできない親密な交わり。(四字熟語辞典より)


10月16日にちょっと改正しました。

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