六条星夜の正体
物語も佳境に突入しました。
一応、次回が最終回の予定です。
電車を使って地元から離れて都心へ向かう。人が多く、人混みを利用できそうな場所と言えばやはり都心が一番だというのが俺の結論。六条家の人間に土地勘があるかどうかは別にしても日中の都会の地下駅は絶え間なく人が出入りしてる上に建物としての構造も複雑だ。これなら万一見つかったとしても人混みと地の利を活かして逃げ切ることが出来るだろうというのが俺の作戦だったんだが──
(思いっきり先手打たれるジャン……)
向こうがこちらの存在に気付く前に、適当な物陰に隠れて二○メートル先の様子を窺う。いつかの公園で鉢合わせした時の戦闘員と全く同じ服を着た男が三人。ていうかあいつ等、町中でもあんな格好なんかして恥かしくないのか? 道行く人たちが皆、同じような反応してるから見る分にはちょっと面白いけど。
それはそれとして──問題はこの後、どう逃げ続けるかだ。雑魚キャラよろしく戦闘員がこっちに来てるってことはそれなりの人数を割いてこの地域に人員を送っていると考えるのが常識……うん、待てよ?
(鉢合わせたのは偶然か?)
いくら向こうに資金力があるとはいえ、何の手掛かりもなく包囲網を敷くことなんて無理だ。しかもここは俺の地元から何キロも離れた場所。偶然という理由だけで戦闘員と鉢合わせしたとは考えにくい。
では仮に──この鉢合わせが偶然ではないとしたら奴等はどうやって俺の居場所を特定した? 目撃情報か? 発信機か? 或いは人探しに特化した能力者の仕業か?
(……いや、今は逃げることだけに集中しよう)
それにまだこの鉢合わせが必然的なものという確証はない。本当にただの偶然ってこともありうる。俺はあいつ等に気付かれないよう、静かにその場から立ち去ろうとして──
「隊長、居ました! あそこですっ!」
「よーし良くやった! 逃がすな!」
速攻で見つかりました。あぁもう、戦闘員ってのはどうしてこうもKYなんだ……っ! 戦闘員の姿を確認せず、俺は迷わず全力で走り出す。ワンテンポ遅れて三人の戦闘員(うち一人は隊長らしい)が後を追う。周りの人も、駅員も何かの撮影か何かだと思っているのか、遠巻きに物珍しそうに俺達の様子を観察するだけで特に何も言ってこない。
のんびり歩く通行人の間を縫うように駆けながら頭の中で地図を組み立てていく。定期券があるから改札口で足止めされるようなことはなくても今はまだ地下に潜伏しておきたい。日中よりも夕刻の方が人混みを利用しやすいっていう算段もあるから。
「六条星夜、大人しく我々に捕まるのだ!」
「はいそうですかと言って捕まる馬鹿がどこにいる!?」
「仕方ない……ならば力ずくで貴様を捕らえるとしよう!」
いや、お前ら始めから実力行使してるジャン。……なんて突っ込みを入れつつ電光掲示板を見上げてダイヤの確認をする。今すぐに乗れるような電車は三本。出発が早い順番に並べると急行、各停、快速だ。どの電車に乗るか少し考えたが俺は急行を選ぶことにした。
「はっ、はっ、はっ……」
長い階段を三段飛ばしで、それも全力疾走していけば流石に息切れも起こす。運動は好きでしているが本格的なトレーニングをしている訳じゃない。勿論、それでも普通の人よりは体力があると自負できるが階段ダッシュはやっぱキツイな。
階段を駆け上がり終え、行き着く間もなく電車へ逃げ込み、車両から車両へ移動する。乗客は不審がって俺を見るがそんな視線を気にする余裕なんてなかった。
(来た……っ!)
駅構内で発射を告げるベルが鳴り響くと同時に窓越しに戦闘員の姿が見えた。奴等は俺が電車に乗っていると踏むや否や、真っ先に乗り込んできた。大丈夫だ、まだ俺がどの車両にいるかはバレてない。いや、それはもう時間の問題なんだが大した問題じゃない。
奴等に気付かれないよう、最後の車両移動をした俺は扉が閉まる寸前で電車から降りる。軽く跳躍して、駅へ降り立つのと背後で扉が閉まる音がしたのはほぼ同時だった。
『!?』
電車が動き出し、窓越しに戦闘員三人が驚愕に染まった顔色でこっちを見つめているのが分かった。あぁ本当、ここまで見事に策にハマってくれるとやられ役以外何でもないな。
「良い旅を」
聞こえる筈がないが、遠ざかっていく三人に対して決め台詞を吐く。奴等の姿が完全に見えなくなったのを確認してから駅構内へ舞い戻る。取り合えずこれで少しの間は大丈夫だろう。
(と、その前に……)
駅構内を適当にうろついて、看板を頼りにトイレを発見した俺は一目散に個室へ入る。デカい用を足す為ではなく、服装チェックの為だ。とはいえ、夜城の家で一度着替えているから服に発信機が取り付けられてる可能性はないと思うがな。
「…………」
襟の裏から靴下まで入念に調べる。それらしいモノが付いてる気配も服に縫い込まれている感じもない。となれば人探しに特化した能力者がこの場所を割り当てたのか?
「………………」
その可能性を少し検討してみたがすぐに違うのではないかと思った。第一、もしそうなら駅にはより多くの人員が割かれている筈だ。それこそ、さっきみたいな小手先の技なんて通用しないほどの人数を。不可解な点は多いが、こうして考えたところで分かる訳がない。とにかく今は逃げるのが先決──
(ん……電話?)
トイレから出た時、ポケットに入れておいた携帯が小刻みに振動する。また君江さんかなと思いながら俺は素直に電話に応じた。
「はい、もしもし──」
『皇君だよね?』
「…………」
相手の声を聞いて、思わず足を止めてしまった。
夜城だ。それもいつものようにのんびりした口調じゃない。銃を手に取り、敵と戦う時の彼女だ。
『それとも、こう言った方がいいかな? 、、、、六条星夜って』
「好きに呼べばいい」
やはり夜城はもう俺の正体に気付いたようだ。
俺が──皇聖の本名が、六条星夜だってことに。
『皇君、私たちに協力するって言ったよね? それなのにどうして私たちの所に出頭しなかったのかな?』
「出来ることなら協力するって言ったと思うけど?」
『そう。……じゃあついでに訊くけど、大人しく捕まってくれない?』
「大人しくねぇ……」
正直なところ、夜城が穏便にことを運んでくれるという保証はない。かと言って六条家に戻る気なんて毛頭ないがその旨を夜城に伝えたところで今のコイツが理解してくれるかどうか怪しい。
そもそも、俺が正体を隠していたのは俺の中では六条星夜という男はもう死んだことになってるからだ。流石に実家が特撮アニメみたいな悪の組織ってのはちょっと意外だったけど、俺にとってそんなのはどうでもいいことだ。だって、俺の家族は栂野君江、ただ一人なんだから。
「どうすれば俺はお前を信じることが出来るんだ?」
『どうって……』
「お前は仲間だった君江さんを疑って、あまつさえ逮捕しようとした。俺にとっての君江さんは本当の母親も同然だ。なのに夜城、お前はその君江さんのことを信じようとはしなかった。だから、俺はお前の言う穏便って言葉が信じられない」
『皇く──』
「捕まえたければ捕まえればいいさ。勿論、それができたらの話だがな」
捨て台詞っぽく言って、通話を切る。夜城のことを嫌いになった訳じゃないが今回の件に関してはあいつのことを信じろと言われても俺にはそれが出来ない。思い切り私情挟んでるってことも、子供じみた理屈だってことも重々承知してる。
けどさ、そんな簡単に疑うようじゃ家族や仲間とは言えないんじゃないかな? 信じるって言葉は言うほど簡単じゃあないし、何より一度信じた相手は何があっても信じきらなきゃならないものだと俺は思ってる。
ともかく、これで夜城がどう出るかは分からないがしばらくは何処かに身を潜めて様子を窺うか。
「なんだ、誰かと思えば皇じゃないか」
「えっ?」
と、いざ移動をしようと思った矢先、急に後ろから聞き覚えのある声に呼び止められ、思わず動揺してしまう俺。恐る恐る振り向けば制服姿の喜多川がそこに立っていた。
「なんだ北側か。脅かすな」
「むっ? 何故かキミの言葉に妙な違和感を覚えずにはいられないのだが……?」
「自意識過剰だろ?」
あー、本当はコイツをからかう余裕なんて全くない筈なのに長年の経験のせいか、つい反射的にからかってしまった。次からは人をからかうのも少し自粛しとくか。
「それより皇、私服でこんなところに居るということは……サボりかね?」
「悪い喜多川。今ちょっとマジに忙しいんだわ。お前の言い訳なら明日聞いてやるから」
「僕は学校をサボってないぞっ。……それより皇、何か訳ありだというなら僕に話せ。内容によっては協力してやらなくもないぞ?」
「はっ?」
な、なんだぁ? 今日のコイツは一体全体どうしたってんだ……。いつもなら純度一○○パーセントで上から目線で話すというのに今日のこいつはエラく腰が低いな。
「お前、頭打ったか?」
「やれやれ……人が親切心で優しくしてやっているというのに、本当にキミという男は無礼者だね」
ふむ……きり返し具合からして一応こいつは本物の喜多川だな。男にも優しくする喜多川ってのはちょっと気持ち悪いがここは素直にコイツの好意に甘えてみるとしよう。と言ってもこいつが承諾してくれるかどうかはまた別問題だが。
「……実は今、追われてるんだ。あぁ一応言っておくと誇張でも冗談でもなく本当に追われてるんだ」
「ついに刑事事件にまで発展するようなことでもやらかしたのかね?」
「いや、警察関係じゃない。訳は話せないがとにかく俺はある人に追われてるから必死に逃げてるところだ。そして俺はその追っ手に捕まる訳にはいかない」
「ふむ、不明瞭なところが多々あるが……キミがとてつもなく困ってるということだけは理解した」
そりゃお前、追っ手から逃げてるぐらいなんだからとてつもなく困ってるのは当然じゃないか。というか何? なんでこいつこんなあっさりと俺の言い分を信じるんだ? ……いや、今はコイツにかまってる場合じゃなかった。
「そういう訳だ喜多川、今は一秒も惜しいからこれで──」
「いいだろう。協力してやろうじゃないか」
「失礼す──て、えっ? それマジ?」
当然、こんな見通しの悪い事情説明を聞いても協力なんて得られないとばかり思ってた俺は足早にその場を立ち去る気でいたんだがこいつの口から出たあまりに意外な一言を聞いた時、自分の周りだけ時間が止まったような錯覚を覚えた。
「何をそんなに驚いた顔をしてるんだ? この僕が協力を申し出てるんだ。もう少し嬉しそうな表情をしたらどうだ?」
「あっ、いや……そういう訳じゃなくて…………」
なんつーか、フツーに意外っていう気持ちと『こいつやっぱり偽物なんじゃね?』的な感情が俺の中でグルグルと回ってる。
考えてもみろ。喜多川と言えば男子には猫の額の如く狭い心で、女子には大空のように広い気持ちで接するのをモットーにしたキザ男だぞ? 俺みたいな物好きでもない限り、こいつとまともな会話をする生徒(当然男子限定だが)なんて一人もいない。
その喜多川が、腐れ縁であるとはいえこの俺を助けるなんてことは過去に一度もなかった。こいつが心変わりしたと言えばそれまでだし、信じてやりたい気持ちもあるんだが……。
「まさか皇、友人であるこの僕を疑うというかい? 何処かの組織に追われて疑心暗鬼になるのは勝手だが、それのせいで正常な判断が出来なくなるのはキミらしくない」
「…………」
何処かの組織──何でもないように言ったつもりだろうが俺はそれを聞き逃さなかった。
確かに俺は追われてるとは説明したが、数を限定した覚えはない。それに普通、これだけの説明を聞いたところで組織に追われてると推理するのは無理がある。追われてもせいぜい数人程度と考えるのが常識だ。
そして奴が発した言葉が意味するのはただ一つ──
「安心しろ、喜多川。俺は至って冷静だ」
「そうか、なら安心した。早速──」
「お前は信用できない」
目を背けず、ハッキリと俺はそう告げると同時にその場から離れた。奴が操られてるかどうかはさして問題ではない。厄介なのは今の一連のやり取りでこちらの位置がバレしまったかも知れないという懸念が強まったこと。くそっ、友人の顔を見たら気が緩んでしまうとかどんだけ逃亡者としての自覚がねーんだ……ッ!
「なっ……待て!」
俺がその場から離れると同時に喜多川がその後を追う。瞬発力なら俺の方に分があると思ったんだが、あろうことか俺は喜多川が伸ばした腕にあっさりと掴まれてしまった。おいおい、運動力なら俺の方が上だった筈だろ?
「一方的過ぎるぞ皇。何故僕が信用できないのかハッキリさせろっ」
「じゃあ訊くぞ喜多川。お前……夜城とは上手くいったのか?」
「夜城? ……あぁ、勿論さ! この僕が女の子を傷つけるような真似をする筈がないのはキミもよく知ってるだろ?」
「あぁ、良く知ってる。……けどな喜多川。お前いつから夜城の彼氏になったんだ?」
「何時からって、そんなの決まって──」
「俺が知っている喜多川は確かに軽い男だ。だが、節操なしに女を作るほど馬鹿じゃない」
こいつの前では補足する気はないが喜多川と夜城がまともに話したことなんてただの一度もない。そもそも転校二日目にしてお互い学校を休んでいるんだ。それに俺は上手く言ってるのかと聞いただけであって、恋人関係のそれを尋ねた覚えはない。
「そういう訳だ。今のお前を信用するほど俺は盲目じゃないんでね」
これ以上、こいつに付き合う義理はない。掴まれた腕を振り払おうと力を入れて──
「……やっぱり、お前って嫌いな奴だ」
「!」
なんだ。急に喜多川の雰囲気が変わったぞ? それまでは普段の喜多川だったけど、急に怒り出したというか何というか……まさかコイツ、操られてるとかそういうオチか?
「大人しく僕に頼っていればいいものを……庶民のクセに何エラそうな態度取ってるんだよお前……ッ!」
ここが駅内であることも忘れたのか、力任せに腕を手繰り寄せ、ボディーブローを穿つ。片腕を封じられた状態だったせいで上手くバランスが取れず、思い切り体勢を崩してまともに受けてしまう。
「……っ、馬鹿、落ち着けッ。今は人目が──」
人目があるから余所でやろう──そう提案するよりも早く、二撃目が鳩尾辺りに入る。激痛の余り、堪らず足を崩してみっともなく身体をくの字に曲げて倒れ込む。
「そうだよ……お前はいつもそうだ。お前の周りにはいつも人がいて、楽しそうに笑ってる。僕だって周りの奴等に見下されないよう頑張って勉強したさ! なのにどうしてお前だけ得してるんだよ! 不公平じゃないかッ!」
「喜多川、お前……」
それはこいつがずっと前から抱いてた俺への劣等感だろう。なまじずっと腐れ縁をしていたから全く気付かなかった訳じゃないけど正直、喜多川の奴がそこまで思いつめていたとは思ってもみなかった。
俺の知っている喜多川宗谷という男は自分の生まれをステータスの一部だと思い、常にそれに見合うだけのことしてきてる奴だ。そういうこともあってか、俺と喜多川は中学時代、何かにかこつけて良く勝負をしたものだ。
喜多川が勝った種目もあるといえばあるが、俺の勝ち星の方が多いのは紛れも無い事実。何よりあいつはあの性格が災いしてか、知り合いがいても友達と呼べるような存在がいなかった。それは男子に限った話じゃなくて女子でも同じこと。あいつのことを面白い奴だと言う人は多くいても友達と言ってくれるようなクラスメイトは一人としていなかった。そしてその事実は今も変わらない……。
「知ってるぜ、お前。皇って名前は嘘で本当は六条星夜って言うんだろ? ハッ、本当は僕以上のお金持ちだってのに、そうやって内心では僕のことを見下してたと思うとマジで腹が立つよ」
それは違う。俺はただの一度も自分が六条家の人間だと胸を張って言えたことがないし、ましてやお前のことを見下したつもりもない。だって俺は、自分が六条家の人間だってことをまだ受け入れられてないんだ。
「俺を六条家に突き出すのか?」
「まぁ、一応そういうことにはなってるんだけどさ……ほら、お前って正義の味方だろ? 僕はそういうのが大嫌いだからお前のこと、徹底的に殴ってやろうと思ってるんだ」
「…………」
もう間違いない。こいつは正気ではなく誰かによって操られてるだけだ。いくら男を見下すような喜多川でも平気でこんなことを言うような人間じゃないってことは俺がよく知っている。
(流石にここじゃ人目に付くな)
既に数人単位での野次馬が俺達の周りに集まりつつある。今はまだ映画の撮影か何かと勘違いしているがこのまま事が荒立てば警察が来て事情聴取をされるのは言うまでもない。
「じゃ、そういうことだから。覚悟はいいか?」
「いつでも行けるぜ!」
格好良く決め台詞を吐きつつ、俺は奴の言葉を引き金に全力で背を向けて駆け出した。卑怯? 正々堂々戦え? そんなことより命が大事じゃボケ! そのことを俺は昨日の夜、文字通り身を以って味わったからな!
「な……っ! お前、逃げる気か!?」
「逃げてるんじゃねぇ! 戦略的に立ち回ってるだけだ!」
「なら何故僕に背を向けている!」
「ハッ! 背を向けてるのではなく後ろを向いて走ってるだけだ! 悔しければ今度こそ俺を捕まえてみなッ!」
売り言葉に買い言葉。傍目からみれば小学生同士の喧嘩のそれに近いやり取り。当人である俺達は至って真面目だ。
俺達のことを物珍しさで見つめる通行人をガン無視して駅構内を全力で疾駆する。何はどうあれ今の俺にできるのは逃げ切ること。間違っても戦おうなんて思っちゃいけないのは分かる。分かるけど……あーもう悔しいなぁコンチクショウ!
「お嬢様、六条星夜の足取りが掴めました。神那岐駅です」
「そう。すぐに人を手配して」
砕牙の言葉を機械的に聞き入れ、事務的に指示を出した沙耶はぼんやりと車の窓に映る景色を眺めていた。まだ昼時だというにも関わらず町は人で溢れ返り、自転車が徐行運転しつつ歩道を走る。若いOLの肩にぶつかったサラリーマンがペコペコと謝り、女性は怒りを露わにし、小言をぶつけている。ちょっとぶつかっただけなんだから許してあげればいいのにと思いつつも、それ以上の感情は湧いてこなかった。
『お前はその君江さんのことを信じようとはしなかった』
電話越しで宣告した、彼の言葉が頭の中でループ再生される。自分のしていることが間違ってるとは思わないが、それが必ずしも良い結果を残すことが叶わないことを自分は知っている。しかしだからと言って今更、乗りかかった船から下りることなんて彼女にはとても出来ないし、そもそもリタイアするという選択肢なんてある筈がない。
だと言うのに──自分の心は今、濃霧に覆われ、進むべき方向を見失いつつある。
(私、何がしたいんだろう……)
自問して、考えてみる。するべきことは分かっていても、自分が何をしたいのか? 少なくとも沙耶にはそれが分からない。幼い頃から正義の味方としての訓練を受け、数多の敵と戦い、法で裁けぬ悪を捌いてきた。それは一族の責務であると同時に自身の誇りでもある。決して人に知られることでもなければ褒めてもらえるようなことでもない。しかしそれでもこの活動はやり甲斐があると思ってる。だから今日まで直向きに努力し、期待に応えてきた。
しかしそれは結局、夜城沙耶がやりたいことではない。だから自分には本当にやりたいことなんてないのではないかと、最近は思い始めていた。少なくとも聖と出会うまでは。
(私にはあんなに楽しそうに生きることなんて、出来ない)
皇聖。六条家の一人息子であり、正当な後継者である彼は間違いなく夜城家に仇なす存在である。だが本人を見るとその考えが揺らいでしまう。
六条家のことを少しも意識させない正義感溢れる行動力。真っ直ぐな瞳で正義の味方になりたいと叫ぶその姿。悪事を正しく悪いことだと叫ぶ勇気。本来ならばああいう人間が正義の味方であるべきだというのに、自分には彼のような素直さがない……。
「随分とお悩みのようですね」
信号待ちをしている間、沙耶の様子に気付いていた砕牙がそれとなく沙耶を気遣う。自分では平気そうに振る舞っているつもりでも長い間、付き添ってきたこの執事には隠し事は無理のようだ。
「……黒南風さん…………」
「何で御座いましょう?」
「……。皇君、やっぱり逮捕しなきゃ駄目なのかな?」
敢えて六条の姓でなく、皇の姓を出してみる。彼が星夜であることは紛れもない事実だが、どうもそっちよりも今現在名乗ってる名前の方がしっくり来るのだ。
「お嬢様もご存知とは思いますが、六条星夜が本家の当主となり、正当後継者としての力を付ければいかに夜城家と言えども対抗手段がなくなってしまいます」
「うん……。分かってる」
「ですから、夜城家としては何が何でも六条家よりも先に彼を逮捕しなければなりません。ただ──」
「ただ……なに?」
「──いえ、執事である私がどうこう言える立場ではないのでこれ以上はなにも。……ですがお嬢様、これだけは忘れないで下さい。私に限らず、執事というのはいつでも己が仕えている主の味方で御座います。例えお嬢様がどのようなご決断を下そうとも、私は最後までお嬢様の味方でいます」
最後まで味方でいる──
執事ならばそうするのは当然のことなのに、改めてそれを言われると執事という存在は本当に頼もしい存在なんだと実感する。
「それに、私から見たお嬢様は既に結論が出ているようにもお見えですぞ?」
「私、そんな風に見える?」
「はい。……しかし同時に、お嬢様の心は尤もらしい理由を並べてそれに気付かない振りをしていらっしゃるようにも見えますが」
「…………」
砕牙に指摘されたことに対して、何も言い返せない自分に気付く。
否──言い返せないのではなく彼の言葉に納得しているのだ。こうしたいという気持ちは確かにある。だがそれをもう一人の自分が否定している。どちらを選択しなければならないのか、なんてことは考えるまでもない。けれどもここで理性に従えば、きっと自分は酷く後悔するような気もする。
かと言って、残った選択肢を選んだとしてもそれは今までの自分を否定するのと同じことだ。今まで自分はこうして生きてたというのに、今更その信念を簡単に曲げられるほど、彼女は単純ではない。
どちらを選んでも後悔するのは明白。しかし今はどちらかを選択しなければならない。そうしなければ本当の意味で最悪の結末が訪れるかも知れないのだから。
「黒南風さん、私は──」
決意を口にしようとした瞬間、二人の間に着信音が割り込む。間が悪いと思いつつ、律儀に彼女は電話に応じる。
「はい。夜城です」
『私よ、沙耶ちゃん』
「栂野さん?」
予想外の人物からの電話に思わずオウム返しをする沙耶。そして彼女の返事を待たず、君江は用件を告げる。
『単刀直入に聞くけど沙耶ちゃん、聖を助ける気はない?』