処刑されてやり直した令嬢が治癒魔法を止めた途端、王宮医療が崩壊したのですが、これは私のせいですか?
数ある作品の中から開いていただきありがとうございます(^^♪
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 処刑台の、最後の朝
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処刑台の朝は、思ったより静かだった。
風が頬を撫でる。石畳の冷たさが膝を伝う。
縄の重さで、首が少し前に傾く。
(これが、終わりか)
広場を埋める貴族たちの顔を、私は一つひとつ見た。
泣いている人は、いなかった。
十年間。
私はこの国のために、治癒魔法を使い続けた。
騎士の傷を塞ぎ、疫病を抑え、王族の持病を管理した。
記録には残らなかった。感謝の言葉も、一度もなかった。
それでも、必要とされていると信じていた。
「エリーナ・ヴォーン。汝は長年にわたり上位治癒魔法を秘匿し、王家を欺いた罪により——」
読み上げられる罪状が、遠く聞こえる。
(違う。私は何も隠していない)
ただ誰も、聞かなかっただけだ。
求められるたびに、全てを差し出してきた。
視線を上げると、婚約者のアルフレッド殿下が見えた。
目が合った。
彼は、逸らした。
胸の奥で、何かが折れた。
いや——もうとっくに、折れていたのかもしれない。
(ああ。最初から私は、道具だったのか)
宣告が終わる。広場に、拍手が起きた。
その音が、やけにはっきり聞こえた。
歓声ではなかった。
怒号でも、罵声でもなかった。
ただの——礼儀的な、拍手だった。
それがかえって、苦しかった。
怒鳴り声でも、罵倒でも、まだよかった。
感情があれば、私の存在を認識していたことになる。
あの拍手は違う。
どこまでも儀礼的で、どこまでも他人事で——
まるで、王宮の行事のひとつとして処理されているようだった。
(十年間、私はここにいた。ここにいたのに)
足元の板が、外れた。
落下の感覚が、腹の底を突き抜ける。
縄が首を締め上げた瞬間、肺の空気が全部押し出される。
視界が赤くなる。頭に血が逆流する。
喉が、焼けるように痛い。
それでも私は、目を開けていた。
最後の最後まで、誰かが助けに来るかもしれないと——
そんな愚かな期待を、捨てきれなかったから。
誰も、来なかった。
アルフレッド殿下は、書類に視線を落としていた。
騎士団長は、剣の柄を握りしめたまま、動かなかった。
宮廷貴族たちは、小声で何かを囁き合っていた。
クローデット様だけが、扇子の陰で静かに微笑んでいた。
(ああ、そうか)
意識が遠くなる中で、私はやっと理解した。
これは最初から、決まっていたのだ。
誰かに仕組まれていたのではなく——
誰もが最初から、私をそういうものだと見ていただけ。
使える間は使い、不要になったら捨てる。
それだけのことだった。
最後に感じたのは、怒りでも悲しみでもなかった。
ただ静かな——諦めだった。
視界が、滲む。
音が遠のく。
指先の感覚が、なくなっていく。
最後に見えたのは、曇り空だった。
どこまでも灰色の、色のない空。
(私の十年間は、結局何だったのだろう)
答えは——もう、出なかった。
◆
目を、開けた。
白い天井。
朝の光。
鳥の声。
「——っ」
私は跳ね起きた。
喉に手を当てる。縄の跡がない。
首が、痛くない。
空気が、ちゃんと吸える。
「は、——ぁ」
呼吸が乱れる。心臓が痛いほど鼓動する。
全身に汗が滲んでいる。
さっきまで確かに私は、死んでいた。
意識が消えていく感覚も、縄の痛みも、灰色の空も——全部、本物だった。
(生きて、いる?)
震える手で、卓上の暦を掴んだ。
レジェ暦、一二四七年。五月三日。
「……嘘」
思わず声が出た。
処刑されたのは、一二四八年の四月末だった。
つまり今は、あの日よりも——
「一年、前」
窓の外では、庭師が花壇の手入れをしていた。
よく知った顔だ。
処刑台で最後に見た時よりも、皺が少ない。
(本当に、戻ってきてしまった)
夢ではない。
体の感覚も、部屋の匂いも、全部本物だ。
私はゆっくりと、息を吐いた。
一度。もう一度。
心臓の震えが、少しだけ落ち着く。
(一年前——まだ、何も始まっていない)
婚約は、続いている。
王宮への出仕も、続いている。
治癒魔法の供給も、まだ続けている前の日の記憶がある。
そして。
(あの断罪の日まで、あと一年ある)
私は布団の中で、膝を抱えた。
静かに、考える。
もしこれが本当にやり直しなら。
もう一度、同じ道を歩く必要はない。
十年かけて積み上げた献身を、また始めから差し出す必要はない。
また誰かの持病を管理して、誰かの傷を塞いで、一人で疫病を抑え込む必要はない。
(私は、何のために生きてきたのだろう)
胸の奥で、前世の記憶が静かに燃えている。
あの拍手の音。
アルフレッド殿下が目を逸らした瞬間。
クローデット様の、あの微笑み。
「……もう、終わりにしよう」
声に出したら、思ったより落ち着いた声だった。
今世では、誰も助けない。
治癒魔法は使わない。
魔力の供給もしない。
騎士団の傷も、王族の持病も、宮廷に蔓延る疫病も——全部、私には関係ない。
それだけで、いい。
(怒りを見せる必要もない。涙を見せる必要もない。ただ、何もしなければいい)
私は静かに、そう決めた。
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第二章 今世では、何もしない
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翌朝。
私はいつも通り、王宮に出仕した。
変わったことは何もない。
廊下の石畳も、衛兵の顔も、謁見室の扉の重さも、全部前世と同じだった。
違うのは、私の中だけだ。
「エリーナ。少し待ってくれ」
廊下の角で、呼び止められた。
騎士団長のガレス卿だった。
四十代半ばの、厳つい顔をした男だ。
前世では、処刑の日に剣の柄を握りしめたまま動かなかった人物でもある。
「先日の遠征で、団員三名が深手を負った。頼めるか」
そう言いながら、腕を差し出してくる。
血の滲んだ包帯が巻かれていた。
(ああ、これだ)
前世でも、この場面はあった。
「また頼む」という言葉と共に傷を差し出される、この光景。
一度も断ったことがなかった。
たとえ自分の魔力が底をつきかけていても、翌日に重要な予定があっても——必ず応じてきた。
だから誰もが、私が断るとは思っていなかった。
私は、微笑んだ。
「申し訳ありません、ガレス卿。今日は別の予定がございまして」
「……何?」
「本日は魔力の温存が必要な日なのです。代わりの治癒師をお探しになってはいかがでしょうか」
「だが、専属の治癒師は——」
「宮廷魔術師でなくとも、民間の治癒師もおります。第三区に評判の良い医師がいると聞いています」
それだけ言って、私は歩き始めた。
後ろから「おい、待て」という声が聞こえたが、振り向かなかった。
(これでいい。私は何も悪いことをしていない)
魔力は、私のものだ。
使うかどうかは、私が決める。
ただそれだけのことなのに、前世ではそれが出来なかった。
廊下を曲がった瞬間、肩の力が少し抜けた。
(ああ、こんなに楽なのか)
断るだけで、こんなに楽になれるのか。
胸の中で何かが緩んでいく気がした。
◆
その日の午後。
王宮の庭園で、私は一人お茶を飲んでいた。
珍しいことだった。
前世では、こんなふうに一人で座っている時間など、ほとんどなかった。
いつも誰かに呼ばれ、どこかへ連れて行かれ、治癒をして、また次の場所へ——そういう日々だった。
(お茶が、こんなに美味しいとは知らなかった)
香りを楽しみながらカップを傾けた時。
「ここに座っても?」
声がした。
顔を上げると、男が立っていた。
見知らぬ顔ではない。
ただ、こんなに近くで話したことは、なかった。
レオナルド・アシュフォード。
公爵家の嫡男で、三年間隣国リーヴェスに留学していた人物だ。
先月帰国したばかりだと聞いていた。
前世でも、彼は存在していた。
でも私とは、ほとんど接点がなかった。
ただ一度だけ。
彼が隣国に発つ前夜の夜会で。
「無理するな」
そう、一言だけ言われたことがあった。
当時の私には、その言葉の意味がよくわからなかった。
でも今なら、わかる。
彼はあの時、私が消耗していることに気づいていたのだ。
「どうぞ」
私は向かいの椅子を示した。
彼は静かに腰を下ろし、給仕を呼んでお茶を注文した。
それから、特に何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
不思議と、嫌ではなかった。
「ヴォーン嬢」
少しして、彼が口を開いた。
「今日、ガレス卿が渋い顔をしていた。何かあったのか」
「少し予定があって、お断りしただけです」
「そうか」
それだけだった。
責めなかった。
不思議そうにもしなかった。
ただ「そうか」と言って、お茶を飲んだ。
(……変わった人だ)
私は少し、警戒した。
優しくされると、つい心を許したくなる。
前世でもそうだった。優しい言葉ひとつで、また頑張ってしまっていた。
でも彼の目は、同情でも計算でもなかった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
「リーヴェスには、長くいたのですか」
つい、話しかけていた。
「三年。向こうの医療制度を学んでいた」
「医療制度?」
「王宮の治癒魔法への依存度が高すぎると、以前から気になっていてな。リーヴェスでは魔法に頼らない医療体制を作っている。面白かった」
私は手の中のカップを見つめた。
(王宮の治癒魔法への、依存度が高すぎる)
それは——前世の私のことだ。
「……そういう視点で見ている方が、いたのですね」
「当然だろう。一人に全部背負わせるなど、制度として欠陥がある」
さらりと言われた言葉が、胸に刺さった。
欠陥。
そうだ。それは欠陥だった。
私が頑張りすぎたのではなく、そもそも構造がおかしかったのだ。
前世では、そんなふうに考えたことも、なかった。
「……あなたは、おかしな方ですね」
思わず口から出てしまった。
「そうか?」
「王宮の人間は皆、治癒師は治癒するものだと思っています。それを制度の欠陥だと言う方は、初めてです」
彼は少し考えてから、言った。
「過労で倒れたら困る、という打算もある」
「正直ですね」
「だが、それだけじゃない」
視線が合った。
「あなたが消耗しているのを、昔から見ていた。誰も気にしていなかったから、俺だけでも気にしておこうと思った。それだけだ」
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
(気にしていた——この人が、ずっと)
私は表情を変えないよう努めて、カップを口に運んだ。
(騙されない。優しくされても、動じない。今世の私は、誰も助けないと決めたのだから)
でも。
心のどこかで、その言葉が静かに灯っていた。
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第三章 王宮は、自分で崩れた
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それから、二ヶ月が経った。
私は治癒の依頼を、全て断り続けた。
怒鳴られたこともある。
泣きつかれたこともある。
アルフレッド殿下から「婚約者として義務を果たせ」と命じられたこともある。
その度に私は、静かに微笑んだ。
「申し訳ありませんが、私は伯爵令嬢です。宮廷付きの治癒師ではありません。正式な治癒師をご用命ください」
それだけを繰り返した。
言い返さない。怒らない。ただ、断る。
最初は「気まぐれだろう」と思われていたようだった。
しかし二週間が経ち、三週間が経つうちに、少しずつ変化が起き始めた。
騎士団の遠征が、続かなくなった。
深手を負った団員の回復が遅れ、次の任務に出られない者が増えていった。
宮廷に雇われていた治癒師は三名いたが、私一人の代わりにはなれなかった。
前世で宮廷魔術師の補充が止まってから、すでに七年が経っていた。
エリーナ一人に依存する体制が作られてから、七年なのだ。
七年分の穴は、三人では到底埋まらない。
地方領からの疫病報告が届いたのは、六月の初めだった。
「第四領で熱病が発生。感染者数、現在三十名」
謁見室に陳情書が届いた日、私は廊下でその報告を聞いた。
(来た)
前世でも、同じことがあった。
その時は私が出向いて、一週間で抑え込んだ。
誰にも感謝されなかったが、広がらずに済んだ。
今世では——私は動かない。
廊下の窓から庭を眺めると、レオナルドが向こうから歩いてくるのが見えた。
目が合う。
彼は少し目を細めて、こちらへ来た。
「疫病の報告が入ったな」
「聞こえていました」
「動くか?」
「動きません」
一拍の沈黙。
「……そうか」
責めなかった。
哀れみもしなかった。
「ならば俺が、リーヴェス式の対処法を進言してみる。時間はかかるが、魔法なしでも抑えられる」
「あなたが動くのですか?」
「俺が動いても、誰も困らんだろう」
(なんで、この人は)
私は少し、眉を寄せた。
「……善人ですね、アシュフォード様は」
「そうか? 単純に、治療体制に興味があるだけだ」
彼はそう言って、王宮の奥へ歩いていった。
私はその背中を見送りながら、胸の中の小さな灯が、また揺れるのを感じた。
(駄目だ。心を許してはいけない)
でも不思議と、この人がいる場所だけ、息がしやすかった。
◆
七月に入ると、アルフレッド殿下の支持が揺らぎ始めた。
騎士団の任務失敗が二件続き、地方領の疫病対応が遅れた責任を問う声が上がった。
貴族院での発言力が下がり、支持していた十五家のうち三家が距離を置き始めた。
社交界では、静かな噂が流れていた。
「王太子殿下は、婚約者を使いこなせていないのではないか」
そして——
「エリーナ嬢が治癒を断っているのは、何故だろう」
囁き声が、少しずつ大きくなっていく。
アルフレッド殿下が私を呼びつけたのは、七月の中頃だった。
「エリーナ」
執務室の扉を開けると、殿下は険しい顔をしていた。
机の上に、陳情書の束が積まれている。
「説明を聞かせてくれ。なぜ治癒を断り続けているのか」
私は、静かに礼をした。
「先日も申し上げたとおりです。私は伯爵令嬢であり——」
「それは聞いた」
殿下の声が、少し荒くなった。
「君は十年間、当然のように治癒してくれていた。なぜ急に」
(当然のように)
その言葉が、静かに胸に落ちた。
当然。
そうか。殿下には、ずっとそう見えていたのか。
私がどれだけ魔力を削っても。
眠れない夜が続いても。
毎朝、体が鉛のように重くても——
全部、当然のことだったのか。
「殿下」
私は顔を上げた。
「十年間、私が王宮のために使った魔力の総量をご存じですか?」
「……それは」
「宮廷魔術師五名分に相当します。年間で、です」
殿下は、黙った。
「その間、正式な治癒師の補充が行われたことは一度もありません。私が全て賄えていたから、補充の必要がないと判断されていた。そうですね?」
「……そこまでは把握していなかった」
「では殿下。私がこの先も同じように治癒を続けた場合、私はあと何年生きられると思いますか」
殿下の表情が、変わった。
「……それは、どういう」
「魔力の過剰使用は、寿命を削ります。長年の研究によれば、私の余命はすでに相当削られているはずです」
嘘ではなかった。
前世で処刑されなくても、あと三年で魔力欠乏症で倒れていたはずだった。
殿下は、何も言わなかった。
私はもう一度、礼をした。
「正式な治癒師の増員をご検討ください。私は今後も、緊急性のない依頼はお断りします」
それだけ言って、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、少し息が乱れた。
(怖かった)
怒鳴られると思っていた。
婚約破棄を宣告されるかもしれないと思っていた。
でも——それでよかった。
前世では言えなかったことを、今世で言えた。
それだけで、十分だった。
壁に背をつけて、空を見上げた。
「大丈夫か」
声がして、顔を向けると、廊下の陰にレオナルドがいた。
「……聞いていたのですか」
「偶然通りかかった。半分ほど」
「ご趣味が悪いですね」
「同感だ」
彼は壁に並んで寄りかかった。
「よく言えた」
「……別に、大したことは」
「よく言えたと言っている」
静かだが、はっきりとした声だった。
私は、何も返せなかった。
称賛に慣れていなかった。
誰かに「よくやった」と言われることに、慣れていなかった。
目の奥が、少し熱くなった。
(泣かない。泣いてたまるか)
私は口を引き結んで、前を向いた。
「行きましょう。昼食の時間です」
「ああ」
彼は何も言わずに、並んで歩いてくれた。
その距離が、ちょうどよかった。
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第四章 知らないとでも、思いましたか
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【アルフレッド視点】
おかしい、とは思っていた。
エリーナが治癒を断り始めてから、確かに何かがずれていた。
しかし俺は、最初それを「気まぐれ」だと判断した。
エリーナはいつも従順だった。
何を頼んでも笑顔で応じ、不満を口にしたことは一度もなかった。
それが急に変わった。
だから、一時的なものだろうと思った。
甘かった。
八月に入ると、状況は取り返しのつかない段階に差し掛かっていた。
騎士団の遠征失敗が続き、貴族院での信任投票が迫っていた。
支持家が七家に減った。十五家から、七家に。
それだけではなかった。
第四領の疫病が第六領に広がった。
アシュフォード令息が独自に進言したリーヴェス式対処法が採用されなければ、さらに拡大していたと後で知った。
俺ではなく、レオナルドが動いていた。
それが、じわじわと効いてくる。
社交界で、囁き声が変わっていった。
「アシュフォード卿は有能ですね」
「殿下より、よほど動きが速い」
「エリーナ嬢との仲も、よく見かけますね」
最後の一文で、俺の中で何かが逆立った。
「殿下」
執務室に、クローデットが入ってきた。
幼なじみで、政治的な協力者だ。
頭が切れて、社交界での情報収集に長けていた。
「エリーナ嬢について、少し調べました」
クローデットは微笑みながら、書類を差し出した。
「アシュフォード卿との接触が増えています。これは——婚約者として、問題ではないでしょうか」
俺は書類を受け取った。
確かに、接触の記録があった。
庭園での会話。昼食の同席。廊下での立ち話。
「加えて」
クローデットは続けた。
「エリーナ嬢の治癒拒否は、単なる怠慢ではないかもしれません。殿下への当てつけ——あるいはアシュフォード卿と謀って、王宮の弱体化を意図的に図っているという見方もできます」
(確かに……)
俺は眉を寄せた。
「証拠は」
「まだありません。ですが、タイミングが一致しすぎます。アシュフォード卿が帰国したのと、エリーナ嬢が治癒を断り始めたのが、ほぼ同時期です」
「引き続き調査を頼む」
「もちろんです、殿下」
クローデットが退室した後、俺は窓の外を見た。
庭園に、エリーナの姿があった。
レオナルドと、並んで歩いていた。
笑っている。
(あいつが笑うのを、俺は最後にいつ見た)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
すぐに打ち消した。
俺は知らなかった。
クローデットがその日のうちに、社交界にある「噂」を流し始めていたことを。
「エリーナ嬢は、実は上位の治癒魔法を持っている」
「それを隠して、意図的に王宮を弱体化させている」
一年後——前世と全く同じ冤罪を、今世でも仕掛けようとしていることを。
俺は、何も疑わなかった。
◆
【クローデット視点】
順調だった。
エリーナが邪魔だと気づいたのは、三年前のことだ。
あの女は地味で目立たない。
しかし殿下の傍に居続けた。
婚約者という立場で、ずっと殿下の隣に居続けた。
それが気に入らなかった。
私が殿下の傍にいるべきなのだ。
実力も、家柄も、社交性も——全てにおいて、私の方がエリーナより上だ。
治癒魔法さえなければ、とっくに婚約は破棄されていた。
だから、その治癒魔法を「隠していた証拠」に変えてしまえばいい。
前回——いや、今回が初めてのはずなのに、なぜかそう考えた。
まず噂を流す。
「エリーナ嬢には、もっと強力な治癒魔法があるはずだ」と。
次に証人を作る。
「彼女が魔法を隠すところを見た」という貴族を数名、用意する。
最後に断罪の場を作る。
全ての準備が整えば、あとは殿下が動くだけだ。
完璧な計画だった。
少なくとも——私がレオナルドの動きを把握していれば、そうだったはずだ。
評議会に証拠を持ち込まれたのは、八月の末だった。
「クローデット・ベルナール嬢による、エリーナ・ヴォーン伯爵令嬢への冤罪工作、及び情報操作の証拠を提出する」
レオナルドの声は、静かだった。
しかしその静けさが、かえって場を凍らせた。
私の顔から、血の気が引いていく。
「そんな——私は何も——」
「こちらが手紙の写しです。筆跡鑑定も済んでいます。こちらが証人の証言書。合計十二名分あります。こちらが、噂の発信元を追跡した記録です」
一枚ずつ、丁寧に積み上げられていく書類。
「捏造——これは捏造よ、私は——」
「ベルナール家の紋章入り封蝋の書簡が捏造とは、興味深い主張ですね」
レオナルドは、表情一つ変えなかった。
その瞬間、評議室の空気が完全に変わった。
私は——私は、何も言えなかった。
全部、本物だったから。
全部、私がやったことだったから。
その日のうちに、私は身柄を拘束された。
ベルナール家は王都での活動を停止。
爵位を剥奪され、社交界から一夜にして消えた。
父の絶望した顔が、脳裏に焼き付いている。
もらい泣く使用人たちの声が、聞こえた。
年間収入四万金貨、王都の邸宅三棟、六代続いた爵位、社交界での地位——
全部、この一日で終わった。
全部、エリーナ一人を蹴落とそうとして、全部。
(なぜ、こんなことに——)
でも答えはわかっていた。
私はずっと、エリーナの「価値」を間違えていた。
治癒魔法がなければ、取るに足らない令嬢だと思っていた。
でも違った。
エリーナは治癒魔法があるから価値があるのではなく——
どんな状況でも誠実に動ける人間だから、誰かに守られるのだ。
(遅すぎた)
気づいた時には、全てが終わっていた。
◆
評議室の隅で、俺はただ立ち尽くしていた。
クローデットの工作が、白日の下に晒された。
(クローデットが、そんなことを)
頭が、うまく働かなかった。
前世と同じ工作を——いや、どうして俺は「前世」などという言葉を思い浮かべた。
何かが、胸の奥に引っかかる。
「殿下」
レオナルドが、近づいてきた。
「一つ、確認させていただいてもよろしいですか」
「……何だ」
「エリーナ嬢への感謝を、殿下は一度でも言葉にしたことがありますか」
俺は、黙った。
「十年間の献身に対して。一度でも」
答えられなかった。
ない。
一度も、なかった。
感謝を言葉にしたことが、一度も——
「その答えを、エリーナ嬢はもうとっくに知っています」
レオナルドは、それ以上何も言わなかった。
踵を返して、歩いていく。
その背中が、遠ざかっていく。
俺はその場に立ち尽くしたまま、ようやく気がついた。
(俺は——エリーナに、何もしてやっていなかった)
十年間、彼女が何をしてくれていたか、俺はわかっていなかった。
いや、わかっていたが、考えないようにしていた。
考えると、何かを返さなければならない気がして。
それが——面倒だった。
(面倒、だと思っていたのか。あの女の十年間を)
胃の底が、冷たくなった。
俺は今まで、何をしていたのだろう。
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第五章 あなただけには、心を許してしまった
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クローデットの断罪から、三日が経った。
社交界は、騒然としていた。
「エリーナ嬢が王宮を支えていたのは本当だったのか」
「殿下は十年間、何も気づいていなかったのか」
「治癒魔法の供給が止まったのは、怠慢ではなく当然の権利行使だったのでは」
噂の矛先が、完全に逆転していた。
以前は「使われて当然の地味な婚約者」だったエリーナへの評価が、一夜にして変わった。
「王宮を一人で支えていた令嬢」
「理不尽な冤罪工作の被害者」
「アシュフォード卿に守られた誠実な方」
私はそれを、自室でお茶を飲みながら聞いていた。
(騒がしいことだ)
特に、嬉しくもなかった。
今更誰に評価されても、前世は返ってこない。
十年間は、返ってこない。
ただ。
少しだけ、胸の重さが軽くなった気はした。
「エリーナ嬢」
扉をノックする音がして、入ってきたのはレオナルドだった。
彼は、表情が読みにくい人だった。
いつも静かで、感情を大きく動かさない。
でも今日は、少しだけ違う顔をしていた。
「座ってもいいか」
「どうぞ」
彼は向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらく黙っていた。
「……礼を言いに来た」
「礼?」
「あなたが動かなかったから、俺が動ける理由ができた」
意味がわからなくて、首を傾げた。
「あなたが治癒を止めなければ、王宮の脆弱性は表面化しなかった。俺がいくら制度改革を訴えても、誰も聞かなかっただろう。あなたが引いたことで、全部が見えた」
「……それは、意図してやったことでは」
「知っている」
彼は真っすぐに私を見た。
「自分のためにやったことだと、わかっている。それでも、結果として俺は動きやすくなった。だから礼を言いたかった」
私は少し、言葉に詰まった。
この人は、本当に。
変わっている。
自分のためだったと告げても、感謝する。
責めない。評価もしない。ただ、受け取る。
「……あなたは」
口が動いていた。
「なぜ、私のことを気にするのですか。以前から、ずっと」
「理由は単純だ。俺が隣国に発つ前、あなたに『無理するな』と言った。あなたは『大丈夫です』と言った。その目が、全然大丈夫じゃなかった」
胸の中で、何かが揺れた。
「三年間、向こうにいながら、ずっと気になっていた。帰ってきたら、案の定だった」
「案の定、とは」
「もっと消耗していると思っていたが、何かが変わっていた。目が違った」
(目が、違った)
私は自分の手を見た。
確かに今世の私は、前世とは違う。
もう誰かのために削られる目をしていない。
「あなたは今、自分のために生きているか?」
静かな問いだった。
「……今は、そうしようと決めています」
「そうか」
「……可笑しいですか」
「いや、よかったと思っている」
彼はそれだけ言って、窓の外を見た。
沈黙が落ちた。
でも、ずっと息のしやすい沈黙だった。
「エリーナ嬢」
「何ですか」
「一つ、聞いてもいいか」
「……どうぞ」
彼は少し間を置いた。
「俺のことは、信頼してもらえているか」
単刀直入だった。
私は少し、目を見開いた。
(信頼)
前世では、誰を信頼していたのだろう。
アルフレッド殿下を信頼していた。
王宮を信頼していた。
この国を、信頼していた。
全部、裏切られた。
だから今世では、誰も信頼しないと決めた。
決めたはずなのに。
「……少し」
口から出てしまった。
「少しだけ」
レオナルドは、少しだけ目を細めた。
「十分だ」
「……十分、ですか」
「最初から全部信頼されたら、俺が居心地悪い」
思わず、笑ってしまった。
声に出して笑ったのは——いつぶりだろうか。
笑った後、少し恥ずかしくなって、カップを手に取った。
でも彼は笑った私の顔を、黙って見ていた。
「……なんですか」
「いや」
彼は少し言い淀んでから、言った。
「笑顔を見たことがなかったから」
胸の奥で、何かが揺れた。
今度は、止まらなかった。
目の奥が、じんわりと熱くなる。
(駄目だ)
思ったけれど、涙が零れた。
一粒だけ。
「——すみません」
急いで拭おうとしたら、彼がそっと手を伸ばして、止めた。
「泣いていい」
「泣きたいわけでは」
「泣いていい」
もう一度、繰り返した。
「あなたはずっと、誰かのために死ぬ覚悟ばかりしていた。もう、そうしなくていい」
喉が、詰まった。
(そうしなくていい)
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなに重いのだろう。
前世で、誰かに言ってほしかった言葉だ。
ただの一度でいいから、聞きたかった言葉だ。
涙が、止まらなかった。
レオナルドは何も言わなかった。
ただ、そこにいてくれた。
それだけで、よかった。
◆
アルフレッド殿下から婚約解消の申し出があったのは、翌週だった。
私が王宮の応接室に通されると、殿下は珍しく疲れた顔をしていた。
「エリーナ。俺から、話がある」
「はい」
「……婚約を、解消したい」
私は、何も感じなかった。
前世なら、胸が痛かったかもしれない。
でも今は——ただ、静かだった。
「承りました」
「それだけか」
「他に何かありますか」
殿下は、少し黙った。
「……俺は、君に何もしてやれなかった」
「そうですね」
「十年間、気づかなかった。当然だと思っていた」
「そうですね」
「申し訳なかったと——思っている」
声が、微かに震えていた。
私は殿下を見た。
疲れた目をしていた。
本当に、申し訳なく思っているのかもしれない。
でも。
「殿下」
「何だ」
「申し訳なかったという気持ちは、受け取ります」
殿下の表情が、少し緩んだ。
「でも、何かが変わるわけではありません」
また、強張った。
「今更謝っていただいても、私が処刑台で——」
言いかけて、止めた。
「……夢で見たのです。何度も繰り返す夢を。その夢の中で、殿下は私に背を向けていました」
殿下の顔が、青くなった。
「……夢、か」
「ええ。夢でした。でもその夢が、私を変えました」
私は礼をした。
「婚約解消の手続きを、速やかにお進めください。それだけです」
立ち上がり、扉に向かった。
「——エリーナ」
殿下が呼んだ。
振り向かなかった。
「……すまなかった」
静かな声だった。
私は少しだけ、足を止めた。
「……いつか、今日の言葉を思い出してください。次に誰かの力を借りる時に」
それだけ言って、扉を閉めた。
廊下に出た瞬間、すとんと体が軽くなった。
(終わった)
本当に、終わった。
前世では、処刑されて終わった。
今世では、自分で終わらせた。
その違いが、どれほど大きいか。
私は廊下の窓から、空を見上げた。
青かった。
どこまでも、青かった。
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終章 色のある空の下で
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婚約解消から半月後。
レオナルドが、私に申し出た。
「隣国に、一緒に来てくれないか」
唐突だった。
「リーヴェスの医療研究所が、治癒魔法の研究者を求めている。あなたの力は、王宮のためではなく、そちらに向けた方がいい」
「それは——」
「強制ではない。ただ、俺はあなたと一緒にいたい」
また、単刀直入だった。
私は少し、笑ってしまった。
「あなたは本当に、回りくどいことが嫌いですね」
「性分だ」
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「私が治癒魔法を使っても——搾取しませんか」
静かな問いだった。
レオナルドは、一拍だけ間を置いた。
「使いたくない時は使わなくていい。使いたい時だけ使えばいい。俺はそれを決める立場にない」
「……それだけですか」
「それだけだ。他に何がある」
(他に何がある、か)
私は窓の外を見た。
晴れていた。
「——わかりました」
「行くか?」
「行きます」
私は、彼の方を向いた。
「ただし、私は誰のためにでも動く女ではありません。それを承知の上で」
「知っている」
「それでもいいのですか」
「それがいい」
レオナルドは、少し目を細めた。
「俺は、あなたの意志が見たい。あなたが自分のために選ぶのを、見ていたい」
胸の奥で、前世から続く疲労が、ゆっくりと溶けていく気がした。
(ああ)
こういう人が、いたのか。
前世では気づかなかった。
前世では、この人の言葉を聞く余裕が、私にはなかった。
「……レオナルド様」
「何だ」
「一つだけ、言ってもいいですか」
「ああ」
私は、真っすぐに彼を見た。
「助けてもらって、よかった」
彼は少し驚いたような顔をして——それから、静かに笑った。
初めて見る、柔らかい笑顔だった。
「こちらこそ」
彼は手を差し伸べた。
私は少しだけ躊躇って——
手を取った。
前世では、誰かのために差し出し続けた手が。
今世では、誰かに掴まれていた。
窓の外に、風が吹いた。
白い花びらが、庭に舞っていた。
(今度こそ、自分の人生を生きる)
私はそう、静かに誓った。
◆
後日談。
アルフレッド殿下の支持家は、最終的に十五家から五家まで減った。
王宮医療の再建費用として、年間八万金貨の追加予算が計上された。
貴族院での信任は通過したものの、政治的影響力の回復には三年以上かかると見込まれている。
クローデット・ベルナール嬢は、冤罪工作と情報操作の罪により、ベルナール家の爵位を剥奪された。
社交界への出入りを永久に禁じられ、家族ともども王都から退去を命じられた。
かつて彼女が「エリーナ嬢は野心家だ」と囁いていた社交界は、今やその言葉を使った人間を恥じている。
私はその全てを、リーヴェスからの手紙で知った。
隣国の医療研究所は、想像以上に面白い場所だった。
魔法に頼らない治療法と治癒魔法を組み合わせた研究が進んでいた。
私の力は、初めて「消耗品」ではなく「協力者」として扱われた。
毎朝、自分で起きる時間を決める。
使いたい時だけ魔法を使う。
疲れたら休む。
それだけのことが、こんなにも難しかったのだと、今更知った。
「今日も難しい顔をしている」
研究所の廊下で、レオナルドが声をかけてきた。
「考えごとです」
「いい考えごとか、悪い考えごとか」
「……いい方です」
「なら良かった」
彼は隣に並んで、歩き始めた。
「今夜、街に食事に行くか。新しい店が開いたらしい」
「レオナルド様のお誘いに乗るのは、これで何度目でしょう」
「数えているのか?」
「いいえ」
「俺は数えている」
振り返ると、彼は真顔だった。
「……何度ですか」
「十七回」
「……覚えすぎでは?」
「大事なことは覚える」
胸の奥が、じわりと温かくなった。
(大事なこと)
私は前を向いて、歩き続けた。
「行きましょう」
「ああ」
隣を歩く足音が、並んで続く。
前世では、誰かのために走り続けた足が。
今世では、自分のために歩いている。
それだけで——十分だった。
いや、十分以上だった。
これ以上に、何が要るだろう。
窓の外に、夕陽が沈みかけていた。
橙と金が混じった、綺麗な色だった。
(前世では、こんな夕陽を見る余裕もなかったな)
私は少し、微笑んだ。
処刑台の最後の朝に見た、あの灰色の空とは違う。
今日の空は、ちゃんと色があった。
——それが、何より嬉しかった。
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