婚約破棄の先にあったのは溺愛契約でした
私が婚約破棄されたのは、春の舞踏会の夜だった。
シャンデリアの光の下で、王太子は私の名を呼び、一言だけ言った。
「リーネ・フォルトナー。君との婚約は、今日をもって無かったことにする」
周囲が静まり返った。
私の指先が冷たくなる。
それだけが、その夜、私の体が示した唯一の反応だった。
王太子の隣には、義妹のエルヴィラが立っていた。
瞳を潤ませて、私を見上げている。
その目は「お姉様、お気の毒に」と言っていたが、口元が微かにゆるんでいた。
(……ああ、やっぱりそういうことか)
気づいていた。
半年前から、王太子の態度が変わっていたことも。
エルヴィラが社交界で「姉の話」をするときの、あの微妙な間の取り方も。
だから私は、泣かなかった。
背筋を伸ばして、一礼した。
「承知いたしました」
それだけ言って、私は舞踏会場を出た。
丸くなった背中に、誰かの囊き声が当たった気がした。
振り返らなかった。
父は、娘が帰宅しても何も言わなかった。
ただ「悪かった」と一言だけ呟いて、そのまま書斋にこもった。
(……そう、お父様は最初から、エルヴィラの側だった)
血の繋がらない先妻の子である私と、後妻の娘であるエルヴィラ。
父にとって、どちらが大切かは最初から明白だった。
翌日、私は伯爵家を出た。
荷物は革の鞄ひとつだけ。
その中には、亡き母が残してくれた薬草帳と、幼い頃から集めた魔導具の素材が入っていた。
王都の端、路地裏の小さな貸店。
そこが私の新しい居場所になった。
証も後ろ盾もない。
けれど、薬草の知識だけは、一人で積み上げたものだった。
誰にも奪えない。
店を開いて三日目のことだった。
客はまだほとんど来ない。
私は薄暴い篤の上で、魔導具の試作品を並べていた。
ガラス瓶に封じた薬効保存球。
小さな石に刻印を彫った解熱の押し石。
どれも市販品より効果は高いが、まだ誰もそれを知らない。
扉が控えめに叩かれたのは、そのときだった。
開けると、立っていたのは長身の男性だった。
銀灰の髪。青い瞳。黒い手袋。
表情はほとんどなかったが、私を見て微かに息を吐いたのがわかった。
「リーネ・フォルトナー殿ですか」
「……今はただのリーネです。ご用はなんでしょうか」
男は一通の封筒を差し出した。
封蝋にはヴィントフェルト男爵家の紋章が押してあった。
「私はルートヴィヒ・ヴィントフェルト。この手紙の内容を、読んでいただきたい」
手が少しだけ震えた。
知らない名前ではない。ヴィントフェルト男爵家と言えば、王都でも屈指の名門だ。
なぜそんな家の人間が、路地裏の薬屋に。
封を切った。
中には、短い文章が一つだけ書かれていた。
「契約結婚を申し出ます。貴女の薬師としての技術と、当家の名を交換する契約です。條件は別紙にて」
息が止まった。
契約結婚。
貴族間で稀に行われる、愛情ではなく利害で結ばれる婚姻の形。
つまりこの男は、私の「技術」がほしいと言っている。
「……なぜ私なのですか」
「貴女の作る薬効保存球。明日の商会で見ました」
忍び足で店を見ていたということか。
警戒心が先に立つ。けれど、同時に胸の奠に、小さな火が灯ったのも事実だった。
誰かが、私の技術を見てくれた。
「すぐにお返事はできません。……条件を見せてください」
ルートヴィヒは頑いた。
別紙の契約書は、驚くほど公正だった。
私の技術提供の対価として、男爵家の名と工房の使用権。対等な取引。
私の自由を制限する条項は、一つもなかった。
三日、考えた。
そして私は、契約書に署名した。
◇
契約結婚から一月が経った。
ルートヴィヒは、奇妙な夫だった。
必要以上のことは言わない。けれど、月に一度、必ず手紙を寄越した。
その手紙にはいつも、同じ形式で書かれていた。
「工房の使用報告。今月の素材入荷は以下の通り。また、身体に気をつけてください」
事務的な報告のあとに、一行だけ。
たった一行だけの、短い気遣い。
それが、不思議とあたたかかった。
◇
転機が訪れたのは、婚約結婚から三月後のことだった。
王都の広場で、季節の大市が開かれていた。
私はルートヴィヒの工房を借りて作った魔導具を、小さな台に並べていた。
そこへ、白髪の女性が歩いてきた。
小柄で、片眠鏡。
私の台の前で足を止め、薬効保存球を手に取った。
「これ、あなたが作ったの」
「はい」
女性は球を光にかざし、封印陣の線を指で追った。
その動作は、明らかに専門家のものだった。
「封印陣の比率が美しい。素材の光伝導率も、市販品の倍近くある。……独学かしら」
「はい。母の薬草帳が元になっています」
女性は、片眠鏡の奠から私を見た。
「私はマルグリット。王立魔導具工房にいたことがある。……あなた、うちに来なさい。教えることがある」
心臓が跳ねた。
これが、偶然でなかったことを、私は後になって知る。
マルグリットの工房で、私は初めて本格的な魔導具の技術を学んだ。
素材の選定、刻印の深度、薬効と魔力のバランス。
独学では辞り着けなかった場所に、一つずつ光が当たっていくようだった。
「あなたの母親の薬草帳、見せてもらったよ。あれは大したものだ。もっと正しく継承されるべき技術が山ほどある」
「……ありがとうございます」
「感謝はいらない。技術で返しなさい」
マルグリットはそう言って、口元だけ微かに笑った。
◇
問題が起きたのは、私の魔導具が評判を得始めた頃だった。
王立魔導具工房から、正式な苦情が届いた。
「ヴィントフェルト男爵家の名で販売されている薬効保存具について、品質基準への適合審査を求める」
形式上は品質審査だが、実際は販売停止命令に等しいものだった。
「これ、誰が出したかわかりますか」
私はルートヴィヒに訊いた。
彼は少し間を置いて、静かに答えた。
「工房の管理者は王太子派の貴族だ。推測はできる」
(……王太子)
胸の奠が、冷たくなる。
けれど、不思議と恐れはなかった。
予感はあった。婚約破棄のとき、王太子の目に浮かんでいたもの──あれは「お前はもう用済みだ」という目ではなかった。
「お前が立ち上がるなど許さない」という目だった。
「証拠が必要です」
私は、自分に言い聞かせるように呟いた。
婚約破棄のときのように、ただ「承知しました」と受け入れるわけにはいかない。
あのときの私には、守るものがなかった。
今は、ある。
薬効保存球の品質試験は、私自身の手で記録を用意していた。
マルグリットに教わった通り、すべての工程で数値を記録し、第三者が検証できる形で保管してある。
「驙されたくなければ、証拠を出しなさい」
マルグリットの言葉が、頭の中で響いた。
「ルートヴィヒ様。この件、私に任せていただけますか」
彼は私を見た。
あの青い瞳が、一瞬だけ揺れた。
心配しているのだと、わかった。
「……任せる」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
品質審査の席は、アルビオン公爵が主宰する場で行われた。
公爵は、温厚な笑みの下に鲶い目を隠した人物だった。
私の資料を受け取り、一枚一枚、丁寧に目を通した。
工房側の証人が、「無資格の薬師の製品」と訴えた。
私は黙って、資料を一部ずつ開いた。
原材料の入荷記録。
各工程の温度・湿度・魔力値の計測記録。
完成品の性能比較表。
「こちらが市販の同等品の数値です。そしてこちらが、私の製品の数値です」
場が静まった。
数値の差は歴然だった。
公爵が、初めて私を真っ直ぐ見た。
「この計測記録、第三者による追試験は可能か」
「いつでも。同じ素材と工程で再現できます」
公爵は資料を閉じ、工房側に向き直った。
「苦情は却下する。品質に問題は見られない」
ただそれだけ。
淡々と、事実だけが述べられた。
工房側の証人の顔が、紙のように白くなったのが見えた。
私はそれを見ても、何も感じなかった。
勝利の快感ではない。
ただ、「正しいことが、正しく通った」という静かな安堵だけがあった。
◇
帰り道、ルートヴィヒが待っていた。
何も言わない。
ただ、私の隣を歩いた。
いつもより半歩だけ近く。
ふと、彼の手が動いた。
黒い手袋のまま、私の肩に上着がかけられた。
「……寒くはないですけれど」
「寒い」
それだけ。
短い一言。
でも、その上着は温かかった。
(……この人は、いつもこうだ)
言葉ではなく、行動で示す。
手紙の一行も、上着も、全部同じだ。
私は上着の襟を引き寄せた。
彼の体温が残っている。
胸の奠に、じわりと何かが広がった。
「ルートヴィヒ様」
「何だ」
「……次の手紙には、もう一行だけ、書き足してくださいませんか」
彼は歩きながら、わずかに頑いた。
「……何を」
「なんでも。お好きなことを」
沈黙があった。
秋の風が、二人の間を通り過ぎた。
「……善処する」
それが、彼の答えだった。
私は小さく笑った。
それが、婚約破棄された夜から初めての、心からの笑いだった。
一通の手紙から始まった、この新しい人生。
秋の空は高く、隣を歩く彼の歩幅は、いつの間にか私に合わせてくれていた。
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