第1話
夜の空は、どこか鈍い灰色をしていた。
月明かりも雲に隠れ、庭の片隅は静かに闇に包まれている。エラは一日の仕事を終え、床に横になっていた。自室の窓からは義姉たちの大声が漏れ聞こえる。
「ねぇ! 王子のインスタ、見た? 今日の投稿、また『愛は愛だ』とか意味不明なの!」
「さすが運命の人。語彙力が飛び抜けてるわね!」
「いや、悪い意味でしょそれ。」
エラは天井を見つめながら、声に出さずに呟く。彼女は最近、王子の噂を聞くたびに不安を覚えるようになっていた。なぜならその人物像が、どう考えてもまともではないからだ。
「舞踏会とか、行きたくないな……」
しかしその瞬間、窓の外から妙な音が聞こえた。ゴトン、と低い音が庭先で響いたのだ。
エラが窓を開けて顔を出すと、庭の暗がりに人影が見えた。地面に腰を下ろし、何やらため息をついている。
「……あの、どちら様ですか?」
エラが恐る恐る声をかけると、男は振り返った。その顔には深いクマがあり、髪はボサボサで、手には何故か古ぼけた手帳が握られていた。
「あぁ……悪いな。俺、魔法使いだ。」
「……は?」
男は無気力そうに立ち上がり、埃を払うように手を振った。その動きも、どこか投げやりだ。
「いやさ、今日も仕事なんだよ。上からの指示でな。『困ってる人間を助けろ』っていう。」
「仕事、ですか……?」
エラは眉をひそめた。魔法使いと名乗るこの男は、どこからどう見ても、何かを助けられるようには見えない。むしろ助けが必要なのは彼の方ではないかと思うほどだ。
「なぁ、あんた困ってるだろ? 家族にコキ使われて、自由もないっていう典型的な奴だよな。」
「まぁ、困ってるっちゃ困ってますけど……」
「だろ? だから俺が来たわけだ。ほら、願いを言えよ。適当に叶えてやるから。」
魔法使いはポケットから魔法の杖を取り出したが、その杖の先端には謎のセロハンテープが巻き付いている。
「ちょっと待ってください。まず、あなた本当に魔法使いなんですか?」
エラが半信半疑で尋ねると、魔法使いは溜息をつきながら手帳を広げた。そのページには、びっしりとタスクが書き込まれている。
「ほら、これが今日のスケジュール。」
エラが魔法使いの手帳を覗き込むと、「午前:転生者サポート」「午後:ドラゴン退治補佐」「夜:家庭問題解決」とスケジュールがぎっしりだった。
「忙しいですね……。」
「忙しいなんてもんじゃねぇよ。俺の仕事、基本的にノー残業って契約だったのに、いつも時間外だらけだ。」
魔法使いは目をこすりながら言った。「そんで、お前が最後の案件だから、早く終わらせて帰りたいんだよ。」
「……最後の案件って、そういう問題なんですか?」
「いいから願いを言えよ。そっちの都合に合わせる暇なんてないから。」
魔法使いが不機嫌そうに杖をくるくると回しながら言った。エラは一瞬、口を閉ざして考えた。
「……私、特に願いとかないんですけど。」
「は?」魔法使いが杖を落としそうになった。「いやいや、俺、あんたを助けるためにここまで来たんだぞ? なんか言えよ。何でもいいから。」
「ええと、じゃあ、この家をきれいにするとか?」
「それ、あんたが自分でやってんじゃん。俺が手出すことじゃねぇ。」
「じゃあ、私が自由になるとか?」
「抽象的すぎて無理。もっと具体的なやつ。」
エラは深いため息をつきながら、
「じゃあ……舞踏会に行けるようにしてください」と言ってみた。
魔法使いは一瞬眉をひそめた後、「まぁ、そうだろうな」と頷き、ぼそぼそと呪文を唱え始めた。
「まずはドレスだな……これでいいか。」
魔法使いが杖を振ると、エラの体にキラキラした光がまとわりつき、瞬時に変化が起こった。しかし、できあがったドレスを見たエラは絶句した。
「……これ、何ですか?」
ドレスは確かにきれいだったが、スカートの裾が不自然に短く、一方で肩の部分がやたらと盛り上がっている。まるでファッション雑誌に載る前衛的なデザインだ。
「最近流行ってるらしいぞ。『モード系』ってやつ。」
「流行ってても着たくないんですけど!」
「文句言うな。次は靴だ。」
魔法使いがもう一度杖を振ると、地面に透明な靴がぽんと現れた。それを見たエラは、さらに言葉を失った。
「これ、ガラスじゃなくて……ビニール?」
「今のガラスって高いんだよな。それに、これの方が丈夫だし、コスパいいんだ。」
「……そんなに節約しないといけないんですか。」
魔法使いは無言で手帳をちらりと見せた。「俺の予算表な。上から『経費削減』って毎週メールが来るんだよ。」
エラは呆れた表情で靴を手に取ると、「これ、履けるんですか?」と確認した。
「まぁ、頑張れ。」
「あと、舞踏会に行くための馬車だな。」
魔法使いは庭の隅に転がっていた小さなカボチャに目を向けると、再び呪文を唱えた。すると、カボチャが大きく膨らみ……途中で止まった。
「えっと……これ、完成形ですか?」
カボチャは確かに車輪がついているが、サイズが普通のリヤカー程度しかない。しかも中に入るスペースがほぼない。
「いや、これが限界だ。もうちょい我慢しろ。」
「もう少し頑張れません?」
さらに魔法使いは近くをうろうろしていたネズミを見つけると、それを馬に変えようとした。しかし、呪文が効きすぎてネズミは巨大化し、なぜかトラのような模様を持つ謎の動物になった。
「これ、馬っていうより……馬じゃないですよね?」
「まぁ、動けばいいだろ。」
エラは深く息を吐き、「……分かりました。もういいです」とだけ言った。
一方その頃、家の中では義姉たちがそれぞれ舞踏会に向けた準備を進めていた――というよりも、何かを壊しながら騒いでいた。
「ねぇ、このリップ、王子に刺さるかな?」
義姉Aが口紅を塗りすぎて顔が真っ赤になりながら、鏡の前で悩んでいる。
「いや、刺さるどころか逃げますよ、それ。」
エラが窓越しにぼそりと呟くと、義姉Bが大声で叫んだ。
「これよ! 私の新しいポーズ! 王子に見せたら間違いなく目を奪われる!」
彼女は片足を高く上げて回転しようとしたが、勢い余ってドレスの裾を踏み、床に派手に転んだ。
その瞬間、継母がリビングに登場し、「あなたたち!」と手を叩いた。
「今こそ家族の力を結集する時よ! 舞踏会で王子とシナジーを生み出すの!」
「それ、どういう意味ですか?」と義姉たちが揃って首を傾げたが、継母は気にせず「ビジョンが重要よ!」とだけ叫んで部屋を出ていった。
準備を終えたエラが庭に出ると、魔法使いは既にどこかへ行こうとしていた。
「じゃあな。俺、次の現場があるから。」
「最後まで仕事しないんですね。」
「それが俺のスタイルだ。あとは自分で何とかしろ。」
そう言い残して消えていく魔法使いを見送り、エラはため息をついた。手元には不格好なドレスと靴、そして小さすぎるカボチャのリヤカーしかない。
「まぁ、行くしかないか。」
エラはビニールの靴を履き、小さなリヤカーに乗り込むと、巨大なネズミがそれを引いて走り出した。