第5話
空気が凍った。
スマホの向こう側の『お手伝いさん』の息をハッと吸い込む音が聞こえるくらいに。
緑川巡査部長なんて二度見、三度見。
彼女はなにを口走っておいでなのか、とでも言いたそうに私を見てくる。
知らん、私に責任はない。
「驚き。その後、なにかを言いたそうに呼吸を数度吐き出した。怒りじゃない罪悪感のようなもの。名前を知らないので『お手伝いさん』と呼ばせていただきますが、被害者は認知症の妻を置いて買い物に出かけている。それは貴方に頼ったが断られてしまったからしょうがなくでは?」
帰ってくるのはただの沈黙。
はっきり言って碧依が現在行っているのは探偵の推理と言うには未熟で、もしもこれがミステリー小説であるなら愚策なものだ。
被害者と最も近い(意識がしっかりとある)人物を呼び止めて『犯人お前だろ? 白状しろよ』と言っているようなもの。
当たれば名探偵認定。
外れていれば迷探偵の烙印を押され、名誉棄損で見事に法廷送りである。
「しかもニュースで事件の内容が流されているのに、トメさんへの着信はない」
決めつけだ。
事件から2時間しか経っておらず、被害者が一般人の事件がそう何度も繰り返しニュースで流れるわけでもない。
被害者が買い物に行くのに被害者の妻の介護に訪れていないのは他に重要な用事があったからでは?
だったらニュースを確認出来ていない可能性だって出てくる。
そもそもスマホの向こう側の相手が仮に犯人だとして、自分が殺害した人物の妻からの電話に3コールで出やしない。
「……ボクが『被害者』『認知症の妻』と言った瞬間、軽い過呼吸になりましたね。貴方は誰かが死ぬのは知っていたのではないですか。しかしそれが倉科 ジンパチさんとは思っていなかった。違いますか?」
顔の微表情で感情は読み取れると言われるが、電話口の呼吸だけで似たようなことをしている。
電話ってのは、最も似ている音の波長を電波に乗せて届けている。
つまりは本人の声そのものではない。
そんなものを推理の材料に使うのはいかがな物かとも思うが、あまりに碧依が自信満々に演説するものだから、なるほどと思ってしまう。
「──……切られちゃいました」
「なにやってんだ!」
ぺしんっと碧依の眉間を叩く。
「あ、いた」と情けない声が鳴る。
「被害者の妻がこのありさまなんだから、この家に出入りしていた家政婦は重要参考人と言っても良い。そんな相手を無駄に挑発して恐喝するとは。探偵っていう人種は本当に。それが知性のある人間がすることか!?」
「恐喝なんて、ただの話し合いをしたかっただけです!」
「もし本当に犯人なら今更逃げられてる。碧依のおかげで証拠不十分の状態でな」
「重要参考人が逃げたなら、身柄は抑えられます」
「場所も誰かも分からんだろうが、おバカ」
「それなら任してください。電車の音とアナウンスが聞こえました。場所は松本駅。車のクラクションが近くに聞こえたのでアルプス口側。呼吸からして女性。音の反射を考えるに身長は──」
「ああ、良い。身元は鑑識が保管してる被害者のスマホに登録された同じ電話番号を確認すればいい。認知症になっていない夫の方なら流石に『お手伝いさん』ではなく名前で登録されているはずだ」
「髪は茶髪。年齢は30代半ば。唇の下にホクロ。綾瀬は●か似」
だから推理は……いや、電話ひとつでそこまで分かるはずはない。
碧依はトメさんのスマホをこちらに向けている。
画面には被害者のジンパチさんとその妻トメさんと一緒に映るエプロン姿の女性。
認知症を患った妻がいるのに家政婦は大変だ。
「他人が家にいる」なんて大騒ぎするのはしょっちゅうだろうし、説明が面倒くさい。
最悪、警察を呼ばれても過去に撮った写真さえあれば説明が出来る。
だからトメさんのスマホには沢山の写真が保存されていた。
「それじゃあ、青葉さん。彼女を迎えに行こうか」
「ただの重要参考人だ。逮捕じゃなく事情聴取に行くだけだぞ」
「わかってますが?」
キョトンと首を傾げられた。
ほんとに分かってんのかな。