ずぶ濡れテディ③
熊と颯馬が相対する形で対峙する。熊の強襲時とは立ち位置が入れ替わり、颯馬が傾斜地の山頂側に位置していた。
休む暇はないようだ。正面の巨大な熊は初撃が失敗に終わったのをすぐさま理解して身を翻している。
颯馬との距離は2m弱。そしてすぐに1mの距離まで距離を詰められる。クロスレンジだ。
熊は、颯馬に覆い被さるように両腕を大きく上げブルリと上半身の筋肉を振るように大きくしならせる。その一連の動作の中で、両腕の爪が交互に颯馬の頭部を掠める位置を駆け抜ける。颯馬は腰を後ろに引き、肩から左右に揺れるような動きでそれを回避していた。
執拗に頭部を狙うのは熊の習性だと聞いたことがあった。
鋭い爪と強靭な上半身の筋肉でバネのように弾き出した一撃で、獲物の頭部、特に顔面付近にダメージを集中させて視界か、あるいは戦意そのものを失わせてから仕留めるのだそうだ。
人間とはそもそもの生物としての筋力量が異なる一撃をまともに受けると、顔の皮をズルりと持っていかれるというのだから背筋が氷る話だ。
しかし、同時におかしい、とも颯馬は感じていた。
相対する熊は巨大すぎる。体躯は人の背丈は優に越して2m以上は確実にあるだろう。3mに近いかもしれない。
そしてその体の幅は成人男性を3人ほど束にしたほどの太さだ。熊の中でも確実に大型の部類だった。少なくとも本州に生息するツキノワグマと比べると一回りも二回りも大きいだろう。日本でも該当する種は存在する。ヒグマだ。しかし、生息域は遥か北方で、本州にはそもそも生息していないはずだった。
ヒグマだとしても、何故このような場所に現れているのか。
熊の生々しい息遣いと、獣の匂いと呪力の混じった体臭が感じられる距離。
苛立った熊が、沈み込む動作から低い姿勢で突き上げるように大口を開けて突っ込んできた。首筋を食い破るつもりだろう。
颯馬は回避することも可能な中で、あえて左腕を熊の口に差し出すように前にやりながら、押し込むように一歩踏み込んだ。
至近距離で組み合った所で、埒が開かない。どうせ、避けようが受けようが、颯馬にとってはあまり関係はないのだ。
であれば、左腕で受けてやった方がまだ熊の動きを止めることが出来る分、颯馬にとってはやりやすかった。
差し出した颯馬の左の手首を重機のような顎が猛烈な勢いで挟み込み、鋭利な牙が突き立つ。が、所詮その程度だ。霊気を纏った颯馬の腕には傷がつくことはない。どれだけ筋力がある生物であろうと、鉄板よりも硬い物体は噛み砕けない。
「よーしよっーーーーシッ!」
颯馬は噛みつかれた左の手首で、牙を突き立てる熊の頭部ごと熊の重量が乗った衝撃を受け切る。
その上で、更に左腕を押し込むように熊の下顎を口の中から押さえ込むと同時に、颯馬は軽く跳躍する。
そして、右の膝を熊の下顎に叩きつけるように上方に打ち抜いた。左腕で頭部を押さえ込んだ上での、空中飛び膝蹴りである。
ゴッという低く鋭い打撃音と共に、熊の頭部がフワリと浮いた。
肉と骨を打ち抜く感覚を左の腕と右の膝の両方で感じていた。左腕の拘束は、下顎を打ち抜いたことで自然と外れ、空中に解放される。
颯馬にとって不可解なのは、ヒグマがこの場に現れていることだけではない。
そもそも、この熊は怪異だ。生きている熊ではない。怨念や後悔の、負の思念の集合体である。
それがこうして颯馬を襲い、爪や牙を突き立て、且つ颯馬の膝を受けてよろめいている。霊気を帯びた祓魔師との徒手格闘とはいえ、怪異がすでに実体を持つ熊の形に顕在化しているということは、すでに怪異として一定の段階を超えて、存在が固定化されていることに他ならなかった。
ただ通常、熊に限らず人間以外の動物はそれ単体では容易に怪異化しない。
野生動物に憎悪や怨念といった感情があるのかどうかまでは颯馬にはわからないが、事実として、動物霊の存在は数多あれどその総数は野生動物全体の死亡数に比すると微々たる数だろう。人間に比べて高度な思考・観念を持たない動物は、そもそも怪異という存在に変化しない。生存競争に負けた個体は通常であれば、そのまま無に帰るのだ。それは祓魔師の世界ではごく一般的な認識だ。で、あれば目の前の存在は何だ。と颯馬は自問自答する。
動物霊の多くは、生前の個体が自然発生的に怪異化したものはほぼなく、人為的か、あるいは作為性の有無に関わらず何かしらの理由で人間が関わっている。
熊の頭部が空中に浮いているコンマ数秒の中で、颯馬は一度地面に着地する。
そして、間髪入れずに右脚を軸に時計回りに腰を捻り上げる。左脚が遠心力を得て加速し、そのまま颯馬の目線の上にある熊の頸部を左側面から刈り取るように蹴り上げた。左上段回し蹴りである。肉と骨を叩く打撃音が響くが、颯馬にとってこの攻撃は予備動作だ。
足を高く蹴り上げた勢いのまま、颯馬の体は天地が逆転し、頭が地面の方へと入れ替わる。
「どっこい――」
そのまま右上方向へ吹き飛ぶ熊の頭部を、颯馬の右脚が追いかけ、遅れて追い付いてきた左脚と共に捕縛した。
熊の頸部を颯馬の両足で挟み込む形、ちょうど颯馬の両の膝の裏で熊の首を鋏で断ち切る動作に近い形で飛び付いている。総合格闘技における飛びつき十字固めの腕を極めない形とでも表現すべきか。
空中で熊の頸部に蛇のように纏わり付いた颯馬は、体が天地逆転した状態で、一気に腹筋と背筋に力を込める。体勢を崩していた熊の体が、颯馬の動きに伴って天地が逆さまに回転する。
「セイッ――ッヤ!!」
そのまま2mを優に越す巨体を、両足と体幹の筋力で山の斜面下に投げ飛ばした。
熊の驚愕の雄叫びと共に、巨体が地面に叩き付けられるゴシャッという音が続き、そのままゴッゴッと鈍い音が遠ざかっていく。
毛むくじゃらの巨大な黒い塊が、斜面の倒木や細技を薙ぎ倒してゴロゴロと転がり落ちていった。
再度天地を逆転させて足から着地した颯馬は、その姿を横目に見て、すぐに右手の感触の違和感に気づいた。
「……あ」
右手のアルミホイルの中身が空だ。中にあるはずの、食いかけのおにぎりがない。
颯馬は急いであたりを見回すと、ちょうど熊が転がり落ちていった斜面を、追いかけるように颯馬のかじった跡が白い断面として見えているおにぎりが、熊と同じように斜面を転がり落ちている所であった。
「あぁ……もったいねぇ」
流石に、颯馬でもあれはもう拾い上げて食おうとは思えない。ゴロゴロと転がったおにぎりはしっとりと濡れた海苔や断面の白米部分に枯れ葉や腐葉土をべったりと纏わり付かせているだろう。非常に残念だが、諦めるしかない。こうなってしまっては何のために、右手を塞いで足技のみで対応したのかわからない。
握ってもらった紗代子に申し訳ない、と颯馬は一人自省する。こんなことで紗代子が怒ったりはしないだろうが、食べ物を粗末にしてしまった日本人的罪悪感で妙に居心地が悪くなっていた。
颯馬がおにぎりが転がり落ちるのを指を咥えて眺めていると、ちょうどおにぎりは颯馬の眼下10mほど下方で黒い塊に当たって止まった。
そこには興奮し荒い息遣いをあげて、全身の毛を逆立てている熊がいた。カフッカフっとも聞こえる荒い息遣いの中に地鳴りのような低い呻き声をあげて、上方の颯馬を見据えている。実に恐ろしげな佇まいだと思った。
勿論、颯馬とて先程の格闘で決着が着くとは考えていない。下顎への跳び膝蹴りも、頸部へ上段回し蹴りも霊気を込めた打撃であるため相応のダメージは入っているだろうが、あの巨躯を形成する怪異の呪力の総量を考えるとこんなものでは祓えないだろう。
「まだ、やるか?」
『――カッ――フッ――』
「悪いが、手加減はしてやれない」
ポツリと颯馬は呟く。回答を期待しての問いかけではない。
熊を下方に見下ろし、颯馬は自由になった右手を腰に佩いた太刀の柄に置く。そして、そのまま左手を鞘元に添えながら、鯉口を切った。
ゆっくりと鞘から刀身が抜き放たれ、刃が颯馬の眼前に静かに躍り出た。質素で飾りげの無い太刀だ。日本に数多ある刀の中ではやや長い部類に入るが、太刀の中では平均的な刃渡り(刀の長さ)になるだろう。反りは強く、腰反りの姿は古風な姿をしていると言える。
しかし、異形なのはその刀身の存在感だ。一般的な太刀と比べても、身幅(刀身の幅)が広い。且つ重ね(刀身の厚さ)も厚く、分厚い重量感のある太刀だ。加えて、刀身の軽量化を図るための樋(刀身に掘られる溝)も無い。厚く重く無骨な印象の刀身には、鍔に近い根元に申し訳程度に鉾に巻き付く龍の紋様と、その裏には梵字が彫られている。
女子供はおろか、華奢な男性であれば両手で構えるだけでも一苦労である剛刀を、颯馬は右手で緩やかに構える。そして、怪異を祓う霊気を刀身に流し込んだ。
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」
呟くように、颯馬は真言を唱える。
真言の意味は正直颯馬はよく知らない。それは颯馬にとっては一連の作法のような言葉であり、九浅寺の一族の中での戦闘技術の継承と発展の中で代々洗練されてきた退魔の技法だ。
『多聞刀八』は刀身に流し込む霊気を独自の技法で練り上げ、対魔戦闘での威力を極限まで引き上げる。
颯馬にとっては慣れた動作で、練り上げられた霊気を帯びた太刀を片手で構えた。
眼下で自分を威嚇する熊には何の思い入れも無いが、ここで始末をつけるのが颯馬の仕事である。この地域に怪異として出現してしまった時点で颯馬と熊の形をした怪異はお互いが相入れぬ存在でしかなかった。ここで刃を抜くことに、感情の機微はなかった。
『なんで?』
無垢な声だった。
颯馬は太刀を上段に振りかぶるのを、止める。眼下の熊からだ。
未だに荒い呼吸で興奮状態にある熊から、鈴のように響く高い人の声がした。
『なんで? ねぇなんで?』
鼻先を頭上の颯馬に向けて、四足で身構える熊が澄んだ瞳でこちらを見ていた。
思考を一瞬寸断された颯馬は、しかし、すぐさまその思考を取り戻し、そして静かに一人納得した。
「……熊がしゃべった」
『――カッ――カフッ――なん、で――ねぇ?』
「そうか……お前は人を喰った熊か」