ずぶ濡れテディ②
腹の虫を鳴らしながら颯馬は山道を歩く。どうせ叔父の言っていた怪異の情報は大まかな位置情報しかないのだ。適当に歩きながら違和感を探索するしかやることはない。
とはいえ颯馬も仕事環境に対して色々と工夫している。仕事中に小腹が空いたのであれば、その間に食べられる携帯食料を用意すればいいだけの話である。もちろん今日もそのための用意をしている。
今回の仕事は事前に想定できない突発的な仕事の類だが、その突発の仕事は割と良くある頻度で回される。同業の祓魔師の中では高校に通っているという理由で長期的な仕事を回されない颯馬個人の特殊性もあって、逆に突発的に起きる緊急性の高い仕事が発生した時に叔父の手元で手が空いている存在になりやすいようなのだ。この周辺地域で日中起きた比較的急ぎの仕事を放課後に颯馬が対応する事が昨今の日常とも言えるようになっていた。
颯馬は小脇のスポーツバッグの口を開き、中に手を差し込む。
そして傾斜が険しくなってきた山道から視線を外す事なく手探りでバッグの中から目当てのものを引き出した。
引き出したのは拳よりやや大きい丸い銀色の包みだ。アルミホイルである。そしてアルミホイルの端を手探りで探し出すと、包みを片手で持ちながらその端の部分を器用に噛んで、包みを解いた。その中からは黒く丸い物体が包まれている。颯馬は躊躇する事なくその黒い物体にかぶりついた。
「……ツナマヨか」
引き当てたのはツナマヨおにぎりだ。颯馬の好物ランキングの中でも比較的上位の具である。
拳より大きい白米の塊の中心にはシーチキンとマヨネーズが和えられた手製のツナマヨがたっぷりと据えられている。和風だしが含まれているのか、旨味が更に加わってニクい仕様になっている。三角形のおにぎりではなく歪な楕円形になっているそれは周りを味付け海苔で覆った後にアルミホイルで包まれている特製手作りおにぎりだ。この白米の水分を含んでしっとりした味付け海苔とその塩気が絶妙でたまらない。
登校の前に8個持っていたおにぎりも、これを入れて残り3つである。
朝食と昼飯との間に3つ消費する。それからその日の授業の終わりまでの間に2つ消費して、下校から夕食の前までに残りの3つで保たせるのだが、この3つを消費する間に、突発の仕事を処理してから帰宅することがままあった。
この仕事というのがその内容によっては簡単なものから、今日のように割と遠くまで足を運ぶ必要のある仕事まで多種多様なのが辛い所だ。3つで腹が保つ時もあれば、帰りが日を跨ぐような時間になれば3つ程度では足りなくなる時もある。
内心では9個にして欲しいという気持ちもあるのだが、とはいえこれ以上作って貰うのは流石に大変だろう。
九浅寺家の家事手伝い……昔でいう所の女中、西洋でいう所のメイドさんに当たる紗代子さんという女性に毎日朝夕の食事と間食のおにぎりを作って貰っているが、流石にこれ以上は他の仕事もある中で颯馬の気が引ける。紗代子さんはマメなのか、毎日おにぎりの具を最低でも2種は作ってくれるのでそれなりに手間もかかっている事だろう、というのはあくまでも家事スキルの無い颯馬の予想でしかないが。
ちなみにおにぎりの具は毎日リクエストしていては面倒なので完全に紗代子さんにお任せしている。
基本的に全て味付け海苔で真っ黒に覆われているのでどの具が入っているかは中央までかぶりついてみなければわからないランダム仕様になっているのだが、どの具材であっても全て例外なく美味いので、そのあたり颯馬は全く気にしなくなってしまっていた。
今日はツナマヨとおかかの2種の日だ。ちなみに颯馬が特に好きだったのが、しぐれ煮か佃煮風だかの味付けの肉が詰まっていた奴だ。甘辛く味付けしてあった肉は冷めていても肉の旨味を充分に感じて、その煮汁が白米に染み込んで――――――
――――呪力が濃くなったのを感じた。
颯馬は呪力を匂いに似た感覚で知覚する。通常の空間では霊力と呪力は大気の中に僅かに含まれながら、それぞれが混ざり合うことなく存在する。しかし、怪異のような異形がいる空間はその周囲の呪力が濃くなり、対して祓魔師のような霊的な能力を有する存在がいれば相対的に霊力が濃くなる。
ほぼ例外なく大気中の呪力が濃くなるのは怪異が現れる前兆と言っていい。
そしてその呪力の増幅を感じるのと、颯馬の左側面に猛烈な速度で何かの物体が一直線に飛び込んでくるのを知覚するのはほぼ同時だった。
音は無い。颯馬から見てやや上に位置するの傾斜部の山頂側から、颯馬の左側面やや後方にかけての位置に、自動車ほどの大きさの物体が凄まじい勢いで迫るのを感じた。
強襲だ。ほぼ完璧な形の奇襲と言って良い。時間にして1秒に満たない。
「ふっ!」
颯馬は瞬時に息を吐き、丹田に力を込める。
そして、反射的に腰を落とす動きで重心を移動し、右方向へ踏み出すように体ごと上半身、特に首と顔面をスライドさせる。
丁度颯馬の顔面があった場所に、ほぼ同時、刹那と言っていい時間で入れ替わるようにバネのように弾かれた何かが空中を駆け抜ける。
颯馬は視界の端でそれを捉えながら、死に体にならぬよう正中線に沿って下半身を鞭のようにしならせて体勢を戻す動作に移る。
顔面に向けて駆け抜けたのは爪だ。
巨大な鋭い5本の爪と丸太のような太さの腕が颯馬の頬を掠め、空間を切り裂いた。黒い塊のような腕は、全体を濃く太い焦茶色の毛に覆われている。獣の腕だ。腕の先の5本の爪は鉤爪と表現するのがまさしく適切だった。内側に抉り込むように鋭く螺旋を描いている。
初撃を凌いだ。しかし、飛び込んできた黒い物体はその全体を減速させることなく大きな塊となって颯馬に衝突しようとしていた。
右側に踏み出した半身と右足を軸に、颯馬は平面方向に回転する。まるで社交ダンスのようにも見えただろう。上半身の軸をブラさずに重心を平行移動させながら下半身をひねり、衝突する黒い塊の加速直線上の軸から離脱する。
強襲を受けている相手に背中を晒しながらも、その背中で猛烈な速度の物体を受け流すように衝撃を逃す。
背中から首にかけての範囲に、硬く太い体毛の感覚が生々しく伝わる。
それに濃い呪力の匂い。軽自動車ほどの大きな体躯は、その内部に猛々しい筋肉を内包しているのが感じられた。
弾かれるように颯馬と黒い塊が交錯し、颯馬はそのままの勢いで360度平面的に回転する。猛烈な速度で衝突しようとしていた塊は、その勢いを完全に殺し切れるはずもなく、そのまま颯馬の前方へ射出された。
ゴゥという巨体が風を切る轟音と同時に、颯馬は体勢を立て直す。
黒に近い濃い茶色の体毛。2〜3mはありそうな体長と四足の太い手足。四足の状態でも颯馬の胸の高さまでありそうな胴体に短い首。そして、その体躯に比べれば相対的に小さな頭部には肉食の獣に共通して見られる狩に特化した強靭な牙が覗かれていた。
熊。日本に限らず世界的に見ても最大級の大型肉食哺乳類。陸上での最強生物の一角。
しかも、目の前の存在は濃密な呪力を全身に纏っていた。命ある生物の匂いではない。強い怨念を核に、怨嗟が形を成し物理的な存在の壁すらも凌駕した怨みの集合体。熊の姿形で顕在化した怪異だ。
「叔父貴の言っていた化け物というのは、お前か?」
熊の化け物はまだ止まらない。加速の付いた衝撃力を四足で無理矢理に殺し切ると、そのまま反転追撃のために身を躍らせていた。
ヴォとも聞こえる、低い唸り声を聞きながら、熊の動きに合わせるように、颯馬も右足をやや前に出しながら腰を落として徒手格闘の体勢をとる。太刀の間合いには近すぎる。何より、まだ右手にはアルミホイルに包まれたおにぎりを持っていた。
視界の端で、颯馬は自分の右手にあるものを確認して安堵する。良かった、おにぎりは無事だ。