09. どうして花嫁はわたくしだったのでしょうか
私、エムリーヌ・ホルベインがレンブラント館へ参りまして5日目。
未だ結婚相手であるモリス・クリストフ・ジャン・マリー・レンブラント伯爵とはお目通りが叶いませんが、今日も元気に朝食をいただき、家令リヨンによるスパルタ式貴婦人養成集中講義を受けております。
名ばかりの貧乏貴族の娘が、高級貴族である伯爵家の令夫人になるためには、途方もない努力がいるのだと身に染みて実感しておりますの。
糸紡ぎだの機織りだとか、蠟燭やせっけんなどの生活必需品の製造などについては、ホルベインの家でも行ってきたことですので特別に教わることもない(むしろその辺の下女より上手に作れる自信もありましてよ!)のですが、教養面に関しては心許無いことも多く、家令リヨンの指導を受け日夜まい進中。
本日も朝食が済んだら、書斎で地理の講義です。
「本日は、主に、レンブラント領のことについてお話いたしましょう。ご自分の領地のことですから、きっちりと頭に叩き込んでおいてくださいね」
リヨンに発破をかけられずとも、これがわかっておらねば領内管理などできませんから、自ずと気合も入ろうというものですわ。その上彼の講義は大層わかりやすく、また面白かったものですから、私も夢中になって聞き入っておりました。
結局この日は昼食を挟んで、丸一日領内の地理や産業・経済状況などの勉強となったのですが、知らない土地のことを知るのはとても興味深く、飽きることなどありませんでした。
レンブラント館の周辺の地形や村々のことから始まり、領内を流れるロディー川、イゴール川の河川形態や特徴。領都アピガの産業や、人々の暮らし。ロデア大海に開けた良港である大きな街ペンデルの貿易港としての役割。領内を走る街道のこと。等々。
通り一遍の知識としてだけではなく、質問をすれば専門的なことも、リヨンは丁寧に教えてくれます。いいえ、むしろ私が興味を持って、あれこれ尋ねるのが面白いと感じている風にも思えました。
そのうち口頭の説明だけでは追い付かなくなり、机の上に地図を広げ、絵師の描いたその地の風景や街並みのスケッチ画なども並べての講義となりました。ですから知らない場所でもイメージが掴みやすく、想像力のありったけをフル活用して、リヨンとふたりで南ターレンヌ地方を旅した気分になったのです。
「でもやはり自分の目で確かめたいわ。いつか領内を視察して回りたい。私、帆船に乗って大海原を渡ってみたいの」
「エムリーヌ様のご希望は、伝えておきましょう。伯爵様はご自分の船をお持ちですから、きっと乗せてくださいますよ」
伯爵さまは、ガレオン船を所持しているのですって!
「うれしい! それなら、それまで無事でいなくっちゃ」
「エムリーヌ様は、変なことをおっしゃいますね。それではまるで命の危険があるように聞こえますよ」
「あ、あら。いやだわ、もっと言葉を選んだほうがよろしかったかしら。その時はリヨンも一緒に参りましょうね」
「はい、そうですね」
なぜかしら。それまでどんな質問にも明快に答えていたリヨンの返答が、そこだけ歯切れ悪く感じたのです。ほんの少しだけ、ですが。
そうか、領主の夫人と巡るよりも恋人と一緒の方が良いわよね。彼にだって想う人がいるのでしょう。
そこに気づかなかった自分の軽率さを誤魔化すように、多少強引に話を変えることにしました。
「ねえ、リヨン。伯爵様は、どうして私との結婚に合意なさったのか、そのお考えの真意を知っている?」
机の上に散らばっていたスケッチ画を片付けていたリヨンの手が、一瞬だけ止まりました。まばたきにも満たない、ほんの、ほんの少しだけ。
普通の人間だったら、見逃してしまうであろうくらいの間でしたけれど。
「いいえ」
そう答えた時には、もう平静を取り戻して、手早く紙の束をまとめておりました。
「だって、私、伯爵様の寄子の家の娘でもなければ、これまでこちらのお家とは何のご縁もなかったでしょう。私があずかり知らない上位者の間でお取り決めがあったのだと思うのだけれど、伯爵様がお嫌ならば貧乏男爵の娘なんて断わることもできたと思うのよ」
「お断りにならなかったのですから、エムリーヌ様のことがお気に召されたのでは?
ああ、お偉いさんはいけません。せめてお歴々、とおっしゃってください」
はぁい。
「これまでは無縁であろうとも、どんな思惑が絡んでいようとも、それもご縁ですから。大事になさろうと思われたのではないのでしょうか」
本当に?
私が噂で聴いた伯爵さま像は、そんな方ではありませんでしたけれど。
ちなみに先ほど私が口にした「寄子」という言葉ですが、領主は領地を効率よく支配するため、全ての家臣を直接支配することはしません。家臣に寄親・寄子という上下関係を作らせ、寄親に寄子の管理を任せているのです。この家臣の間の上下関係のことを、寄親・寄子制と申します。主従関係を疑似的な親子関係と見立てて、この名が付いたようです。(たぶん)
組織では上下関係がはっきりしないと、上司の命令が部下に伝わらなかったり、部下が命令を無視することが起きたりと、歯車が噛み合わなくなったりすることもあります。そこで領主と家臣という関係とはまた別に、家臣の間でもはっきりとした上下関係を構成させるのです。
寄親は領主と血縁関係にあったり、大きな功績を立てて領主から取り立てられたりしたお家で、寄子はその寄親と主従関係を結んだ下級貴族や平民の豪族など。寄子は、寄親に対して軍役や納税の義務を負い、その見返りとして寄親は寄子の日々の生活を保障するのです。この関係は地域社会における結束を強化し、また国王陛下以下の家臣団の忠誠心を育む要因にもなっているのでした。
とはいえ。寄親によっては、上下関係を笠に着て、ときに寄子に無理難題を押し付けてくることもありますが。ホントに、もう!
「ホルベイン男爵家の寄親は、ジョリイ伯爵家。そのジョリイ伯爵家の寄親は、ヨラ侯爵でしたわよね。小耳に挟んだお話では、ヨラ侯爵家とレンブラント伯爵家の仲は良好とは言い難いとか。そのヨラ侯爵家の寄子の、そのまた寄子であるホルベイン男爵家の娘なんて、伯爵様がお目に留める機会も必要もないでしょう。
縁談を持ち掛けたというのなら、おそらく侯爵様あたりからだと想像するのですが。仲の良くもないお家から持ち掛けられた、格下の下の貧乏男爵家の娘との縁談話なんて、嫌がらせだと考えるんじゃありません?
もう、どうにも納得できなくって……」
リヨンは私の顔を見て口の端を吊り上げる笑い方をすると、
「それは、伯爵様にお尋ねになられたらよろしいかと」
そう言って軽く頭を下げましたが、ちょっと態度が傲慢じゃありませんこと。
第一、その伯爵様にお目通りスルーされているのですのよ! 花嫁なのに!
「エムこん」にご来訪、ありがとうございます。
作中の「寄親・寄子制度」は、戦国時代に実際にあった制度を基にしています。かみ砕いた説明ではありますが、後々重要な伏線となってきますので、ちらっと覚えておいてください。





