32. 口紅の秘密はナイショです
モリスの姿が見えなくなると、途端に寂しくなりました。六月の南ターレンヌ地方のまぶしい景色も、急に色褪せてしまったくらいに。
しばらくお姿の消えた方向をぼんやり見つめていたのですが、頃合いを見計らってそっとマルゴが声を掛けてきました。
「お名残惜しいとは思いますが、子供たちが待っております。お戻りにならないと」
そうでした。ボケッとしてなどいられません。私には、私の仕事があるのですもの。
頬の筋肉を叱咤して笑顔を作り、元気よく振り返ります。
「参りましょう!」
私にはレンブラント伯爵夫人としての、大切なお役目が待っているのです。
私が暗い顔をしていてはいけません。みんなが不安になります。
勇気を頂けるように、モリスにいただいたネックレスの白い珠に、そっと指先で触れてみました。
どころで、どうして伯爵様は農機具小屋にいらしたのでしょう。
仮にも、ご自分の屋敷ですよ。立派なお部屋がたくさんあるのですし、誰に遠慮することもないと思うのですが? と、戻る道すがらコルワートに質問してみましたら――。
「あー。俺が案内したんですよ。昼餐の支度が終わった頃、突然勝手口に伯爵様が現われて、誰にも知られずに奥方様に会いたいって仰るもんですから、下女のネルと相談してそれじゃあ……って。
現在館の中と外は、傭兵隊の出立の準備と子供たちを招いての昼餐会の準備で、隊士や使用人たちが右往左往してんじゃないですか。館内に足を踏み入れようとした途端、誰かに見つかっちまいそうでしょう」
ええ、ええ。それは否めませんけど。
でもね、コルワート。それなら、もう少し気を利かせてくれたら好かったと思うの。
ふたりっきりで会えるのなら、もっとロマンティックな場所が良かったのよぉぉ!
薔薇園の中央には素敵なガゼボだってある(すぐに見つかりそうですが)のだし、西の庭園の先にはロディー川を見渡せる展望台だってありました(距離があるから、あそこまでドレス姿で走るのは無理だわ!)よね。
中庭の噴水の見えるベンチ(あの辺は隊士たちがいたわね)とか、南の森に繋がる野原(先日芦毛のデビィと爆走した場所ですが、子供たちを乗せた馬車と鉢合わせする可能性大か!)とか、ロケーションのいい場所ならいっぱいありましたわよね。
屋外がダメなら図書室とか、伯爵様の執務室とか寝室なら誰も邪魔しな(あ、それはそれでヤバかったかも)……――。
せっかくの逢瀬でしたのに。
隠密の仕事の打ち合わせじゃ、ありませんのよ。
お・う・せ、です。
だって、カナシイではありませんか。モリスと初めてのキスした場所が農機具小屋だったなんて。
乙女のわがままとしては、もう少し映えの好いところが良かったですわ。吟遊詩人の語る恋物語のようにとまでは言わないけれど、それでも、もうちょっと甘いロマンを求めてはいけませんかぁぁ~。
ようやく――そう、ようやくですのよ!
モリスと親密な時間を持てたというのに、それが……。それが……――。
「ええっ、ダメでしたか? あの場所は、館の使用人や騎士隊傭兵隊の連中が逢い引きするときに、よく使っているんですよ。菜園の先にある小屋なんて、用事のある者しか立ち寄りませんからねぇ。余程のことでもない限り、邪魔は入りませんって。
伯爵様も小屋のもうひとつの使い道はご存じで、黙認なさっておいでだから、案内したら『自分も利用することになろうとは』と苦笑いしていらっしゃいましたっけ」
いましたっけ……、ではありません。
あっはっはー、とか笑わない。もおぉぉぉ! コルワートったら。
料理人の珍案に乗るモリスもモリスですが、だからって、なにもこの館の当主様を農機具小屋に案内しなくたっていいではありませんか。ぷんすか!
「それに、あそこからならロディー川沿いに西へ走ってイロット橋を渡れば、すぐに街道に出られますしね。絶好の場所だと思ったんですけどねぇ……」
ウウ……。今回ばかりは、微妙に、相談する相手を誤ったような気がいたしますわ、モリス。
来たときと反対に厨房脇の勝手口から旧館に入り、心持ち早足(貴婦人は走らない!)で玄関へと歩いていると、リネン室の前でペラジィが待っていました。
「あら、どうしたの?」
「奥方様、少しこちらへ」
リネン室の中へと誘います。いえ、半ば強制的に入室させられたのですけど。
「ペラジィ、私は急いで……」
「はい。承知しております」
中にはロラも控えていて、私とマルゴが入室したらドアを閉めてしまいました。付いてきたコルワートは締め出しです。
「ロラ、御髪のカールを直して」
「マルゴ、あなたは襟を。スカートに泥がはねていないかも、忘れずにチェックしてちょうだい」
ペラジィがテキパキと指示を与え、ふたりがそれに従い私の身なりを整え直していきます。
……っていうか。
走ったから、あちこち着崩れたり、髪もくしゃくしゃになってしまったのでしょう。せっかく彼女たちが美しく整えてくれたのに、申し訳なく思います。
でも、コルワートが急げと言うから。伯爵様がお待ちでしたから。
「つかの間でしたが、ご対面が叶いまして、よろしゅうございましたね。エムリーヌ様の強い思いが、伯爵様に届いたのでしょう。
あら……まあ! まあまあ。
うふふ、伯爵様も、奥様にお会いできたのが余程嬉しかったのですね」
含み笑いと共に、ペラジィが用意してあった化粧道具の入った箱を開けました。
「あ、ちょっと動かないでくださいまし。紅を差し直しましょう」
その言葉を聞いて「きゃ」っと小さな嬌声を上げる、ロラ。
なんのことなのか意味がわからず、首を傾げるマルゴ。
私はといえば、――顔から湯気が出ました。
さすが既婚者、ペラジィ。
口紅が落ちているのを観て、伯爵様と私がイチャコラしていたの、想像がついちゃったみたいです。
穴があったら入りたいとか言いますが、今から穴を掘ってでも飛び込みたい気分です。農機具小屋から、鍬を持ってくれば良かったかしら。
あー、恥ずかしいよゥ!
ご来訪ありがとうございます。
これにて一旦お砂糖回は終了。
ドニたちと楽しい昼餐会が始まります。が――!?
次回もお楽しみに。





