天使を盗んだ男
一人の少女が窓辺のベッドに腰かけて外を見ていた。やがて、少女の待っていた人が窓の外側から顔を出した。それは赤髪の青年だった。
「こんちはエリーさん。今日も相変わらずお美しいこって」
「ハンクスさん、今日はどんな話をしてくださるの?」
少女は尋ねた。
「今日はねおれが船乗りだったころに見た、恐ろしかったものの話をしよう」
「ぜひ聞いてみたいわ」
「ではお話することにして。おれはその時、太平洋を渡って次の島を目指して航海していたんだ。そうしたら突然船が大きく揺れてね。波が高くなってきたのかな、と思ったんだが波はいたって穏やか、天気も晴天と来ている。気のせいかな、と思ったらまた船が大きく揺れた。ついでに船底がぎしぎしいう音も聞こえてきた。これはただごとじゃないぞと思っておれは仲間たちと一緒に海面を見たんだ。すると何か、海の中にでかい陰があるのが見える。おれは、これは何かあるぞと思ってもりを一本持ってくると、陰をつついてみたんだ。そうしたらさ、吸盤がびっしりついたでっかい触手がもりに巻き付いてきたんだよ! そのでかさときたら、丸太のようだったさ」
「ええ!」
「驚くだろ? おれもびっくりしたよ。でももっと怖いのはこのあとでね、そのでっかい触手がものすごい力でおれのもりを引っ張ったんだ。それでおれもろとも海に引っ張り込まれそうになったんだ。でももりを失くしたら船長に怒られる。だから意地でふんばったね。それからおれは叫んだんだ、お酢を持ってきてくれって」
「お酢? どうして?」
「触手のある生物っていうのは、お酢をかけられると弱るのさ。それで仲間の船乗りがお酢を持ってきてくれて、おれが言うとそれを触手にかけてくれた。そうしたら、触手の引っ張る力がゆるんでね、そうかと思ったら海のなかへ消えていったよ。そしたら船のぎしぎしいう音もなくなって、船も揺れなくなったってわけだ」
「すごいお話ね。そんなものが海にいるなんて恐ろしいわ」
「でも海はとても楽しいところでもあるんだぜ。この前話した、空にかかる七色の織物の話を覚えてるだろ?」
「ええ、あれはロマンチックだったわ。一度この目で見てみたい。ああ、わたしも外に出られたらな」
「そうだな。君のお父さんは相変わらずここから出してくれないのかい?」
「ダメだって。悪い人にさらわれるから外に出るのは危ないって」
「そう思うんなら、外に出さないんじゃなくて、百人くらい護衛をつけて外に出してやったらいいのにな。そうしたら安全じゃないか」
「だめよ。そうしたらわたしが前から行ってみたいと思ってたカフェに行けないわ」
「なるほど、それもそうだ」
「ねえ、ハンクスさん、外の世界ってどんなかんじなの?」
「どんなかんじって、すごく広いところだよ。楽しいこともいっぱいあるし。そのぶん大変なこともたくさんあるけど」
「大変なことなら、この狭い家の中にもたくさんあるわ」
「それじゃ外のほうがずっと楽だな」
その時、家の奥から大きな声が響いてきた。
「もう行かないと」
「おう、じゃあまたね」
「ええ、また明日もきてちょうだいね」
ハンクスは手を振ってエリーに別れを告げた。それからハンクスは茂みに隠しておいた変装セットを取り出した。灰色のローブをまとい、大きな箱を背負うと、ハンクスは薬売りに変身した。その格好でハンクスは門へ向かった。
門番は薬売りに扮したハンクスを見てもなんとも思わなかった。こんな腰の曲がった、よぼよぼした足取りの男の正体が年若い青年のハンクスだとは思わなかったからだ。門番たちは主人から、毎日娘にちょっかいをかけにくるハンクスを見つけたら追い出すように言われていたものの、見事にスルーしてしまっていた。
「エリー、お前の結婚相手が決まったぞ」
「結婚……」
「お前のところに悪い虫がしょっちゅうやってくるのをどうにかするには身を固めるのが一番だからな。それにお前もそろそろ結婚するべき年頃だ」
「しかしそんな、どんな相手かもわかりませんのにいきなり結婚と言われても」
「大丈夫だ。相手は貴族の息子でな、血筋も富も確かな相手だ。それにお前が貴族と結婚したとなれば親戚に貴族ができることになる。それはわが一族にとっても大変名誉なことだ」
「しかし顔も知らない相手となんて結婚したくありません」
「結婚する前に一度、お見合いする機会を設けるから、それでよいだろう」
「そのあとに結婚するかどうか決めればいいということですか?」
父親は眉をピクリと動かした。
「結婚はすでに決まったことだ。向こうの親御さんとも話が付いている。なんでもお前の噂も聞いておるそうでな、天使のように美しいと言われるお前と結婚できると聞いてうれしいとあちらの息子さんがいっておられたそうだ。今更その期待を裏切れるわけがないだろ?」
「でも、わたし、結婚したくありません」
「まさか、あのドブネズミのことを考えているのか? あいつと結ばれたいと考えているのか?」
エリーは何も言わなかった。
「この家にいる限り、そんなことは許さんぞ。第一身分が違いすぎる。あいつは薄汚い、下層階級の浮浪者だ」
「でも、面白い話をたくさんしてくださるんです」
「話だけで飯が食っていけるものか。あんな男のことは忘れろ。少なくとも、この家にいる限りはわたしの決めた相手以外との結婚は許さん」
そう言って父親は部屋を出ていき、話は終わった。
エリーは自分の無力さに打ちひしがれた。この家の中にいる限り、父の言うこと以外は何もできないのだ。そして結婚をすれば、今度は貴族の息子が父親の代わりになってエリーを虐げるのだろう。エリーはこの先の未来のどこにも明るい面を見出すことができなかった。
「結婚、するんだってね」
窓のほうからハンクスの声が聞こえた。エリーは振り向いた。ハンクスはいつからそこにいたのか、窓の外に立っていた。おそらく、少し前から来ていたのだが父親の声を聞きつけて息をひそめて話を聞いていたのだろう。
「でもまだ、してないわ」
「でもこのままだといずれそうなる」
「わたし、いやだわ。自分で決めてもいない相手と結婚するなんて」
「それは当然だよ。そんなの、誰だっていやになる」
「どうしたらいいの……」
エリーは尋ねるともなくその問いを口にした。希望の光を失ったエリーの心が発した嘆きのようなものだった。
「俺と一緒に、来てくれないか?」
エリーは顔を上げた。
「ここに来たのはそのためなんだ。町で君が結婚するって話を聞いてすぐここに駆け付けたんだ。君さえよければ、あと俺なんかでよければ、一緒にここから逃げ出そう。俺はお金持ちじゃないし、上品と言えるような人間でもないけど、君をちゃんと食わせていくくらいのことはできる。それに逃げる算段もすでにつけてある。だから、俺と一緒に来てくれ」
それを聞いたエリーはためらうことなく窓を開けた。




