粛清の足音
本間が校舎からでると、校門の前で黒いセダンの高級車が待ち構えていた。車の前には、二十代後半のきりっとした青年が立っている。黒いスーツに青いネクタイ。背は百八十ほど。髪は必要以上にワックスでかためられ、顔は緊張をはりつけたような表情だ。
「前田くん」と、本間は右手をあげた。前田は頭をさげ、すぐに車の後部座席のドアを開ける。礼も言わず、本間は当たり前のように開けられたドアに誘われ、後部座席に腰を下ろした。
「前田くん、隣に座りなさい」
ドアをしめようとした前田に、左側の席を指差して本間はそう言った。
「はい」と短く返事をし、前田はまた礼をしてからドアを閉じる。
「一度、自宅へ帰ってくれ」
本間にそう告げられ、運転手は「はい」と短く返事をした。ガチャっと扉が開く音がし、前田が「失礼します」とはきはきとした口調でことわり、本間の隣に腰を下ろす。
「出しなさい」
前田がシートベルトをするのを確認してから、本間は運転手にそっけなく命じた。車は、ゆっくりと動き出す。
「前田くん」と、本間は窓の外を見ながら呼んだ。
「はい」
前田は滑舌よく返事をする。
「あの高校の学園祭で、ある劇をするらしい」
「劇ですか?」
窓に本間のうすら笑いがうつっている。
「その台本をどうにか手に入れて欲しい」
「はい?」
前田は三年ほど本間の秘書をやっている。様々な無茶な要求を受けてきたが、今回は異色だ。学園祭の劇の台本? 公安委員長である本間にとって、それがどんな意味をなすというのか。
「カインの劇らしいんだよ」
その言葉に、前田の表情がかわる。太い眉をぐっとあげ、目を見開いた。
「カイン、ですか?」
「それも」と本間は前田に振り返る。「劇のカインは、悪い人に売られた女の子を助けるそうだ」
「!」
前田は息をのんだ。そんな馬鹿な、と声をあげそうになる。表で語られるカインは、裏世界で殺し屋として育てられた少年少女。それだけのはずだ。今まで、カインをヒーローとして語るような声は聞いたことがない。いや、そうならないようにしてきたのは自分たちだ。カインの真実を知る者は表から排除してきた。一言でもそんな声を聞いたならば、即座に手を打ってきたのだ。そして、代わりにカインはただの悪者だ、という噂を流してきた。
それをぶち壊すような劇をするとは、怖いもの知らず以外の何者でもない。いや、それより……そういう劇をしようとする意志が問題だ。
「よくない。非常によくない」
本間は、あやしげな笑みをうかべて顔を左右にふった。
「どうなさるおつもりですか?」
「内容によっては……粛清も、あるいは必要かもしれないね。
いい見せしめにもなるだろう」
前田はハッとした。粛清……それは大げさにも聞こえるが、この人物ならそれだけのことをやりかねない。三年傍にいた前田には分かる。
「しかし、高校の学園祭です。そこまでなさらなくても。まだ子供 ですよ」
そう言ったときだった。本間は恐ろしい剣幕で前田を睨みつける。
「子供 だからだ! その理由はわかっているだろう」
前田は慌てて頭を下げる。
「し、失礼しました」
だが、その声は本間の耳にははいっていない。本間の心に憎悪がみなぎっていた。
「どれだけ、カインにわたしのビジネスを邪魔されたと思っている? あのガキども……いつか必ず、お仕置きをしなくてはならない」
「お仕置き、ですか」
前田の声は震えていた。自分も下手したら、この男に消される可能性もある。この男の恐ろしさは、誰よりも自分が知っている自信があった。
「カインは根絶やしにする。必ず、だ」
本間は決意に満ちた瞳でそうつぶやく。前田は何も言わずに、上目遣いで本間を見つめていた。今何か言っても怒りを買うだけだ。ここは黙っておくに限る。
「問題はね、前田くん」
「はい」
「なぜ、カインが売られた子供を助けていることを知っているのか……だ。
そもそも、なぜ子供が売られていることを知っている?
それは誰も知らないはずだ。そうだろう?」
前田は「はい」とうなずく。
「いや、わたしの考えすぎか。ただの高校生の劇だ。だが、偶然とはいえ、すばらしい一致だよ」と、本間はわざとらしく言う。「誰がそんな話を考えたのか、興味があるね。才能があるよ」
「まさか、とは思いますが……」と前田は怯えながら怪しく笑む。「カインに関わった人物、では?」
その言葉に、本間は満足げに微笑んで前田に振り返る。
「わたしもそう思っている。過去に助けられた子供か、もしくは……」と、本間はさっき会った娘を思い出す。このあたりの人身売買の管理を任せた男の養女だ。類まれなる美しさと正直で純粋な心をもっている。そして……莫大な金をもたらす娘。
「不思議だねぇ」と本間は高い声で言った。
急に声の調子が変わった本間に戸惑いつつ、前田は「は?」と相槌をうつ。
「神崎の娘がぴんぴんして学校に行っているんだよ」
「両親が殺されたのに、強い子ですね」
前田の見当違いな返答に、本間は眉をぴくりと動かした。だが、説明する気も起きず、言葉を続ける。
「夕べ、自宅に帰って警官にも会っているそうだ」
夕べ……神崎の自宅……警官。自分が銃の暴発事故にするために奔走した事件を思い浮かばせるキーワードだ。本間の言わんとしていること悟り、前田は眉間にしわを寄せた。
「言ったかな? 昭三は彼女をある男に売ろうとしていたこと」
「はい」
そういえば、そんな話を聞いたことがあった。確か、本間はその取引には全く関わっていないはずだ。神崎夫婦が勝手にどこかで見知らぬ男と妙な契約をしたとか。だが、その莫大な金に本間は興味を示していた。いつか、神崎夫婦を裏切り、あの娘を奪うのではないか、と前田は心配していたものだ。
「カインがもしそれを知れば、やはり彼女を助け出すんだろうかね」
本間は唇の端を上げて、怪しく言った。前田はしばらく考え、ひきつった笑顔を浮かべる。この男とカインについて話すときは、いろいろ気を遣う。変なことを言えば、自分が怒鳴られるのだ。
「ま、まあ、そうだと思います」
この若い秘書は、自分の意図していることが理解できていない。若造が、と本間は鼻で笑う。まあ、いい。それよりも……と、未来の娘の言葉を思い出す。
――いえ、友人の家に泊まっていました。
「友人とは……誰のことかな」
本間は、鋭い目つきで窓の外を眺めた。学校をさぼっている女子高生の姿がちらほら見える。あれがカインかもしれない。そう思うと、自然と拳に力がはいる。
「前田くん、私は神崎カヤに会って確信したよ」
「はい?」
「昭三や舞さんを殺したのは……間違いなく、カインだ」
前田はごくりと唾を飲んだ。神崎殺しの犯人はカインではないか、と本間が疑っていたのは知っていた。だが、ついさっきまでは半信半疑だったはず。それが、どうやら神崎の娘との再会で何やら確証を得たようだ。
本間は、冷静な顔を保ちつつ、その心の中に憎しみの炎をもやしていた。
「悪い友達とは付き合うな、と娘には身をもって教えなきゃいけないなぁ」
粛清。また自分は恐ろしいことにかかわるのか、と前田はごくりと唾をのんだ。それも、高校の学園祭で……