接近
「裏の世界では、人身売買が当たり前のように行われているんだ」
リストは難しい表情で、つぶやく。カヤは、「そんな……」と顔をそむけた。リストは、カヤに歩み寄ると、その肩に優しくふれる。
「君も、その被害者だ」
カヤは、手で顔を覆う。
「じゃあ、私の本当の父と母は?」
「君の帰りを待っている。だから、俺が迎えに来たんだ」
カヤは顔をあげ、リストの顔を見つめる。二人は見つめあい、そしてあつい抱擁を……
「この劇、大丈夫なのか?」
俺は気づいたらそうつぶやいていた。
「こら、和幸。通し稽古中なんだから、黙っててよ」
あ。しまった。つい。
アンリは、教室のはじから、丸めた台本を俺にむかって指した。静まっていた教室がいきなりざわめきだす。カヤとリストは、何やら談笑を始めた。演技の相談にはみえないな。
映画研究部の部室は、校舎三階の西のはじにある。アンリが無理やりつくった部だから、部室というか……あまった教室を貸して貰っている、という状態だ。机を全部、教室の後方に固め、空いているスペースで劇を練習しているのだ。俺は、机の足を背もたれにして、床にあぐらをかいていて見ていた。他の裏方の連中も、床に座るか、机に腰をおろしてその練習を見ている。
もう文化祭まで三週間をきっている。そりゃ、通し稽古にも気合がはいるわけで。驚くべきは、リストだな。さすがは神の子孫。カヤに匹敵する演技力に暗記力。なにより、このふざけた劇を真剣にやれるってのがすごいわ。俺だったら、途中で笑ってしまうだろう。
それにしても、参加者が増えているな。二十人はいるだろうか。一昨日より、十人ほど女子が増えている。俺は、見ない顔の女子生徒に目をやった。上履きの色はエンジ色。一年か。彼女たちは、熱心にその視線を一人の男子生徒に向けている。
あ、そうか、と俺は理解する。
「リストく~ん」
そのうちの一人が、台本をもってリストにかけよった。カヤをおしのけ、リストにすりよるかのように近づく。ほらな、やっぱり。リストのファンがごっそり入ってきたんだ。俺は半笑いでその様子を見つめた。
「!」
ふと、カヤと目があった。カヤはにこりと微笑んで、俺のほうへ向かって歩いてくる。俺は若干、緊張していた。カヤが風の噂で、あのSDカードのことを聞いてはいないかと不安だった。だが、練習風景を見ている限り、そんな様子は見られない。実際、SDカードで女子の写真が回っているのは、男子の間だけの秘密。まあもちろん、盗撮に協力している女は別だが。カヤの交友関係は狭いし……俺や平岡が直接言わない限り、耳に入ることはないはずなんだ。心配しすぎ、だよな。
「どうだった?」
恥ずかしそうにカヤは俺を見下ろしてそう尋ねた。
「カインがイギリス人ってのがおかしい」
俺が肩をすくめて言うと、カヤはくすっと笑って、俺の隣にぺたんと腰を下ろした。スカートの中が見えないように、器用に足を折って座る様は、なんか……色っぽい。ふと、今朝見たカヤの着替え写真が思い浮かぶ。一瞬、下着を思い出そうとして、俺は我に返った。何してたんだ、俺は?
「それをいったら、少女Aがイラン人ってのもおかしいんじゃない?」
カヤは冗談のつもりで言ったのだろう。いたずらっぽく笑ってそう言ったのだが……その言葉は、俺を一気に冷静にさせた。
「……いや」と、俺はため息をつく。「外国の子供も売られてくることがあるから」
それを聞いて、カヤは一瞬、顔をひきつらせた。
「そうなんだ」
「それ以外は……」と、俺は声のトーンを変えて言う。「リストが鼻の下のばすのをやめれば完璧だ」
「え?」
カヤは目を丸くして俺を見つめた。俺は、ふっと鼻で笑う。
「冗談だよ」
フフッとカヤが笑った。よかった。もとのカヤに戻ったな。
だが……と、カヤの稽古中の演技を思い出す。カヤは何をやっても完璧だ。演技もリアルで、目を見張るばかり。つまり……普段もそういうことができる、てことだよな。今も、普通のふりをしているだけかもしれない。
そうだ。SDカードのことで頭がいっぱいで忘れていたが……今朝、カヤは様子がおかしかった。動揺を隠しきれない……そんな感じだった。あれは、絶対になにかある。きっと、何かを隠しているはずだ。でも、何だ? SDカードはあの後に起きたこと。カヤがそれを知るはずはない。しかも、藤本さんの部屋から戻ってから様子がおかしくなったんだ。学校とは関係ない……ことだよな。
「どうしたの、和幸くん?」
俺は、いつのまにか、カヤを見つめていたようだ。俺はハッとして頭をかく。
「いや……」と言って、ファンに囲まれるリストに目を向けた。
とりあえず、今は、聞くべきときじゃない。それに、カヤが俺に言いたくなったら、言ってくるはずだ。無理やり言わせるのもおかしい。
「リストくん、大人気だね」
カヤが、クスッと笑ってそう言うのが聞こえた。確かに、大人気だ。五、六人に囲まれてへらへらしてる。
「そうだな」と、俺は呆れた声で返事をした。リストの奴、いい気なもんだよ。あれがカヤを殺す使命をもった神の騎士だとは。緊張感なさすぎだ。
にしても……と、俺はちらりとカヤに目をやった。隣で、目を細めてリストのハーレム状態を見つめている。こうしてカヤと肩を並べて床で座っているこの状況……ほんの数日前まで考えられなかったよな。初めて、カヤに近づけ、て『おつかい』を受けたときはどうなるかと思ったけど……なるようになるもんだ。さらに考えれば、そんな『おつかい』を受けなければ、こんな美少女と話すこともなかっただろう。俺は、日陰の人生。目立たないように生きてきたからな。わざわざ避けていたかもしれない。本当に、何が起きるか分からないもんだ。
――人生には面倒くさいだけの価値はある。
藤本さんの声が頭に響く。そうかもしれない。俺は、無意識に微笑していた。
「お!」と、俺が声をあげたのは、しばらくリストのハーレムを観察してからだった。ある悲しくも興味深い事実に気づいたのだ。
「ん? なに?」
カヤが、首をかしげて俺を見つめるのが横目で見えた。俺は、リストの左後ろをあごで指す。
「あそこ、平岡みてみろよ」
「平岡くん?」
カヤは戸惑いながらも、言われたほうに目をやった。教室の隅、アンリの隣で平岡がつまらなそうな顔してリストを睨みつけている。俺はククッと含み笑いをしてカヤの耳に顔をよせた。
「憎たらしそうな顔して、リストを睨んでるだろ」
「あ……」と、カヤは申し訳なさそうに微笑む。「本当だ」
「リストに話しかけてるポニーテールの子、いるだろ。平岡、あの子がお気に入りなんだ」
もちろん、自分を三流グループだと思っている平岡が、あんなかわいい子にアタックするわけはない。かげながら恋焦がれているだけだ。なのに、一丁前に嫉妬してるみたいだな。だめもとでも告ればいいのに。
「そうなんだ」
カヤは手を口にあてて驚き、「でも……」と、あわてた様子で俺に振り返る。
そのとき……
俺の鼓動が大きく波打った。
「あ」と、つぶやくカヤの顔がすぐ目の前にあった。こんなに間近でカヤの顔を見るのは初めてだ。『おはよう』とカヤがベッドで言ったときよりも、ずっと近い。少しでも動いたら、唇が触れそうで……。
やべ……。動けねぇ。
「和幸……くん」
俺の唇のすぐ前で、カヤが消え入りそうな声でそうつぶやいた。
「神崎さん、いる!?」
そんな町田の声が聞こえたのはそのときだった。
「はい!?」と、カヤが弾かれたように町田のほうに振り返る。俺もやっと金縛りが解けたように、顔を逆方向にそむけた。ふうっと大きなため息がもれる。心臓がここにきて、すごい勢いで早くなった。今のは……近かった。
「あ、いたいた」
町田はカヤを見つけると、教室に入り、こちらに近づいてきた。俺の顔は今、どんなことになっているだろうか。カヤは? いや、顔を確認することなんて出来ない。
心臓が落ち着くのを待っていると、俺の目の前に町田のスカートがなびいた。見上げると、相変わらずのロングヘアが目に入ってくる。町田はアンリの親友みたいだが、アンリと違って文学少女を思わせる落ち着いた雰囲気の子だ。一切いじっていないナチュラルな眉に、ぱっちりとした一重の目。素朴、て言葉がよく似合う。その証拠に、スカートの丈もやや長めだ。膝下……三センチ?
「藤本くんのえっち」
「え!?」
町田の声に、ぎょっとして俺は顔をあげた。町田がジト目で俺を見下ろしている。えっち? なんのことだよ?
「足、じろじろ見ないでよ。顔、真っ赤だし!」
「は?」
顔が赤いのは、足を見てたからじゃ……て、言えるか。
「!」
何か、視線を感じる。俺はちらりと横をみた。すると、カヤがムッとした表情で俺を見ている。おい、ちょっとまて。スカートの丈を見ていただけだ。いや……説得力なさすぎだろ。
「きゃ~、藤本くん、えっちぃ」
教室の向こうからの声。気持ちの悪い、上擦った高い声。このお調子者は、平岡だ。アンリの隣で嬉しそうに騒いでいる。
それにつられて、「やだぁ」という誰かの声が聞こえてきた。
「うるせぇぞ、平岡!」と俺は怒鳴った。濡れ衣もいいとこだ。
「神崎さん、先生が呼んでるから、職員室行って」
町田が何も無かったかのように、カヤに告げる。おいおい、フォローしてくれよ。
「うん、わかった」と、カヤもまるで無視。さっさと腰を上げた。いや、まさか、カヤも俺が町田の足をじろじろ見てたなんて思ってないよな?
「おい、カヤ」
何を言おうとしたのか自分でも分からないが、俺はカヤを引き止めていた。するとカヤはくるりと振り返り、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「和幸くんのえっち」
「え」
カヤはそれだけ言って、教室を出て行った。俺はぽかんと教室に取り残される。なんだよ、今のは? カヤも俺が変態だと思ってるのか? よく分からないが……すごい、ショックだ。
だが……と、俺はさっきのカヤを思い出す。頭のなかでリプレイするだけで、心臓が高鳴った。
「かわいい……」
後方から、照明係のそんなつぶやく声が聞こえてきた。ああ、同感だ。