ムシュフシュ
俺はある人物に会うために、学校の三階、一年のクラスの廊下を歩いている。
俺は学校に着くと、カヤを教室まで送った。
「また、放課後にね」
そう言ってカヤは教室に入っていったのだが……やはり、様子が変だった。確かに、両親が昨日殺されたというのだ。当たり前のように普通にしているほうが変だというものだが……今朝まではカヤはなんら変わりはなかった。それこそ、俺が不安になるほど、『普通』だった。もう少し、泣いたり暴れたり……なんてしてくれたほうが安心かもしれない。そのほうが、話も聞いてやれる。だが、まるで隠しているかのように、俺にそんな様子は見せない。やはり、頼りにされてないんだろうか。
とにかく……その『普通』がぎこちなくなったのは、カヤが忘れ物を取りに藤本さんの部屋に戻ってからだ。何を忘れたのかは分からないが……取ってくるのに時間がかかっていた。見つかりにくい、小さいものだったのだろうか。そして、藤本さんの部屋から戻ってきたカヤは、顔色がすぐれなかった。理由を聞いても、笑ってごまかされるし、その笑顔もぎこちないし。何かを隠しているのは明らかだ。藤本さんが何か変なことを言ったのだろうか。それとも……警察が腐敗してる、なんて話をしたからか? あれはさすがにショックを受けてたみたいだしな。
「きゃー!」
こっちは、真剣な考え事をしているってのに……まるで、アイドルのライブのような黄色い声援が聞こえてきた。顔をあげると、一年九組の前で女子が四、五人たむろっている。教室の中へむかって手を振っては、キャーキャー騒いでいる。
ははは。おモテのようですね、神の子よ。
「ちょっと、ごめん」と俺は言って、あのバカのファンの間をぬって一年九組の教室に入る。
「なによぉ」「誰ぇ?」「やな感じ」なんていう不満の声が聞こえた。なんとでもいえ。
俺は入るなり、腕を組み、九組の教室を見渡す。一時間目まで大分時間がある。がやがやと教室はにぎわい、生徒はあちらこちらにちらばっていた。だが、一箇所だけ、やたらと女子が多く集まっている場所がある。窓際、後方。教室のはじっこ。そこには、女子に囲まれた金髪の美少年の姿がある。その転校生は、俺の姿を見つけると、にこりと微笑んだ。
「あれえ? 和幸さん」という、なんとも能天気な声が響く。
「よう、リスト」
俺は呆れて半笑いで手をあげた。なんでこいつは俺よりも高校生活エンジョイしてんだよ。
***
「楽しそうでなによりだな」
和幸さんは苦笑して言った。明らかに、皮肉だ。
オレと和幸さんは、クラスの目の前にある非常階段に場所を移動した。和幸さんがまさかオレと遊びにクラスにくるわけがないからね。すぐに『災いの人形』のことだ、と分かった。クラスでそんな話もできるわけがなく、不満そうなクラスメートを置いて非常階段に来たわけだ。非常階段からは、サッカー部の朝練がよくみえる。
「まだまだ。あと部活にはいらなきゃ」
オレはクスッと笑ってそう応えた。皮肉にはウィットのきいた冗談で対抗しなきゃね。
「勝手にしろ」
和幸さんはサッカー部の朝練に一瞥してから、ため息をついた。さて。スモールトークはこのへんでいいかな。オレは、サッカー部から目を離し、和幸さんに目をやる。
「なんの御用でしょう?」
「またアトラハシスが現れた」
「!」
アトラハシス? まさか、その名前がでてくるとは思ってもいなかった。真剣に話を聞かなきゃなだめみたいだ。オレは腕を組み、首を傾けた。
「続けてください」
「夕べのことだ」
***
それから、俺は夕べの出来事をリストに告げた。細かい事情は告げなかった。それは『おつかい』に関わることで、『災いの人形』には関係ないことだと思ったからだ。とりあえず、カヤが家に帰り、そこで男に殴られたこと。俺が駆けつけたら、男たちは『バラバラ』で血の海だったこと。信号がきれてから俺が駆けつけるまで、三分ほどだったと思う。てことは、ほんの少しの間でそんなことが行われたのだ。常軌を逸している。とても人間業じゃない。つまり……天使の仕業としか考えれない。
「そんでもって、カヤを守るために、そんなことをするような奴がいるとしたら、アトラハシス。そうだろ?」
俺は自信満々にリストに尋ねる。カヤに近づいただけで、男をケガさせるような奴だ。カヤが気絶するほど殴られれば、あんなおそろしいことをしてもおかしくはないだろう。
だが、リストはなぜか即答しない。こいつには珍しく、言葉を失ったようだった。
「なんだ? どうしたんだよ?」
リストは、サラサラのブロンドの前髪を左手で掻きあげると、ため息をついた。まるで、一仕事終えたかのようなため息だ。何もしてねぇだろうに。
「ケット」と、リストはつぶやくと、リストの後方に光の粒子が集まり、ケットが現れた。ケットの表情も深刻だ。一体なんだってんだ?
「おい?」
俺がせかすと、リストは真面目な顔で俺を見上げた。
「ムシュフシュです」
「は!?」
おい、まさか……また、新しい単語かよ。エミサリエスで終わりだと思ったのに。俺は疲労感を覚えた。
「ムシュフシュ?」
こうやって鸚鵡返しするのも飽きたっての。だが、リストやケットの深刻な表情をみると……これは、真面目に聞いたほうがよさそうだな。ただ事じゃなさそうだ。
「間違いないね」と、ケットは偉そうに腕を組んでうなずいた。「バラバラにちぎられた体。ムシュフシュの仕業としか考えられない」
「おいおい。アトラハシスじゃないのか?」
「アトラハシスの天使に、人をバラバラ死体にするような力はないんですよ、和幸さん」
ないんですよ、といわれてもな……そんなこと知るかよ。
「とにかく、ムシュフシュが何か教えてくれ」
「ムシュフシュは……」と、リストは視線をおとす。「化け物です」
「は!?」
もったいぶっといて、それかよ。化け物? 抽象的すぎないか? 化け物にもいろいろあるし……
「ムシュフシュはね」と、ケットがとことこ俺に歩み寄って切り出す。「『災いの人形』の身に危険が及ぶと現れる怪物なんだ」
今度は怪物? 統一してくれよ。化け物なのか、怪物なのか。それとも、化け物で怪物? とにかく、まだよく想像がつかない。
「それは、一体どういうことだよ? もっと分かりやすく言ってくれ」
すると今度は、ケットの主人が口をだす。
「『災いの人形』は、『テマエの実』を口にするまではただの人間。それまでは俺の『聖域の剣』では殺せません。でも、逆に普通の方法では簡単に死んでしまいます」
俺はハッとした。そういえば……リストは言っていた。こいつの持っている剣……『聖域の剣』は、カヤが人間である限り、危害は加えられない。つまり、『テマエの実』を食べてからしか、リストはカヤを殺せない。だが……
「そうか。確かに……ただの人間ってことは、普通に死ぬ、てことなんだな」
心臓を刺せば死ぬし、首を絞めれば死ぬ。普通の人間なんだ。
「そう」と、リストは相変わらず真剣な顔で続ける。「だから、人間であるときに彼女を守る『何か』が必要だったんです」
あれ? カヤを守る使命をもつ奴がいただろ。俺は顔をしかめた。
「アトラハシスがいるじゃないか」
「アトラハシスはエンキ様の味方だから信用できないってエンリル様が訴えたんだ」
ケットが俺の横からそう言った。えっと……エンキが人間の味方で、エンリルが人間の敵。そうだったよな。で、アトラハシスは、エンキのお気に入りの人間。俺は一生懸命、頭で整理する。確かに、俺もエンリルの立場だったら不安だな。敵の部下が自分の武器を守る、なんて信用できないのは最もだ。
「そこで、怪物に『災いの人形』を守らせることにしたってわけ。どっちの味方でもない怪物にね」
リストは肩をすくめて簡単にまとめた。
「ムシュフシュは知能が低い。複雑なことは考えられないし、言葉もしゃべれない。だから単純な使命しか守れない」
「単純な使命?」
なんだ、それは? 使命に単純も複雑もあるのか? つまり、分かりやすい使命、てことか?
「『災いの人形』に危険が及んだとき、姿を現し、その場にいる危険を全て排除しろ」
リストは、棒読みでそう言った。
「それが、使命か?」
「そう。『災いの人形』が人間である限りは、ムシュフシュはそれしかしない。つまり、『災いの人形』がケガをしたら、だれかれかまわず周りにいる人間を殺すんです」
ぞくっとした。夕べみた、血の海を思い出す。おいおい、神さまはとんでもないものを地上に送ったんじゃないのか。
「ちょっとまてよ。ケガをしたら……て、擦り傷やかすり傷もか? そんなんでいちいち周りの人間を殺されたら、誰もいなくなるぞ」
「それは大丈夫」と、かばうように言ったのはケットだ。「『災いの人形』は『収穫の日』まで、自分が何者かは知ってはいけない。だから、ムシュフシュも彼女に姿を見せてはいけないんだ」
そりゃそうだろうな。俺は小さな神の使者を見つめて思う。どんな化け物かは分からないが、人をばらばらに食いちぎるような化け物だ。そんなのが目の前に現れたら、それこそショック死する。
「てわけで」
リストは人差し指を立てた。
「ムシュフシュが目覚めるのは、『災いの人形』が気を失うほどのケガをしたとき」
なんだそりゃ。どこが、単純な使命だ。俺は呆れた。
「充分、複雑な使命に聞こえるぞ」
「そうですか?」
リストは、肩をすくめた。
「とりあえず、ムシュフシュは何も考えません。『災いの人形』が気を失えば、姿を現し、周りにいる人間を殺す。言い訳はききません。無関係でも、見える範囲にいれば、食いちぎる」
なるほど。頭の悪い権力者ほど質が悪いようなものか。凶暴なのに知恵がない。それはまるで暴走列車だ。
だが、疑問が残る。俺がカヤのもとに駆けつけたとき、何もいなかった。あったのは、あの地獄絵図だ。
「でも、俺は無事だぞ? カヤが気を失っていたときに近づいたのに……」
「『災いの人形』が気を失ったとき……つまり、危害を加えられた、そのときにその場にいましたか?」
つまり、殴られたとき……だよな。そりゃ、もちろんいなかった。いたら、そもそも殴らせていない。
「いや」と、俺は短く否定する。
「だからです。ムシュフシュは、目覚めたときに見える範囲にいた人間を全て殺し……そして、すぐに消えます。危険は排除された、と判断するからです。つまり、気絶したときに立ち会わなければムシュフシュに殺されることはありません」
まあ、そんな化け物、すぐに消えてもらわなければ確かに困る。なるほど。リストが言った、『単純な使命』って意味が分かった気がした。目を覚ます。目にした人間を殺す。消える。その化け物がやるのはその三つだけなんだ。
にしても、俺がもう少し早くカヤのもとにかけつけていたら、もしかしたら殺されていたかもしれないんだな。俺も、あのバラバラ死体の一人になっていたわけだ。
「ちなみに」と俺は尋ねる。「お前も、ムシュフシュってのに会えば危ないわけか?」
すると、リストは首を横に振る。
「ムシュフシュは、エンキとエンリルには服従します。だから、エンキの子孫であるオレや、エンキの細胞をもつケットには手を出しません」
知能が低いわりに、そういう身の振る舞いは分かってるわけか。せこいガキみたいだ。
「で、そのムシュフシュってのも天使なのか?」
すると、ケットが「違うよ!」と必死になって否定した。心外だ、といった表情だ。「ムシュフシュは怪物。天使じゃないよ」
俺には、怪物も天使も違いはないんだが。俺は苦笑いして「悪い」と謝った。
「ムシュフシュは神の細胞から創られたわけじゃないってことです」
リストは、ケットの頭をぽん、とたたくと俺にそう言う。
「じゃあ、ムシュフシュの気配は感じ取れないわけか」
俺は腕を組み、リストに言った。昨日、ケットは天使同士は気配を感じ取れる、て言ってたからな。ムシュフシュが天使じゃないとしたら、それはできないんだろう。
「その通りです。覚えが早いですね」
リストのそんな感心した声が聞こえた。
失礼な奴め。「どうも」と、俺は肩をすくめる。
「それで……どこから現れるんだ? そのムシュフシュってのは」
俺は、当然のように尋ねたのだが……リストとケットは目を点にして黙ってしまった。
さっきから、こいつらは当たり前のように、『現れる』と繰り返していたが、俺にはイメージがつかない。現れる、といってもどこから現れるんだよ?
「なんだよ?」
「いえ……てっきり、見当はついてるかと思ってたから」
リストはひきつった顔でそう言った。なんだか、いいにくそうだな。
「あ」と俺は思いつく。「そういえば……」
昨日聞いた天使の話を思い出す。たしか、麻雀にある言葉でなにか言ってたな。たしか……ツモ、じゃなくて……
「ドラ、だ!」
天使は、ドラとかいう物に宿っている、ていってたな。それに天使が宿っていて、その持ち主はその天使を使役することができる。ケットの場合は、リストの持っている『聖域の剣』がドラ。
そうだ、そうだ。まるで連想ゲームのようだが、効果はある。こうやって覚えていけばいいかもしれない。俺は、段々『災いの人形』絡みの話についていけるようになっているのが嬉しかった。何も知らなかったら、カヤのことを助けることはできないからな。俺は、どうだ、と自慢げにリストを見た。
「カヤも、お前が持ってる剣みたいなのを持ってるのか?」
具体的に、カヤがいつも持ち歩いている物は思い当たらないが……リストは、剣を自由自在に出したり消したりできている。なぜかはわからない。どうせスピリチュアリティな話で、原理なんてないんだろう。とにかく、目に見えなくても、カヤが『何か』を持っていてもおかしくないはずだ。その『何か』にムシュフシュが宿っていれば、カヤの危険にすぐ姿を現せる。
だが、リストとケットの表情は曇っていた。はずれ……か?
「半分あたりで、半分はずれ、です」とリストは低い声で言った。
「どういう意味だ?」
「あのね」
ケットが俺のブレザーをひっぱった。俺はしゃがんで、ケットの顔を真正面から見つめる。だめだ。どうも、こいつはただの子供にしか思えない。
「ムシュフシュはね、『災いの人形』に宿っているんだ」
「え?」
『災いの人形』ってカヤだよな。カヤに宿ってる? どういう意味だ、それは?
「ムシュフシュが宿る贈り物は、『災いの人形』自体なの」
俺は、ケットの言っている意味を理解し、ハッとした。そして、背筋が凍った。
「つまり……」
俺はうつむく。汚い俺の上履きが目に入った。その染みが、夕べみた血にだぶる。
「つまり、カヤの体に……」
ちぎられた男たちの体が頭に浮かんだ。吐き気がした、あのおぞましい光景。ひどい血の匂い。バラバラの体の部位。
あれをつくりだした怪物が……カヤの体にいるってのか?
***
和幸は、しゃがんだまま地面を見つめていた。カヤの体には、人をバラバラに食いちぎる化け物が宿っている。それを知って、やっと思い知らされたような気がしていた。カヤが、普通の人間ではないことを。
「すみません、言わなくて……」
リストは申し訳なさそうにつぶやいた。
「和幸さんがついていれば、『災いの人形』も危ない目にあうことはない。だから、ムシュフシュも目覚めることはないだろう。そうふんで、話しませんでした」
和幸は、ふうっとため息をつく。リストにそんな意図はなかったのだろうが、カヤを危険な目にあわせた負い目を感じている和幸には、その言葉が追い討ちのように心に突き刺さった。
「いや……実際、俺がしっかりしてれば、その化け物も目覚めなかったわけだし」
和幸は立ち上がると、リストに微笑んだ。その笑顔には皮肉が混じっている。つまり……と、考える。間接的に、俺があの男たちを殺してしまったようなものだな。
「とりあえず、これだけは理解しておいてください。彼女の安全は、周りの人間の生死にかかわります。だから、これからも『災いの人形』をしっかり見張ってください」
チャイムが鳴り始めていた。いつのまにか、サッカー部もグラウンドから消えている。だが、リストは気にする様子もなく、真剣な顔で和幸にそう釘をさした。
「言われなくても、そうする」
和幸は遠くを見つめてそう答えた。