小さな願望
――彼氏もいないし、好きな人もいないっていうから――
砺波の声が頭に響く。
「……かっこわり」
浴槽につかり、俺はそうつぶやく。体を沈め、あごまで湯につかると、さっきカヤに言おうとしたことを、自分で思い出す。もう少しで、カヤを困らせるとこだった。今から他の男とデートするってのに……迷惑だよな。俺の脳裏に、さっきカヤが見せた無理した笑顔がうかぶ。俺は、カヤのあんな笑顔は見たくない。優しくてほがらかで、暖かい……そんな、いつも見せてくれるカヤの笑顔が……
「――俺は、好きなんだ」
俺は、そうつぶやいていた。ピチャッと蛇口から水がおちる音がする。それ以外、静かなもんだ。カヤは眠っただろうか。男のくせに、長風呂だ、と思われていそうだな。
俺は目をつぶって、カヤの笑顔を思い浮かべる。初めて一緒に帰ったときに、見せてくれた笑顔。夕べ、「おあいこにしよ」と言った笑顔。たまにみせるはにかんだ笑顔。いつもそんな笑顔を見るたびに、心が安らいだ。カヤの笑顔を見れれば、俺はそれでいい。カヤを困らせるようなことは、したくない。
だが、正直言って、俺はがっかりしていた。カヤに好きな人はいない、と砺波にはっきり言われて落胆したんだ。つまり、だ。俺はどうやら、心のどこかで、カヤが俺に惚れてると思っていたようだ。今思えば、とんでもなく恥ずかしいことだが……。
――『災いの人形』はあなたに恋をしています。
そう、その原因は、リストのあの言葉。なんで、あいつがそんなデタラメを俺にふきこんできたのかは謎だが……おかげで、馬鹿みたいに思い上がっていた。まあでも、そうじゃないか、と自分でも思うことは何かとあったことはあったんだ。
俺は左手を湯から出し、その薬指を見つめる。その『事実』に気づいたときには、カヤの指にあの指輪をはめていた。うっかりしていた。左手の薬指がどんな意味をもつのか、全く考えていなかった。「あ」と思ったときには、もう指輪はカヤの薬指にあった。カヤは何も言わないし、戸惑ってもいなかったから……俺も知らんふりをしたが……。
「やっぱ……気づいてなかっただけか」
ふ~っと、体を沈めた。そんなに大きな浴槽ではない。一人暮らしのマンションにしては大きめだが、膝を若干まげなければ体がおさまらない。上半身を沈めれば、それだけ足をださなければならない。俺はかまわず、鼻をつまむとそのまま頭を湯の中に沈めた。行儀が悪いぞ、という広幸さんの声が聞こえてきそうだ。今は大目に見てください。
にしても、カヤにとって俺はなんなんだ? こうして平気で俺の家に泊まってるし、抱きしめても嫌がらない。いいお友達、てやつなのか? 男にすらみられてないのかもしれない。
って、なにぐちゃぐちゃ考えてるんだよ、俺は? もうどうでもいいだろ。カヤは、新しい関係を他の誰かと求めてるんだ。曽良はいい奴だし……きっと、カヤを支えてくれる。それにカインだ。カヤを守ってくれるだろう。カヤが無事で、いつも笑顔でいてくれるなら……それで充分だ。
俺は、それでいいんだ。
もし、ずっと息がもつなら、このまま湯船に沈んだまま眠ってしまいたい。そんな気分だった。
***
「お風呂、長かったね」
私はベッドに腰をおろして、お風呂から戻ってきた和幸くんにそう言った。和幸くんは目を丸くして私を見る。
「起きてたのか?」
「うん」
部屋の扉を後ろ手に閉め、和幸くんは明かりをつけた。いきなり明るくなって、目がちかちかする。
「寝ててよかったんだ」
「まだ九時だもん。眠れないよ」
「……それもそうか」
和幸くんは、ははっと笑ってタオルで髪をふいた。お風呂上りの和幸くんは、下はスウェット、上は……裸。男の人の裸なんて見たことない。私は視線に困っていた。でも、つい……気になって見てしまう。鍛えてるんだろうな。ムキムキってわけじゃないけど、筋肉がしっかりついてる。セクシーって……こういう体をいうのかなぁ?
「カヤ……?」
「え?」
いけない。つい、ぼうっと見とれてた。和幸くんは、眉をひそめて私を見ている。変に思われたかな。
「大丈夫か?」
「え……」
和幸くんは心配そうに私に歩み寄る。だめ。今、近づかれたら……心臓がおかしくなりそう。
「熱でもある?」と、和幸くんは私の顔をのぞきこむ。
「ないよ、大丈夫。ちょっと、暑くて」
なんてごまかして、手でぱたぱたあおいだ。和幸くんは、そうか、と背を伸ばし、窓に向かった。
「窓、開けようか」
「ありがとう」
和幸くんは、窓を半分だけ開けてくれた。
ごめんね、和幸くん。違うの。顔が赤いのは……熱とか、暑いからじゃないんだよ。そんなことを心の中で訴える。とても、口には出せないけど……。
今にも、「和幸くんのことが好き」と伝えてしまいたい。もう一度、抱きしめて欲しい。でも、私にはそんな勇気はない。私は両親を失った。家にももう帰れない。今、こうして自分を保てていられるのは、和幸くんが傍にいてくれるから。好きな人の傍にいられるから。もし今、和幸くんを失ったら、もう私に頼れる人はいない。好きだ、て伝えて拒絶でもされたら、きっと今のこの関係も壊れてしまう。気まずくなって、離れなきゃいけなくなる。そんなことになったら、今度こそ私はおかしくなる。それなら、このままでいい。
――もういいんだ。
和幸くんの冷たい言葉が頭に響いた。もしかして、嫌われたのかもしれない。でも……と、私は窓際にたたずむ和幸くんを見る。こうして和幸くんはいつも通りにふるまってくれている。いつもの優しい和幸くんだ。演技かもしれない。『おつかい』のために、仕方なく私に親切にしてくれているのかもしれない。そう考えたら悲しいけど……それでもいいよ。和幸くんが傍にいてくれるなら、どんな形だっていい。ただ、傍にいたい。傍にいてほしい。
私は、ずるいな。
「そうだ」
和幸くんが思い出したようにつぶやいた。
「飯。夕飯、食べてないな」
「え……あ、そうだった」
うっかりしてた。そういえば、お腹が空いている気がする。和幸くんは、タオルを首にかけ、腰に手をあてがった。
「よし、何か作るか」
「料理、できるの?」
男の子が料理。私の父は亭主関白そのものだったから、そんなこと想像できない。私は首を傾げて和幸くんを見つめた。和幸くんは私に顔を向け、自信満々に微笑む。
「四年間一人暮らしだ。どう思う?」
「……料理できなきゃ、今頃ガリガリだね」
和幸くんは私の答えに満足したようにうなずくと、ベッドの隣の収納ケースに歩み寄り、Tシャツを取り出した。
「もしくは、ファストフードの食べすぎで肥満だ」と付け加えて、Tシャツをかぶる。
「和幸くんはどっちでもないもんね」
「そういうこと」と和幸くんは答え、私の前を通り過ぎ、廊下にある小さなキッチンへと向かった。
「何か手伝おうか?」
私は和幸くんの後を追った。
* * *
和幸は、冷蔵庫を開け、少ない食材に顔を引きつらせる。
「あー……きゃべつ半分、たまねぎ四分の一」
たいしたものを作る気はもとから無かったが、ここまで材料がないのは予想外だった。とりあえず、あるだけ冷蔵庫から出すことにし、キャベツとたまねぎをカヤに手渡す。肉は冷凍庫にあったはず、と冷凍庫の扉を開けると、思ったとおり、そこには豚肉が二パック冷凍してあった。和幸は、よかった、と微笑み、カヤに振り返る。
「なんとか、肉はあったから……て、どうした?」
和幸の期待を裏切り、カヤは表情を曇らせていた。和幸は豚肉を取り出すと冷凍庫の扉を閉め、カヤを見つめた。
「気分、悪いか?」
数時間前に、ひどい目にあったのだ。こうして、普通にふるまっているほうがおかしいというもの。急に泣き出されたとしても、文句は言えない状況だ。和幸は、カヤが無理をしている気がしてならなかった。
「ううん。ただ、あのね……」
確かに、顔色が悪いわけではない。カヤは、いいにくそうにもじもじしている。
「どうした?」
「お肉、食べれないの」
「え」
予想だにしない返答に、和幸はぽかんとする。カヤは、上目遣いで申し訳なさそうに和幸を見つめた。
「ベジタリアン?」
それがまるでどこかの種族かのように、和幸は尋ねる。
そんな和幸の問いに、カヤはこくりとうなずいた。どうやら、キャベツとたまねぎで何とかしなくてはならないようだ。和幸は、なにも言わずに、肉を冷凍庫に戻した。