ただ、抱きしめて
カヤは、ゆっくりと目を覚ました。目に入ってきたのは、暗い天井。明かりはついていない。光は窓からはいる月明かりだけだ。ここはどこだろう。
「うっ」
カヤは、自分の左頬が痛むのを感じた。そっと手を触れるとずきっと激痛がはしる。頭がぼうっとしていた。自分に何が起きたのだろう。体を起こすと、自分がベッドに横になっていたことに気づく。といっても、毛布の中ではなく、その上だ。ふと、変な匂いがすることに気づく。一体どこから……そう思い、自分の手に視線を落とす。そして……
「!」
カヤは声を失った。手には赤い何かがついている。これは……血? そして、よくみれば、自分は体中、それがついている。
手が震えだす。何があったか、段々と記憶が戻ってくる。
「いや……」
カヤは頭を抱えた。自分はそうだ。殴られたんだ。妙な男たちに囲まれて……そのあと、何があったんだろう。何が起きたの? そして、自分は今、どこにいる? カヤは混乱し、両手で頭を抱え、ベッドの上でひどく震えた。もしかして、自分は連れ去られたのではないか。そんな考えが浮かび、カヤはハッとした。何かされるかもしれない。
「和幸くん……」
カヤは、あわてて左手を見た。カメラ、カメラ、と指輪を見る。だが……薬指には指輪はない。和幸と唯一、つながっていた指輪が。カヤは、「いや」と声をだし、左手を右手で握り締めた。
「いや! 和幸くん!!」
その叫び声は、悲鳴にちかかった。
***
「カヤ!」
急に、その声がした。私は、ハッとする。震えが急に止まった。
「カヤ、大丈夫か」と、和幸くんが、部屋に入ってきた。私は、その姿を見て、思わず涙がでた。
「おと、おとこたちが……」
一生懸命、事情を説明しようとしても、言葉にならない。涙が次から次へと出てきてしまう。和幸くんは、私の横に座り、私の両肩をがっしりとつかんだ。
「大丈夫だ。いいから、落ち着いて」
「お父さんのたいせつなもの……どうしても、がまんできなくて……」
いいから、と言われてもあふれてくる言葉を止められなかった。怖かった、すごく。何があったか話さないと気がすまないような気持ちがして、しゃべらずにはいられなかった。
和幸くんは、そんな私に優しく微笑んで、私の髪をなでた。
「落ち着いて。もう大丈夫だ」
「……どう、なったの? あれから……なにがあったの? この血は?」
私は、嗚咽をあげながら、途切れ途切れにたずねる。和幸くんは、一瞬難しい顔をした。でも、それは本当に一瞬で、すぐにまた笑みを浮かべる。
「いいから……」
それだけ言って、和幸くんは私を抱きしめた。
「!」
私は、何も言えなくなった。
***
俺は、しばらく、カヤを抱きしめていた。胸の中で、段々と落ち着いていく彼女の呼吸を感じる。パニックはおさまってきたみたいだ。
俺はあのあと、適当にタクシーを拾って戻ってきた。幸い、暗くて運転手は俺たちが血だらけなのに気づかなかったようだ。彼女が酔っ払っちゃって、なんてありきたりの嘘を言ったら「お若いのに」と皮肉じみたことを言われた。
とにかく、カヤの精神面が心配だった。ぽんこつカメラが途中できれてしまって、何があったのか俺はよく分かっていない。カヤの頬のあざも、どうして出来たのか。
とりあえず……さっきカヤは「この血は?」と聞いてきた。つまり、気絶したのは、あの血の海が出来る前、てことだ。カヤが気絶したのは、あの惨劇が原因ではない。不幸中の幸いだな。あれを見るのは、流石にショックが強すぎる。だが……気絶するような何かがあったことには変わりは無い。一体、何が? それに……
「両親が……殺された、て」
「!」
カヤのか細い声がした。首元にその息を感じる。さっきと違って、落ち着いた声だ。
「ああ、聞いてた」
そう、そこまではカメラも作動していた。
「大丈夫か?」
「……」
カヤは、何も答えない。大丈夫なわけ、ないよな。俺は馬鹿だ。しばらく、カヤは黙ってしまった。数分の沈黙が……重い空気で何時間にも思えた。俺には、どんな言葉をかければいいのか分からない。
「そうだ……」
俺は、思い出したように切り出す。カヤを引き離し、カヤの顔を伺った。左頬のあざが痛々しい。ずきっと胸が痛むのを感じた。
「風呂、お湯ためといたから。まず、血をおとそう。な」
「……」
ほんのちょっとでも、気分転換になれば。そう思ったのだが……なるわけないだろうな。まぁ、どちらにしろ、早く血は落とさないといけない。気持ち悪いだろうし。
カヤは、唇をかみ、ゆっくりとうなずいた。
「タオルと……服は、俺のでいいか?」
そう言って俺は立ち上がった。だが、何かがひっかかって、俺は中腰で止まった。
「え?」
振り返ると、カヤが俺の服をつかんでた。
「砺波の服のがいい……か? 一応、何枚かあるけど」
俺が戸惑ってそう言うと、カヤは首を横に振る。なんだろうか、とまたベッドに腰を下ろした。
カヤは、迷子の子犬のような、寂しい目で俺を見つめて言う。
「もう少しだけ……」
「え?」
もう少し? なんだ?
俺が困惑していると、カヤは俺に寄りかかるように体を預けてきた。
「カヤ?」
「ただ、抱きしめて……」
それはかろうじて聞こえるほどの、小さな声だった。
俺は、カヤの背中に手を回すと、何度か優しくさすった。
***
とりあえず、風呂にはいって血をおとそう。和幸くんはそう言って、私をお風呂場に案内してくれた。部屋と玄関をつなぐ廊下の真ん中。ドアを開けると、そこは脱衣所になっていた。和幸くんのTシャツとハーフパンツを渡され、私はそこに入る。
「バスタオル、あとで持ってくるな」と和幸くんは言って、脱衣所のドアを閉めた。
血まみれの服を脱ぎ、下着をはずす。一体、何があったんだろう。ブラにまで、血がしみこんでいる。これだけの血……誰の? まさか、あの男達? あの後、一体何があったんだろう。和幸くんが……何かしたのかな。でも、一体何をしたの?
私は、お風呂場のすりガラスのドアを開く。浴槽にはお湯がたまっていた。わざわざ、和幸くんがためてくれたんだ。そう思うと、自然と笑みがもれた。優しさが身にしみる。
キュッとシャワーを開け、全身であびる。気持ち良い。体の緊張がほぐれていくのを感じた。両手に視線をおろす。両手にこびりついていた血がお湯に溶けていく。指先から赤い液体がするすると落ちていった。排水溝まで赤い筋となってそれは流れていく。
「……」
しばらくぼうっとそれを見つめていると……何かがぐっとこみ上げてきた。ずっと、こらえてきたもの。
「お母さん、お父さん……」
涙がシャワーと混じって、頬を、体を、足をつたって排水溝へと流れていく。私は、シャワーを全開にする。勢いのよいシャワーの音がお風呂場に響き渡る。
***
俺は、トントン、と脱衣所のドアをノックする。やっと見つけたおろしたてのバスタオルを手に持って。
「カヤ、入るぞ」
風呂場のほうからシャワーの音が聞こえる。カヤはもうシャワーを浴びているんだ。特に答えを待つことも無く、俺は脱衣所を開けた。
すりガラスを通して、シャワーを浴びているカヤの姿がぼんやりと見える。なめらかな体のラインに、つい、目を奪われた。バスタオルを置いてさっさと出るつもりが、俺は数秒ほど、そこで見とれていた。
「って、何してんだ」
ハッと我に返ると、俺はあわてて棚に歩み寄り、そこにバスタオルを置く。ふと、足元に血だらけの服を見つけた。そして、カヤの下着。……下着!?
「悪い!」
カヤに聞こえるはずもないのに、そう言って不自然に顔をあげた。そのときだった。
「ごめんなさい」
「いや、俺が悪い……え?」
俺は風呂場に振り返る。シャワーの音に隠され、かすかだが、カヤの声が聞こえた。反射的に返事してしまったが、明らかに俺に対してじゃないだろう。俺は、風呂場のドアに歩み寄った。シャワーを全開にしてるのか、シャワーの音がやたらと大きい。耳をとぎすますと、やはり聞こえてきた。
「ごめんなさい」という、カヤの声。そして、それは……嗚咽する声に変わっていった。すりガラスを通して、カヤがしゃがみこむのが見えた。
「お父さん、お母さん……」
俺は一瞬、風呂場をノックしよう、と手をだし……そして、やめた。このシャワーは、ちょっと開けるだけで充分な勢いがある。全開にする必要はないはずなんだ。
つまり……と、俺は足音をたてないよう、静かに脱衣所を出る。パタン、とドアを閉め、そのままもたれかかった。シャワーにまじって、カヤの泣き声がかすかに聞こえる。
「俺に、聞かれたくないんだな」
なぜだかは分からない。だが、カヤがそれを望む以上……知らないふりをするのが、今、俺が唯一カヤのためにできることだ。
「……無力だ」
俺はその場でしゃがみこんだ。