はじめての『おつかい』
「侵入する?」
和幸が藤本の部屋にはいったとき、丁度、カヤが驚いてソファから腰をあげるところだった。和幸が入ってきたことすら気づかず、カヤは夢中で藤本に迫る。
「どうして? もう必要ないんじゃないんですか?」
「落ち着いてください」
藤本は、右手でカヤを制し、和幸にアイコンタクトを送った。助けてくれ、といった表情だ。和幸は、すぐに何のことか悟り、ゆっくりとカヤに近づく。
「カヤ」
優しく声をかけたつもりだったが、カヤは驚いて飛び跳ね、和幸に振り返った。
「和幸くん!?」
いつのまにそこに? と続きそうな表情だ。和幸は、言いにくそうに事情を説明しだす。
「カヤの両親のことで……」
「!」
一瞬、カヤの表情が強張ったのを和幸は見逃さなかった。今はあまり聞きたい話でもないだろうが……と思いつつ、話を続ける。
「俺の早とちりだったかもしれない」
カヤを眉をひそめる。思わぬ和幸の告白に、カヤはどう反応して良いか分からない様子だ。
「『わたしのような人間』。電話で、お父様はそうおっしゃったんですよね?」と、今度は藤本が黒い皮のイスに座ったまま、訊ねる。
カヤは藤本に目をやると、何も言わずにうなずいた。そう、夕べ盗聴した電話で、父はこう言った。警察は汚職の巣窟だけど『わたしのような人間』にとっては、強力な味方なんだ、と。
「和幸はそれを根拠に、あなたのお父様を人身売買の親玉だ、と判断したそうです」
カヤは、目を丸くして和幸を見た。そうだったんだ、とこのとき知ったのだ。まさか、自分のセリフが根拠になっていたとは夢にも思っていなかったのだろう。
「しかし……」と、藤本がいうと、和幸はばつが悪そうにそっぽを向く。
「それだけでは、なんの根拠にもならない」
「え……」
藤本は、やれやれ、とため息をついた。
「カインには、悪党のすること=人身売買、という変な固定観念があるみたいで、和幸もそのせいで早とちりをしたようです。他にも、麻薬や強盗……悪党のすることはたくさんあるのですがね」
つまり……と、カヤは思った。『わたしのような人間』というセリフで、和幸はカヤの父を悪党だと判断し、悪党ならば人身売買にかかわっているはずだ、と決め付けた。そういうことだろうか。
「まったく、いつもはそんな性急なことはしないんですよ? なにがあったのか……」
藤本は、ジト目で和幸を睨んだ。和幸は、目をそらしたままだ。
「ちょっとまってください。それじゃ、両親は人身売買にかかわってないんですか?」
カヤに、喜びと不安が混ざりあった気持ちの悪い感情が襲ってきた。夕べから、両親が人身売買にかかわっていた、という事実を受け止めようと必死だった。それを、今更、間違いだったといわれては……嬉しいことに違いはないが、両親を疑っていた自分が許せなくなる。両親にどう謝ればいいのか分からないし、また気持ちの整理をつけなければならない。
「いやいや」と藤本はあわてて言う。「それはまだ分かりません。もともと、ご両親には、そういう疑いがありました。それを確認するために、和幸に『おつかい』を頼んだのです。ただ……神崎さんが聞かれたという電話の内容は、その疑いを濃くしただけにすぎない、ということなのです」
「つまり……?」
カヤはまだ混乱していた。藤本の言っていることがよく分からない。
「つまり」と続いたのは、カヤの隣にいる和幸だ。「藤本さんは、しっかりとした証拠がほしい、てこと。藤本さんが納得できるような証拠をね」
カヤは忙しく、藤本と和幸を交互に見やった。
「それと……家に侵入すること、どんな関係があるんですか?」
「和幸に『おつかい』を頼んだときと、今では状況が大きく違います」
藤本は、優しく微笑んでそういった。それは、まるで質問の答えになっていない。
「はい?」
「あの家を良く知るあなたがいる」
「……」
やはり、カヤには、藤本が何をいわんとしているのか、理解できなかった。
「カヤは嫌かもしれないけど……あの家の防犯システムや間取りを全部教えて欲しい。知ってる範囲でいいんだ。そしたら、あとは俺が……」
和幸が、どこか申し訳なさそうにそう言った。藤本と和幸の二人からの情報の応酬に、カヤは目が回りそうだ。
「え?」
「カヤの家に侵入して、人身売買の証拠を探す」
「!」
「資料とか何か、そんなものが必ずあるはずなんだ。だから……」
「……」
カヤは、呆然として力なくソファに座った。やっと二人の考えていることがはっきりと分かった。ここにきて、自分に両親の悪事をあばく手伝いをしろ、というのか。証拠がでようがでまいが……この行動は、今度こそ、本当に両親を裏切ることになる。カヤは、ぎゅっと自分の右腕を左手でつかんだ。
「カヤ?」
和幸は、心配そうにしゃがむと、カヤを覗き込んだ。
「嫌なら……いいんだ」
「!」
ずるいな。カヤは思った。和幸の優しい言葉は、カヤにとって何よりも強力な武器だ。和幸にそんな風に言われて、カヤに断れるはずもない。
カヤは、顔をあげると、和幸を見つめた。その瞳には、覚悟があらわれている。
「私が行く」
「え?」
和幸と藤本は、全く同時に驚きの声をあげた。
* * *
「あの家の防犯システムは、私でも全部知っているわけではありません。引っ越して間もないですし。でも、とても厳重だということは父から聞いています。それに……銃をもったガードマンもたくさんいます」
カヤは、はきはきとした口調で藤本さんにむかって話し始めた。
「軽はずみに知ったかぶりなんかして……和幸くんを危険な目にあわせたくないんです」
え……。
俺は、どくん、と心臓が大きく鼓動をうつのを感じた。カヤは、俺たちが理不尽な頼みをしているときにも、俺のことを心配していた。俺は、自分が情けなくなった。
藤本さんが言っていることは最もだ。俺は夕べ、性急だった。確かに、証拠が足りないというのに行動を早まった。リストの言うとおりだ。理屈じゃない心境の変化が……確かにあった。いてもたってもいられなくなったんだ。
『誰かに恋してたんでしょ?』
うるさい。
「いや、しかしですね」と、藤本さんはあわてている。「こちらも、あなたを危険な目にあわせるわけには……」
「私の家です。何も危険はありません」
カヤに、まるで迷いはなかった。
俺は、少し驚いていた。カヤは、なんていうか……『癒し系』というイメージだった。おっとりとして、包容力があって、一緒にいると安心する。だから、こんな凛々しいカヤを見るのは、新鮮だった。こんな一面もあるんだな。と、のんきに思った。
その間にも、カヤはまくしたてるように藤本さんに訴えている。
「第一、両親はまだ私が電話を盗聴したことを知らないはずです。今もきっと、ただの家出だと思ってる。私が家に行っても、ただの『帰宅』です。怒られはしても、危険なことはなにもありません」
藤本さんは、確かに、と唸るようにつぶやいた。だが、相変わらず、難しい表情だ。どうしても、カヤを巻き込みたくない、とみえる。
無論、俺も同感だ。
「だが、カヤ。目的は、人身売買の証拠集めなんだ。お前にそんなことさせるのは……」
カヤは、真剣な表情で俺を見つめた。覚悟を決めた女の顔だ。
「十七年ちかく、両親は私を育ててくれた。たとえ、どんな秘密をもっていようと、どんなひどい人たちだとしても……私は、あの人たちを愛してる。だから、せめて……」
そこまで言うと、カヤはうつむいた。ぎゅっと拳を握り締めるのが見えた。やはり、つらいんだ。思わず、その手を握り締めたくなった。カヤを、守ってやりたい。そんな気持ちがあふれでた。
「せめて」ともう一度言って、カヤは顔をあげた。今度はまっすぐに藤本さんを見つめている。「自分でけりをつけたいんです。自分で確かめたいんです。行かせてください」
藤本さんは、カヤをじっと見つめた。カヤも負けじと見つめ返している。
しばらく藤本さんは、腕を組み、考えていた。そして、部屋中に飾ってある写真を見渡す。
「たとえ、止めても……結局、勝手に実行してしまうのでしょうね」
それは、諦めのような言葉だった。カヤは、「はい?」とぽかんとしている。
「達也もそうでしたから」
藤本さんは、微笑みながらため息をついた。
達也。その名前は、聞き覚えがある。確か、カインノイエが創られるきっかけになった少年だ。藤本さんの制止を無視して、独断で子供を『迎え』に行った少年。藤本さんは、この状況に、彼を思い出していたんだ。
「和幸」
藤本さんが、低い声で俺の名前を呼んだ。俺は立ち上がってうなずく。
「何かあったときのために、お前も行きなさい」
「分かってる」
もちろん、そのつもりだ。
「藤本さん……」
カヤは、安心したように微笑んでいた。
「詳しいことは、和幸に聞いてください。どんなものが証拠になるのか、知っておいてもらわなければ意味がないですからね」
「……はい」
真面目になった藤本さんに影響され、緊張した面持ちでカヤはうなずく。
にしても……まさか、カヤが行くことになるとは夢にも思ってもいなかった。心配だが、カヤの言うことも一理ある。神崎にとっては、カヤは娘だ。一番、家に侵入しやすいのはカヤだろう。それに、両親もカヤには油断するはず。俺がこそこそ家を探るより効率がいい。ガードマンだってそうだ。カヤが家を出歩いてて、誰も不審に思うことは無い。
ただ一つ、気になるのは……アトラハシスか。カヤをとり返そうとしているアトラハシスだ。カヤが神崎に戻ってくれば、やはり現れるだろうか。もうすでに、神崎の家で待ち構えているかもしれない。
だが、アトラハシスなら問題ないんだよな。カヤを守る使命の人間なんだから。逆に、カヤを渡すべきかもしれない。アトラハシスが現れて、カヤを渡せ、と言ってきたら……俺は従うしかないんだよな。リストが人間を守る役目をもつように、そいつはカヤを守る役目なんだから。そのほうが、カヤのため……。
分かってる。『災いの人形』だなんだという話は、俺の管轄じゃない。いつか、俺じゃ何の力にもなれないときがくる。だから、カヤを守る『使命』をもつ奴に任せるべきなんだ。俺には、そんな『使命』はないんだし……。
でも、なんだ? なんでこんなに気に食わないんだ? なんでこんなに……落ち着かない?
俺の拳に、自然と力が入っていた。