ユリィ・チェイス
アメリカ。テキサス北部。トーキョーのぎゅうぎゅうとした印象とは正反対の、のんびりとして広々とした田舎。たとえ近所でもとても『近く』はなく、一軒一軒が離れて建っている。それぞれが広大な庭をもち、そこには馬や鶏が家族同然に暮らしている。
月も高くなり、あたりは静まり返っていた。耳をすませば、遠くのバーの騒音が聞こえてきそうだ。そんな夜に、馬の背に乗る少年の姿があった。ある一軒屋の裏、まるで牧場のような広大な庭で、彼は愛馬の背にまたがっていた。
月の光で、少年の高い鼻が濃い影を唇におとしている。ほっそりとしたりんかく。優しげなたれ目。透明感のある白い肌。栗色の髪は、馬のたてがみとは対照的に、短くゆるいパーマがかっている。彼は、愛くるしさと色っぽさをどっちももっている。よく年上の女性に好かれるのはそのせいだ。
「ビッグボーイ」と、愛馬の名をよび、少年は馬の首をなでた。ビッグボーイは、首を小刻みに上下に揺らしてそれに答える。
ビッグボーイは、その名の通り、他の馬よりもずいぶん大きな体をしている。がっしりとした足の筋肉。黒い毛並み。幼い子供はビッグボーイを見ると、怯えてしまう。確かに、映画に出てくれば、間違いなく、悪役の馬になってしまうだろう。だからこそ、オレはビッグボーイが好きなのかもしれない。彼は、そう思った。
「ユリィ!」
静かだった庭に、そんな声が響いた。がさ、がさ、と誰かが近づいてくる足音が聞こえる。ユリィは、声の聞こえたほうにビッグボーイの体を向けさせた。
「こんな時間に乗馬する奴があるか」
家のほうから歩いてきたのは、ピンクのメッシュのはいった茶髪の少女。年頃は十三。そのショートヘアは、見るからに痛んでいる。ブリーチのしすぎだ。キャミソールからは、ピアスのついたへそがのぞいている。こちらの少女も、鼻が高い。つり目なのを除けば、どこか雰囲気は少年に似ている。
「アイリス、何の用?」
ユリィは、ゆっくりとビッグボーイから降りると、ぽつりとそう言った。ぼけーっと眠そうなのは、彼の特徴だ。せっかくの愛らしい目も、いつも半開き状態。睡眠は充分とっているはずなのだが、いつも寝不足のようにふるまっている。
それを長年見てきたアイリスは、もう飽き飽きしている。いつもイライラさせられる。今回も例外ではない。アイリスは、呆れたようにため息をついた。
「海外ニュース、始まるから。みたいんじゃねぇかと思ってよ」
まるでどっかの不良のようにそう言って、アイリスは家のほうをあごで指した。ユリィは、馬の綱を手にもったまま、相変わらず、ボーっとしている。
「ちょっと? なんとかいえよ」
「あのニュース、やるかな」
『あのニュース』が何をさすのか、アイリスにははっきりと分かっている。難しい表情で、そっぽを向いた。
「やるに決まってる。だから、わざわざ呼びにきたんじゃねぇか」
「……そう」
『あのニュース』とは、イギリスの『死神』のことだった。ここ数週間、アメリカのメディアでも騒がれている。海外ニュースのトップは、大体その事件だ。それは、エディンバラで起きた幼女殺害事件。テレビに映った愛くるしい被害者の写真を、ユリィは忘れることはない。少女の名は、ポリー・マッコーネル。彼女は、観光客の目の前で、ある男に大きな剣でさされたという。しかし、不思議なことに、彼女の遺体にそのような傷はなく、眠ったように倒れていただけだった。
この事件は、エディンバラで大きな話題を呼び、イギリス中に怪奇事件としてとりあげられることになる。多くの観光客が、現場を目撃していて証言は一致している。だが、それとマッチする痕跡はない。剣はなんだ? その男は何者だ? 様々な憶測が飛び交い、ついには死神などという推理まで飛び出したのだ。今ではすっかり『エディンバラの死神』というキャッチフレーズでおなじみだ。
ユリィとアイリスは、ろくにニュースなど見ない。その事件の詳しい話を知ったのも、アメリカで取りざたされてから随分たったときのこと。アイリスの友人から聞いたのだった。
『死神、あんたの兄貴じゃん』
友人は、そう言った。
「あの、ポリーって子、何者なんだよ?」
「さあ」
ユリィからまともな返事を期待していたわけではない。アイリスはうつむいた。
友人に言われ、アイリスはあわててニュースをチェックした。すると、観光客が撮ったという事件直前の写真が公表されていた。男が剣を幼い少女にかかげている写真だった。ニュースによると、観光客はショーかなにかだと思ったらしい。なんともお気楽な話だ。
アイリスは、その写真を見て、コップを落とした。ユリィは……ただ、呆然とした。写真の男に、見覚えがあったのだ。数ヶ月前、使命のために家を出て旅にでた、兄だった。
「意味わかんねぇよ。なんで兄貴は、イギリスで子供殺してんだよ?
確かに、ウチらは人間の敵だけど……子供を殺すのは、いけすかねぇよ」
「タール兄さんは……変わったんだ」
ユリィは、無表情のままそう言った。
「変わった……ってなんだよ? お前、何を知ってんだよ?」
「オレは知らない。生まれる前の話だから。全部、父さんに聞いた」
「パパに? なんで、お前だけ聞いてるんだよ? あたしは何も聞いてない」
「アイリスは、オレより年下だ」
「だからなんだよ? 三つしかちがわねぇだろ」
アイリスは、反抗期真っ只中だ。歳が近く、いつもボーっとしているユリィは八つ当たりの格好の餌食だった。
「オレは、トーキョーに行く」
ユリィは突然そう打ち明けた。まるで、脈絡がない。アイリスは、なんと言われたのか、しばらく理解できなかった。やや間をあけ、目を限界まで開くと「は?」と声をあげる。
「なに? トーキョー? ニホンの?」
「うん」
「うん、じゃねぇよ。なんでだよ!?」
「カード、調べた」
「は?」
「タール兄さんのクレジットカード。航空券を買ってた。トーキョー行きだった」
「お前、まさか……」
アイリスは、言葉を失った。ユリィの信じられない考えが分かったのだ。
「兄さんを止める」
ビッグボーイがユリィの顔をつっついた。もう乗らないのか、と言いたげだ。
しばらく固まってから、アイリスは短く息を吸ってまくしたてるようにユリィにつめよる。
「止める、て……バカじゃねぇの? あたしらニヌルタ一族だ。兄さんの使命はウチらの使命! 応援するのが筋だろうがよ」
「使命……世界を終焉に導くこと」
ユリィが、珍しく目をはっきりと開けて言った。眠そうじゃないユリィの様子に、アイリスは一瞬たじろいだ。いつもなめきってバカにしているが、兄なのには代わりは無い。
「そうだよ。ウチらは、エンリルの子孫。人間を滅ぼすのが使命」
「『災いの人形』が『終焉の詩』を唱え、世界は大洪水にのみこまれる」
「そうさ。そうやって、害虫である人間を排除するんだよ」
「オレたちもな」
その言葉に、アイリスは眉をひそめた。やはり、真ん中の兄貴はアホだ、と確信して笑った。
「ちげぇよ。あたしらは、エンリルの子孫なんだから。兄貴がマルドゥクに勝利し、『災いの人形』に『終焉の詩』を詠わせたら、ウチらだけは助かる。そう教えられてきただろ。たとえ地球が洪水に見舞われても、ニヌルタ一族だけは、エンリルの恩恵で助けてもらえるのさ」
「恩恵とは何だ?」
「は?」
恩恵、と言う言葉も知らないのか、とアイリスはため息をついた。だが、ユリィの論点はそこではなかった。
「助ける、というが、どうやってオレたち一族だけを助けようというんだ?」
「……それは…」
「エンリルは、宇宙の果てにいる。それで、どうやってオレたち一族全員を助けるっていうんだ?」
「エンリルは神だ! 偉大な力、『メ』がある」
「その力を、オレたちのために使うとなぜいいきれる?」
「それは、だから、ウチらの神だからだよ」
「そうだ、エンリルは、神だ。オレたち人間を嫌う神」
「バッカじゃねぇの? あたしらは人間じゃない! 神の一族だ」
「違う。オレたちは、神の血がはいったただの『人間』だ」
「!」
ここまで、たくさんしゃべるユリィをアイリスは今まで見たことが無かった。いつもボーっとして口数も少ない。のんびりと暮らすだけの牛に見えたものだ。だが、今のユリィは違う。まるで、今までためてきたうっぷんを全て吐き出すかのように、力強い口調で次から次へと言葉を並べている。アイリスは、一歩後ずさった。気迫負けだ。
「エンリルは、世界の終焉にオレたち一族を救う。それはただの言い伝えにすぎない。
誰がそれを保証できる? 神はオレたちを救うというが、誰がそんなことをいった?
オレは神に会ったことが無い。会ったことのないものを、どうして信じられる?」
「……いかれてるよ、お前」
アイリスは、一風変わったユリィがあまり好きではなかった。キレイなお兄さんだね、と友人に言われるときだけ、ユリィの存在に感謝した。だが、それ以外では、いつもうざったかった。何を考えているか分からないただの奇妙な奴。いつからか、アイリスは、ユリィを兄と呼ばなくなっていた。
「何かがおかしい。何かが、オレたちの目をくらませている。そんな気がしてならない」
「お前がおかしいんだよ、ばぁか」
「……」
ユリィは、黙って月を見上げた。もとのおとなしいユリィに戻ったようだ。アイリスは、つきあってらんねぇよ、と唾をはいて、家へと去っていった。
ずっと動かないユリィの肩を、ビッグボーイは甘噛みしてきた。ユリィは、それまでまるで居眠りしていたかのように、ハッとした。
「ビッグボーイ」
無表情のまま、ビッグボーイの頭をなでる。
「しばらく、出かける。アイリス、よろしく」
気のせいかもしれないが、ビッグボーイが嫌そうな顔をしたように見えた。ユリィ・チェイスは、クスッと微笑んだ。