藤本の懺悔
「カインについてはご存知でしたか?」
藤本は部屋にはいるなり、そう切り出した。
「え」と、カヤは急な質問に戸惑いつつ、「噂は、少し」と、あいまいな返事をした。
「そうですか、そうですか。まま、さ、座ってください」
藤本はいつものように、黒い皮の上等なイスに腰をおろすと、カヤに微笑んだ。
部屋は、それほど大きくはない。藤本のデスクと、それに向かい合うようにおかれた大きめのソファ。そして本棚に観葉植物一つくらいしかない。いや、細かく言えば、もっとある。この狭い部屋で無数にあるもの――写真だ。壁にそこら中に飾ってある写真。そこにはカヤと同じ歳ほどの少年少女たちが写っている。藤本とのツーショットや、集団写真のようなものもある。
カヤは、座れ、と言われたものの、写真が気になって、立ち尽くしていた。
「皆、カインの子供たちです」
カヤが写真をきょろきょろ見回しているので、藤本がそう説明した。そして自分も写真を見回し、せつなく微笑んだ。どこか懐かしく、愛おしそうに。
「でも、和幸くんが見当たらない」
ぽろっとそんな言葉が口からもれた。カヤは自分ではっとして顔を赤らめる。
無意識に写真の中に和幸を探していたことに、このとき気づいた。カヤの思考回路はすっかり和幸が中心に変わっていた。
そんなカヤのほのかな恋心に気づくわけはない。藤本は、カヤの言葉をそのままに受け取り、胸を痛めた。和幸の写真がそこにないのは……と心の中で唱える。喪失感におそわれ、写真の子供たちを見ていられなくなった。そこに和幸の写真がないのは、当然だった。ここに飾ってある写真は遺影のかわりだからだ。
「それはそうですよ」と、藤本は沈んだ声で言った。「ここに飾ってある写真は……皆、先に逝ってしまった子供たちですから」
「え」
「皆、良い子達だった」
その声はとてもさびしそうで、藤本が泣き出すのではないか、とさえ思った。カヤは思わず、藤本に歩み寄った。だが、一歩足を踏み出したところで、かける言葉が自分にはないことに気づく。カヤには事情がまったく分からない。よく考えてみれば、カインが一体何者なのかもはっきりとは知らないのだ。せめてものヒントといったら、噂や、アンリの劇、そして和幸だった。だが、どれを信じればいいのかも良く分からない。特に、アンリの劇で語られるカインは、噂とはかけ離れている。アンリが実話だというのだから、劇のほうを信じるべきなのだろうが……火のないところに煙はたたない。カインに対する恐ろしい噂の原因もあるはずだ。
それに、とカヤは思った。写真をもう一度見回す。無邪気に微笑む少年少女。そんな写真に『死』という言葉はとてもかけ離れたものにみえる。
「なぜ・……」と、藤本に振り返り、そこで言葉をつぐんだ。
聞くべきじゃない。カヤは一歩足を退いた。聞いちゃいけない。弱弱しく背中を丸めている藤本を見ると、それ以上、質問することはとてもできなかった。
藤本から離れ、無言でソファに座る。藤本は悲しい表情で、じっと、デスクの上におかれた写真たてを見つめている。あれも、カインの写真だろうか、とカヤは思った。
「さきほど、言われましたね」と、しばらく間をあけてから藤本は口を開いた。
「はい?」
「噂で、カインのことを聞いた、と」
「はい」
「どんな噂ですか?」
写真たてからカヤへと向けた顔には、穏やかな表情が戻っている。
「殺し屋として裏の世界で育てられた少年少女がいて、カインと呼ばれている、と。初めて聞いたときは、漫画か映画の話をしているのかと思っていました。つい最近までも、ただの都市伝説かと……」
「そうですか」
カヤがそこまでカインを信じていなかったのも当然だった。トーキョーで、裕福な家庭に生まれた子供たちにとって、『裏世界』は『UFO』と同じ類の言葉だ。
表で暮らす人間にとっては、トーキョーは明るい都市だ。なにも知らずに生きようと思えば、必要なものだけ見ていればいい。わざわざ裏路地に首をつっこんだり、夜道を出歩いたりする必要はない。『何も聞くな』。そうすれば、金のある人間は、トーキョーで幸せに暮らせる。コフィンタワーの廃れた姿に気づくこともないだろう。そこまで、気に留めることもないのだから。トーキョーでは、無関心が幸せの秘訣だ。
カヤには、トーキョーの裏路地はずいぶん治安が悪い、という知識はあった。だが、逆に言えば、その程度だった。カヤにとって、『裏世界』とはその程度のことで、まさかビジネスや社会が存在しているとは想像もしていなかった。まして、そこで生きる子供たちがいるなんて。だが、アンリと出会い、カインは実在する、と聞かされた。そして、実際に会ってしまった。カインだと名乗る少年に……
ふと、和幸の不器用な笑顔がカヤの頭をよぎった。
「あの……」
「はい?」
「一つだけ、確認したいことがあるんです」
カヤは不安そうに藤本を見つめた。聞いたら後悔するかもしれない。カヤの鼓動が一気に早くなった。でも、確認したい気持ちを止めることはできない。
「カインは……いえ、和幸くんは、殺し屋なのですか?」
藤本は目を丸くした。十六の少女は、救いをもとめるような目でこちらをじっと見ている。それはある意味脅しのようにも感じた。「違う、と言え」というプレッシャーだ。
そんなことをしなくてもいいのだよ、と、藤本は自然と笑顔がこぼれた。
「いいや……和幸は、人を殺したことはありません」
「……」
カヤは、ホッと安堵し、肩の力を抜いた。よかった、と心の底から思った。やはり、自分の見る目は正しかった。和幸は人を殺せるような人間には見えない。思ったとおり、良い人なんだ、と喜んだ。
「じゃあ、噂はでたらめ、なんですね」
その質問に、藤本はまた「いや」と答えた。今度は、言いにくそうに。
「え?」
「カインは『無垢な殺し屋』と言われています。そして、それは事実です」
「でも、さっき、和幸くんは違う、ておっしゃいましたよね?」
「和幸は特別なんです。他のカインは、確かに、『殺し屋』と呼ばれても仕方のないことをしています」
「……あなたが、させているのですか?」
すんなりとそんな言葉が口からもれた。カヤは、自分でもそれを言ったことにしばらく気づかなかった。藤本が目を丸くして自分を見つめている。それに気づいてから、自分が言ったことを理解した。
「あ!」と、気まずそうに藤本から目をそむける。
しばらく重い沈黙が続いてから、「なるほど」とつぶやく藤本の声が、小さいながらもカヤの耳にはいってきた。
「わたしを、子供たちに人殺しをさせる悪人だ、と思っているのですね?」
「……」
藤本に怒っている様子はない。それどころか、とても穏やかな声だった。
カヤは、ただ黙った。実際、その通りだった。この人は、悪い人かもしれない、という気持ちが心の中に生まれている。写真に写る少年少女は自分と同じ年頃。壁に並ぶ笑顔は、『殺し屋』と呼ばれるような人間のものには見えない。ということは……そのリーダーだというこの男が、彼らをそそのかしているとしか思えないのだ。
「そうだとわたしも思います」
予想しなかった返答に、今度はカヤが目を丸くした。
ギイっという音をたてて、藤本はイスをまわす。カヤから、その表情を伺うことはできなくなった。カヤにイスの背を向け、窓を見ている。
「彼らの罪はわたしの責任です」
「どういうことですか?」
「わたしは、人を殺めてはだめだ、と彼らに教えられないのです。とても頼りない、非力な偽善者なんです」
「藤本さん?」
その声があまりにも寂しそうで、カヤは心配になった。この部屋を出た瞬間に、この人は自殺をしてしまうんじゃないか、とさえ思った。それほど、寂しい声だった。
「当たり前ではないからだめだ。法を犯しているからだめだ。この世のルールに反しているからだめだ。命をもてあそぶな。そんな言葉を、彼らに言えないんです」
「はい?」
「それを言ってしまえば、彼ら自身を否定してしまう気がしてならないのです。勝手に命を減らしてはいけないんだ、と、勝手に増やされた命である彼らには言えません」
「勝手に増やされた……?」
「わたしはね、彼らを救えるだけの言葉を持ち合わせていないのです。わたしにできるのは、彼らを許すことだけです。彼らがなにをしようと、わたしだけは認めてやる。わたしだけは守ってやる。それくらいしかできないんです」
カヤは藤本が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。和幸のある言葉が脳裏をよぎるまでは……
「カインは、皆――クローン」
カヤは、そうつぶやいた。そして、そうか、と理解した。クローン。禁止されたはずの禁忌の行い。存在しないはずのもの。当たり前でなく、法を犯し、この世のルールに反し、命をもてあそんだ証。それは彼ら自身、クローンという存在だ。そんな彼らに、それがいけないことだ、と説明するのは確かに酷なのかもしれない。倫理が通じないんだ、とカヤは思った。
藤本がまたギイっとイスをまわし、カヤのほうに向きなおった。その表情に、声から感じ取られた寂しさは伺えない。
「変なことを話してしまいました」
「え、いえ」
「不思議ですね。なぜか、あなたといると、落ち着きますよ。話してしまいたくなるんです。心を許したくなる。いや……許される、救われるような気持ちになります」
「そう、ですか?」
「それは、とてもとても素敵な魅力だと思います。大切にしてくださいね」
「……はい」
その『魅力』というものが、人を『裁く』ために創られた『災いの人形』の力だと分かるわけもない。藤本は、もしくは、と心の中でつぶやいた。自分が歳をとっておしゃべりになっただけかもしれない、と。
「ところで」と、藤本は高めの声で切り出す。「驚きました。クローンのことをご存知とは。和幸に聞いたんですか?」
「あ、はい。夕べ、教えてもらいました」
「そうですか」
藤本は顔をほころばせた。驚きと喜びが同時にこみあげてくる。カヤの口から『クローン』という言葉がでてきた時点で、和幸がそれをカヤに教えたことは予想がついた。だが、『和幸が』ということが、藤本には信じられないことだった。
クローンであることに一番コンプレックスを抱いていたのは和幸だと、藤本は知っていた。彼は、『クローン』という単語に一番敏感だった。和幸の口からその言葉を聞いたことは、藤本でさえ一度もない。その和幸が、カヤにそれを話したのだ。それが、藤本にはこの上なく嬉しかった。
間違いない。この女性は、和幸にとって今一番尊い存在になりつつあるのだ、と藤本は確信した。
「一つ、図々しいお願いを聞いてくれませんか?」
藤本は、落ち着いた調子でゆっくりとそう尋ねた。
「はい」
急に雰囲気のかわった藤本に戸惑いつつも、カヤは微笑してうなずいた。
「どうか、和幸を嫌わないでください」
「はい!?」
いきなり何を言い出すのだ、とカヤは目を丸くした。嫌うどころか……と、心の中でつぶやき、顔を赤くする。
「もしも、和幸があなたを騙していたことに怒りを感じているのなら、その矛先は、全てこの藤本マサルにお願いしたい」
藤本は、真剣な表情でカヤを見つめていた。その口調と態度は、十代の少女に対するものではない。カヤは、思わず背筋を伸ばした。
「さきほどお話した通り、すべて、わたしが命じたことですから」
「あの、お話が読めないのですが……」
「和幸が、『おつかい』をさぼった、とさっきわたしに言いました」
「!」
そういえば、と思った。カヤはそれを謝るつもりだったのだ。『おつかい』をさぼらせてしまったことを、藤本という人物に謝ろう、とここに来る前に思っていた。すっかり忘れていた。
だが、それが今の話にどう関係しているというのか。カヤは眉をひそめた。
「とても嬉しかった。わたしにとって、それはとても意味のあることなんです」
「……」
和幸が『おつかい』をさぼったことに責任を感じていた。謝らなければと思っていたのに、藤本は喜んでいる。カヤには、さっぱり意味が分からなかった。父親代わりでリーダーである藤本のいいつけを破ったことに、どんないい意味があるというのだろうか。
藤本は、一呼吸おいて、ゆっくりと口を開く。
「もう少し、老人の長話につきあってはもらえますか?」