表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第一章
46/365

フォックス・エン・アトラハシス

 暗い夜道で、二つの人影が走り去っていく。

 男は、その後姿をじっと見つめて立っていた。


「あらま。駆け落ちじゃない」


 男のうしろで、露出度の高い衣装をまとった色黒の女がそうつぶやいた。


「……」


 男はただ黙っている。女は腰に手をあてがい、男の後姿を見つめた。


「ね、どうなさるの? おいかけましょうか?」

「結構です」

「あら、どういう風の吹きまわし? あの子を受け取りに来たんじゃないの?」

「妙だと思いませんか、バール?」


 急な問いかけにバールは小首をかしげる。いきなり「妙だ」といわれてもなんのことやら。


「はい?」

「あの少年には、もう呪いはかかっていない」


 言われてバールはハッとした。確かに、たった今、夜の闇に消えて行った少年に見覚えがある。数時間前、自分が部屋に忍び込み、そして呪いをかけた少年だ。だが、男の言う通り、かけたはずの呪いの気配がない。失敗したということはまずない。バールに失敗なんてあり得ない。理由は単純。そういう存在だからだ。


「……あら、そういえば……そうね。明日の十二時に解けるようにしたのに」と、バールは不思議そうにつぶやいた。

「誰かが解いたのでしょう」


 静かに男はそう告げる。感情が推し量れない無機質な声色で。

 バールは男の推理を聞いて、腕を組んだ。もう男の言いたいことは予想できていた。だがそれでも、わざとらしく「……つまり?」と答えを促す。まるで男を試すように。

 それに気づいているのかいないのか、男は涼しげな表情で素直に答える。


「『ルル』を守る神の騎士、マルドゥクです」


 やはりそうきたか。バールは唇の片端を上げた。


「マルドゥクがあの坊やを助けた、ていいたいわけ?」

「マルドゥクはもうすぐ近くにいますね」

「どうなさるの?」

「……」


 しばらく考え、男はフッと微笑んだ。端正な顔立ちにさわやかな笑顔が浮かぶ。


「少し、様子をみましょう」

「ええ?」


 男の提案に、バールは思わず動揺して声をあげた。様子をみる……それは、彼らしからぬ選択肢だ。てっきり、あの少年にもう一度強い呪いをかけろ、と命じられると思っていた。いや、そのつもりだった。


「とりあえず」と、男は穏やかな声でつぶやく。「彼はカヤを連れ出してくれました。こちらには都合がいい」

「……ま、そうだけど」


 腰に手をあてがい、納得いかない表情でしぶしぶ同意するバール。それを尻目に、男は神崎の屋敷を見上げた。


「『ルル』は強欲な種だ」


 感情が伺えない平坦なトーンでそう言って、男は一歩一歩確かめるように足を進めると、神崎の屋敷の門をくぐる。


「それが、自らの破滅を招くことすら知らない愚かな種」


 淡々と独り言をつぶやきながら、男は玄関に手をかける。カヤが突然飛び出していったため、鍵はしまっていない。男を招き入れるかのように扉は開き、男は躊躇なく堂々とした様子で玄関にはいった。


「カヤ!? 長かったじゃない」


 玄関が開いた音を聞いて慌しく駆けつけてきたのは、カヤの母親だ。シルクの寝巻きが動きに合わせて擦れて音を出す。乾ききっていない湿った髪を振り乱して玄関に姿を現し、そして困惑に顔色を雲らせた。

 義娘(むすめ)の姿をとらえるはずの視界に入ってきたのは、青年だ。それも、全く見覚えの無い青年。


「あんた、誰!?」


 母親は表情をこわばらせ、そう尋ねた。泥棒とは思えなかった。男は、あまりにも落ち着いた様子で立っている。


「お久しぶり、といったほうがいいですか? 神崎夫人」

「……久しぶり?」


 男は、紳士のように優しく微笑んだ。

 カヤにどこか似た顔つきをしている男。いや、人種としては同じかもしれない。浅黒い肌に、彫りの深い顔。端整な顔立ちで、まるで王族のような気品があふれている。鋼のような前髪は若干目にかかり、長く伸びた睫毛とぶつかっている。二十代前半と思われる若者は、実に紳士的な雰囲気だ。

 だが、男は不気味だった。どう不気味だ、と言われれば説明はできない。ただ、見ているだけでゾッと背筋が凍る。母親は警備の人間を呼ぶことすらできずに、男のその妙なオーラに圧倒されていた。


「きれいなダイヤね」

「!?」


 突如として誰かの細い指が耳元にふれ、甘い声が飛び込んできた。気づけば、見慣れぬ女がイヤリングをもてあそぶようになでている。後ろに人などいなかったのに。一体どこから沸いて出たのか。母親は驚愕し、飛び跳ねるように妖しげな女から離れた。


「いつのまに、そこに……!?」

「フフ」


 妖艶な女は怪しく目を細めた。

 母親はその炎のように煌く赤い目を見つめ、そしてハッとした。


「あら、あなた……どこかで」


 すると、男が細い唇を横に伸ばして高いトーンでつぶやく。


「わたしより……彼女のほうが見覚えがおありですか?」

「……え」


 男に言われ、母親はもう一度、じっくりと女を見つめた。

 色黒の肌。黒く長い髪。ルビーのような目。麻でできた妖しげな衣装。

 そして、心の奥で感じている不思議な感情。尊敬でもない。恐怖でもない。――畏怖。


「!!」


 その瞬間、神崎夫人は驚愕して目を見開いた。思い出してしまったのだ。この二人と、いつ、どこで会ったのか。


「あなたたちは……っ!!」


 母親はやっと状況を把握して、後ずさった。


「思い出してくれましたか?」男は嬉しそうに品のある笑みを浮かべる。「毎朝、電話をさしあげていたのに……声で気づきませんか?」

「……どうして、来たの? 明日、電話すると……」


 母親は、恐怖で腰をぬかした。分かったのだ。この男こそ、毎朝、電話をよこしてきた男。ついさっき、カヤを渡せ、と電話してきた男。――そして……約十六年前、赤ん坊を渡してきた男。


「カヤはどこ!?」母親はハッとしてあたりを見回した。「カヤを……もう連れて行ったのね。話が違うわ! 金は……」


 その言葉を聞いて、それまで微笑んでいた男の顔が急に冷たい表情に変わった。さっきまでの紳士的な青年とは別人のような、冷酷極まりない表情だ。まるで、感情のない精巧な蝋人形にさえ見える。


「金……金……」と、蝋人形は無機質に言葉を漏らす。

「え……」

「十六年もともに暮らした娘でも、愛情はわかないのか。ほんとうに、わたしは恥ずかしい。

 こんな種の王になったことを、心から恥じます」

「……なにを?」


 母親の体は小刻みに震え、声はかすれていた。ダイヤのイヤリングがカチャカチャと音を立て、よく手入れされた長い爪は床にリズムを刻んでいる。

 恐怖に顔を青くする母親を見下すように男は見つめ、落胆のため息をついた。


「本当に、救いようのない種だ」

「……」


 男が何を言っているのかはさっぱり分からない。だが、母親は悟った。もとから、この男は自分たちに金など払うつもりはなかったのだ、と。そして……この男が、どうしてここに現れたのかも。


「だ、誰か……!」


 母親は助けを求めようと声をだし、体をひねらせ顔をあげた。そして、息を呑む。目に飛び込んできたのは、さっきまで隣に居たはずの妖艶な女。移動した気配は感じられなかった。なのに、振り返ったら目の前に佇んでいたのだ。

 思わぬ出来事に硬直していると、女の紅い目が淡く光を放ち始めた。人の目が光るなんてあり得ない。さらに、こんな状況だ。悲鳴でもあげて逃げるのが妥当な反応なのだろうが、なぜか母親は見とれてしまった。どんな宝石よりも美しい輝きを放つ、その瞳に心まで奪われたようだった。

 しかし、母親は分かっていなかった。その瞳に奪われるのは心だけではすまないことを。

 それは突然やってきた。急に喉がしめつけられるような痛みにおそわれ、母親は崩れるようにその場に倒れこんだ。


「う……ぐ……!?」


 首にはなにもない。だが、確かに感じていた。何かに絞められる感覚を。


「あ……」


 ふと、紅い眼の女を見上げた。助けを求めようと。

 だが、母親は思いもよらないものを目にした。化け物だ、と思った。

 眼を紅く光らせるバールの髪は、まるで生きているようにうごめいている。よく目をこらせば――まとめられている髪の一束一束が蛇の頭をもっていた。バールと同じ紅い目をもつ蛇たちは、母親をあざ笑うかのように口をあけて蠕動(ぜんどう)している。


「『ルル』の王たる、わたし……フォックス・エン・アトラハシスは決めたのです」と、もがき苦しむ母親を見下ろしながら男は冷静に低い声で語りだす。「彼女(・・)のためにも、『ルル』は滅ぶべきだ、と。あなたも、例外ではない」


 男――フォックスは優しく微笑みながら、神崎夫人が息絶えるのを見つめていた。無事に冥府へと旅立てるように、と祈るような穏やかな眼差しで。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ