フォックス・エン・アトラハシス
暗い夜道で、二つの人影が走り去っていく。
男は、その後姿をじっと見つめて立っていた。
「あらま。駆け落ちじゃない」
男のうしろで、露出度の高い衣装をまとった色黒の女がそうつぶやいた。
「……」
男はただ黙っている。女は腰に手をあてがい、男の後姿を見つめた。
「ね、どうなさるの? おいかけましょうか?」
「結構です」
「あら、どういう風の吹きまわし? あの子を受け取りに来たんじゃないの?」
「妙だと思いませんか、バール?」
急な問いかけにバールは小首をかしげる。いきなり「妙だ」といわれてもなんのことやら。
「はい?」
「あの少年には、もう呪いはかかっていない」
言われてバールはハッとした。確かに、たった今、夜の闇に消えて行った少年に見覚えがある。数時間前、自分が部屋に忍び込み、そして呪いをかけた少年だ。だが、男の言う通り、かけたはずの呪いの気配がない。失敗したということはまずない。バールに失敗なんてあり得ない。理由は単純。そういう存在だからだ。
「……あら、そういえば……そうね。明日の十二時に解けるようにしたのに」と、バールは不思議そうにつぶやいた。
「誰かが解いたのでしょう」
静かに男はそう告げる。感情が推し量れない無機質な声色で。
バールは男の推理を聞いて、腕を組んだ。もう男の言いたいことは予想できていた。だがそれでも、わざとらしく「……つまり?」と答えを促す。まるで男を試すように。
それに気づいているのかいないのか、男は涼しげな表情で素直に答える。
「『ルル』を守る神の騎士、マルドゥクです」
やはりそうきたか。バールは唇の片端を上げた。
「マルドゥクがあの坊やを助けた、ていいたいわけ?」
「マルドゥクはもうすぐ近くにいますね」
「どうなさるの?」
「……」
しばらく考え、男はフッと微笑んだ。端正な顔立ちにさわやかな笑顔が浮かぶ。
「少し、様子をみましょう」
「ええ?」
男の提案に、バールは思わず動揺して声をあげた。様子をみる……それは、彼らしからぬ選択肢だ。てっきり、あの少年にもう一度強い呪いをかけろ、と命じられると思っていた。いや、そのつもりだった。
「とりあえず」と、男は穏やかな声でつぶやく。「彼はカヤを連れ出してくれました。こちらには都合がいい」
「……ま、そうだけど」
腰に手をあてがい、納得いかない表情でしぶしぶ同意するバール。それを尻目に、男は神崎の屋敷を見上げた。
「『ルル』は強欲な種だ」
感情が伺えない平坦なトーンでそう言って、男は一歩一歩確かめるように足を進めると、神崎の屋敷の門をくぐる。
「それが、自らの破滅を招くことすら知らない愚かな種」
淡々と独り言をつぶやきながら、男は玄関に手をかける。カヤが突然飛び出していったため、鍵はしまっていない。男を招き入れるかのように扉は開き、男は躊躇なく堂々とした様子で玄関にはいった。
「カヤ!? 長かったじゃない」
玄関が開いた音を聞いて慌しく駆けつけてきたのは、カヤの母親だ。シルクの寝巻きが動きに合わせて擦れて音を出す。乾ききっていない湿った髪を振り乱して玄関に姿を現し、そして困惑に顔色を雲らせた。
義娘の姿をとらえるはずの視界に入ってきたのは、青年だ。それも、全く見覚えの無い青年。
「あんた、誰!?」
母親は表情をこわばらせ、そう尋ねた。泥棒とは思えなかった。男は、あまりにも落ち着いた様子で立っている。
「お久しぶり、といったほうがいいですか? 神崎夫人」
「……久しぶり?」
男は、紳士のように優しく微笑んだ。
カヤにどこか似た顔つきをしている男。いや、人種としては同じかもしれない。浅黒い肌に、彫りの深い顔。端整な顔立ちで、まるで王族のような気品があふれている。鋼のような前髪は若干目にかかり、長く伸びた睫毛とぶつかっている。二十代前半と思われる若者は、実に紳士的な雰囲気だ。
だが、男は不気味だった。どう不気味だ、と言われれば説明はできない。ただ、見ているだけでゾッと背筋が凍る。母親は警備の人間を呼ぶことすらできずに、男のその妙なオーラに圧倒されていた。
「きれいなダイヤね」
「!?」
突如として誰かの細い指が耳元にふれ、甘い声が飛び込んできた。気づけば、見慣れぬ女がイヤリングをもてあそぶようになでている。後ろに人などいなかったのに。一体どこから沸いて出たのか。母親は驚愕し、飛び跳ねるように妖しげな女から離れた。
「いつのまに、そこに……!?」
「フフ」
妖艶な女は怪しく目を細めた。
母親はその炎のように煌く赤い目を見つめ、そしてハッとした。
「あら、あなた……どこかで」
すると、男が細い唇を横に伸ばして高いトーンでつぶやく。
「わたしより……彼女のほうが見覚えがおありですか?」
「……え」
男に言われ、母親はもう一度、じっくりと女を見つめた。
色黒の肌。黒く長い髪。ルビーのような目。麻でできた妖しげな衣装。
そして、心の奥で感じている不思議な感情。尊敬でもない。恐怖でもない。――畏怖。
「!!」
その瞬間、神崎夫人は驚愕して目を見開いた。思い出してしまったのだ。この二人と、いつ、どこで会ったのか。
「あなたたちは……っ!!」
母親はやっと状況を把握して、後ずさった。
「思い出してくれましたか?」男は嬉しそうに品のある笑みを浮かべる。「毎朝、電話をさしあげていたのに……声で気づきませんか?」
「……どうして、来たの? 明日、電話すると……」
母親は、恐怖で腰をぬかした。分かったのだ。この男こそ、毎朝、電話をよこしてきた男。ついさっき、カヤを渡せ、と電話してきた男。――そして……約十六年前、赤ん坊を渡してきた男。
「カヤはどこ!?」母親はハッとしてあたりを見回した。「カヤを……もう連れて行ったのね。話が違うわ! 金は……」
その言葉を聞いて、それまで微笑んでいた男の顔が急に冷たい表情に変わった。さっきまでの紳士的な青年とは別人のような、冷酷極まりない表情だ。まるで、感情のない精巧な蝋人形にさえ見える。
「金……金……」と、蝋人形は無機質に言葉を漏らす。
「え……」
「十六年もともに暮らした娘でも、愛情はわかないのか。ほんとうに、わたしは恥ずかしい。
こんな種の王になったことを、心から恥じます」
「……なにを?」
母親の体は小刻みに震え、声はかすれていた。ダイヤのイヤリングがカチャカチャと音を立て、よく手入れされた長い爪は床にリズムを刻んでいる。
恐怖に顔を青くする母親を見下すように男は見つめ、落胆のため息をついた。
「本当に、救いようのない種だ」
「……」
男が何を言っているのかはさっぱり分からない。だが、母親は悟った。もとから、この男は自分たちに金など払うつもりはなかったのだ、と。そして……この男が、どうしてここに現れたのかも。
「だ、誰か……!」
母親は助けを求めようと声をだし、体をひねらせ顔をあげた。そして、息を呑む。目に飛び込んできたのは、さっきまで隣に居たはずの妖艶な女。移動した気配は感じられなかった。なのに、振り返ったら目の前に佇んでいたのだ。
思わぬ出来事に硬直していると、女の紅い目が淡く光を放ち始めた。人の目が光るなんてあり得ない。さらに、こんな状況だ。悲鳴でもあげて逃げるのが妥当な反応なのだろうが、なぜか母親は見とれてしまった。どんな宝石よりも美しい輝きを放つ、その瞳に心まで奪われたようだった。
しかし、母親は分かっていなかった。その瞳に奪われるのは心だけではすまないことを。
それは突然やってきた。急に喉がしめつけられるような痛みにおそわれ、母親は崩れるようにその場に倒れこんだ。
「う……ぐ……!?」
首にはなにもない。だが、確かに感じていた。何かに絞められる感覚を。
「あ……」
ふと、紅い眼の女を見上げた。助けを求めようと。
だが、母親は思いもよらないものを目にした。化け物だ、と思った。
眼を紅く光らせるバールの髪は、まるで生きているようにうごめいている。よく目をこらせば――まとめられている髪の一束一束が蛇の頭をもっていた。バールと同じ紅い目をもつ蛇たちは、母親をあざ笑うかのように口をあけて蠕動している。
「『ルル』の王たる、わたし……フォックス・エン・アトラハシスは決めたのです」と、もがき苦しむ母親を見下ろしながら男は冷静に低い声で語りだす。「彼女のためにも、『ルル』は滅ぶべきだ、と。あなたも、例外ではない」
男――フォックスは優しく微笑みながら、神崎夫人が息絶えるのを見つめていた。無事に冥府へと旅立てるように、と祈るような穏やかな眼差しで。