疑心
タールは、近くの駐車場に止めていた車に乗り込んだ。車の後部座席の扉にはへこみがある。
運転席に座ると、アタッシュケースからライターを取り出した。ゆっくりとタバコをくわえ、火をつけ、一服する。
「お嬢様はおとなしかったか、レッキ?」
煙を出しながらそうたずねると、助手席に座っていたレッキは「うん」と後部座席を振り返った。
そこには、青ざめた顔で座っているナンシェがいた。髪は乱れ、顔や体にはあちこちあざがある。
「待たせて悪かったな。目的地が決まったよ」
「……エノク様は」
ナンシェは震えながら、消え入りそうな声でそういった。それが今、彼女がだせる精一杯の声量だった。
「あぁ、エノクね。かわいらしい人だったよ」
「……」
「冥府にお送りした」
「!!」
***
なんてことを……
わたしは、頭が真っ白になった。これでも、神の一族だというの?
タール・ニヌルタ・チェイス。『ルル』を嫌う神、『エンリル』の子孫。わたしたち、マルドゥク家と対立する一族の王。
彼は、アトラハシス一族を皆殺しにして……そして、わたしの親戚も皆、殺した。
わたしも、殺されると思った。でも、命がおしければ黙って言うことを聞け、と脅されて……こんなところまでつれてこられた。
逃げなきゃいけない。それは分かってる。でも……怖い。ここに来るまでの間、さんざん恐怖をうえつけられた。今では、逃げようと思うだけで、足がすくんでしまう。
それに……。わたしは、助手席にすわっている少年を見つめた。姿はケット様によく似ている。違うのは髪と目の色だけ。あとは双子のようにそっくりだ。つい、見た目に惑わされて、助けを求めてしまいそうになる。でも……彼はわたしの味方じゃない。
彼こそ、『エンリル』のエミサリエス。名前は、レッキというらしい。
ニヌルタは、彼にいつもわたしの監視をさせてる。さっきだって、エノクと会いに行く、と言って、わたしをレッキに任せて車から降りていった。
何度か、逃げようかと思った。逃げなきゃいけない、て。でも、そのたびに
――やめて。
レッキはわたしに言った。その言葉は、脅すわけでもなく、無関心でもなく……寂しそうだった。
「ナンシェお嬢様よ」
「!」
タバコを一本すい終わったころに、タールは言った。皮肉まじりの言い方で。
「なんて顔してるんだ?」
「え……」
「顔色が悪い。どうかしたか?」
「……!」
分かってるに決まっている! なのに、わざわざ聞いてくるというの?
わたしは、あざだらけの両手をぎゅっとあわせた。
わたしはマルドゥクの女。恐怖になど負けてはいけない。強くなくてはならない! すうっと息を吸った。
「エノクは……偉大なる預言者。永遠の秩序を知るお方。そんなお方を、あなたはよく……!!」
「はははははは!!」
ニヌルタは、大声で笑って、ハンドルをたたいた。
「それを君が言うか」
「……」
「エノクの居場所を教えてくれたのは君だろ」
ぐっと喉がしまったように息がつまった。
どうして、この人は……
「君は、自分の命惜しさに、エノクの居所を話した。
なんて偽善者だ」
「……っ」
どうして、この人は……人の罪をほりだすの?
ずっとためていたかのように、涙が次々にこぼれだした。
つらいのは……それが、本当だからだ。
わたしは、エノク様の居場所を彼に話してしまった。小さい頃、リチャードおじいさまに、『困ったときはここをたずねなさい』と、エノク様の居場所を教えてもらっていた。でもまさか……こんなことになってしまうなんて。
エノク様を殺したのは……わたしだ。
「リチャード・マルドゥクがエノクを探し出した、という噂は聞いていたからな。マルドゥクを根絶やしにするついでに、聞き出そうと思ったんだ。一族の誰かは知ってるはずだと思ったからな」
ニヌルタは車の鍵をポケットから出し、エンジンをかけ始めた。
「そしたら、ある女が言ったんだよ」
なにを……話し出すつもりなの?
「ナンシェという娘が知ってるはずだ、と」
え……
心臓が、どくん、と鼓動をうった。それは、ありえない。リチャードおじいさまは、誰にも内緒だ、て言ってた。一族にも内緒だ、て。わたしがエノク様の居所を知っていることは……誰も知らないはず。
「その女はな、ナンシェが知ってるはずだ。リチャードの一番のお気に入りはあの子だから、と。命乞い代わりに言ってきたよ」
「!」
「なんだ、その理由は? と思ったが……本当だったなぁ!」
お気に入り……? そんなこと、初めて聞いた。それは、とてもかわいがられたけど……。ほかの皆に、そんな風に思われてたなんて……
「お前、一族の中で、相当評判悪かったみたいだな」
「え……」
ニヌルタは、たたみかけるようにそう続けて、また大笑いをした。気分よさそうに鼻歌を歌いながら、アクセルを踏んだ。車が動き始める。
わたしは、呆然としてしまった。
一族の中で、争いごとが絶えなかったのは知ってる。でも、わたしは剣の継承者じゃなかったし……反感を買うようなことなんて、したことない。と、思ってた……
わたしはもしかして……一族のこと、なにも知らなかったんじゃないんだろうか。リチャードおじいさまのお気に入りだから、ちやほやされてただけ?
もう皆、いない。確かめることなんてできない。でも、もしそうだったとしたら……わたしは―――。
「……あ」
ふと、リストちゃんの顔が脳裏をよぎった。そうだ。リストちゃんは?
リストちゃんも、もしかして……わたしがリチャードおじいさまのお気に入りだから、わたしに優しくしてくれてただけ? それとも、リチャードおじいさまに言われたの?
嫌だ。考えたくもない。
わたしはぎゅっと体を丸めた。
怖い。リストちゃんと会うのも怖い。確かめる勇気も、わたしにはないよ。
「……」
涙が、頬の傷にしみた。
「泣くのは、まだ早いぜ」
「え」
ニヌルタは、軽い口調で言った。
今度は……何を言い出すつもり?
「お前は、俺の切り札だ」
ニヌルタの冷酷な表情が、バックミラーにうつっていた。
背中に寒気が走った。この人、まだ何かをしでかすつもりだ。
「まだ……まだ、わたしに何かさせるつもりですか!?」
「そのために生かしてるやってるんだろ。頭悪いの?」
ニヌルタは冷たく言った。