同じ想い
私はふらりと立ちくらみがして、椅子に寄りかかるように手をかけた。
全てが繋がった気がした。
「全部、あなただったの? あなたが……ストーカーの正体?」
目の前で涼しい顔で佇む男を、私は呆然と見つめた。
そう。始まりは、久世先輩だったんだ。お祭りに二人ででかけた次の日、大やけどを負った、て学校で聞いた。病院にお見舞いに行ったら、もう関わらないでくれ、て怒鳴られて、そのときはわけも分からず、家に帰ったけど……それから、『呪い』が起きるようになった。私に関わった男の人は、皆、大怪我をするようになっていった。周りも勘付いて、避けられるようになって、私は孤独になった。そうして、何度も何度も転校を繰り返して、そしてーー和幸くんに出会ったんだ。
「でも、どうして?」と私は必死に自分を落ち着かせながら、フォックスと名乗る男に訊ねた。「どうして、急に何もしなくなったの? 和幸くんと……カインと何か関係があるの?」
すると、くすりと傍で笑う声がした。
「あなたの恋人の彼にも、一応、呪いはかけたのですけれど。マルドゥクの坊やに『聖域の剣』であっさり解かれてしまったのですわ」
「聖域の剣……」
ふっと脳裏をよぎったのは、聖女と呼ばれていた少女。名前は、たしか、ナンシェ。リストくんによく似た、『聖域の剣』を持つ人。
ぎりっと拳に力がはいった。
「バールを通して、事情は把握している。今度のマルドゥクの王、ナンシェは彼を……君の愛するルルを救うことを拒んだようだね」
心を読まれたようだった。ぎくりとしてフォックスに振り返ると、彼は気遣う風でもなく、落ち着いた面持ちで私を見つめていた。その事実に、なんの感情も抱いていない、とでも言いたげに……。
思わず口を開いて、私は固まってしまった。
出てこなかった。『和幸くんを助けて』という一言が。それを言うために、天使についてきたというのに。怖くてたまらない。また拒まれたら、と思うだけで絶望に体が竦む。この人にまで拒絶されたら、私にできることはもうなにもないのだから。
私に残された『味方』は、目の前のこの人だけ。得体の知れない、私の『家族』。呪いという一方的な方法で私を守ってきたという彼。本来なら、警戒すべき相手なのかもしれない。こうして頼るなんて危険なことなのかもしれない。でも、もう彼にすがるしかない。もう、私には彼しかいない。
もし、彼に拒まれたら終わりだ。
和幸くんは明日、殺されてしまう。体の中身も空っぽにされて。それでも……それを分かっていても、私には何もできないーー。
気が遠のくようだった。恐怖に身体が絡め取られていく。ガタガタと唇は震えるだけで、声もでない。
そのときだった。
「君が望むなら、わたしがマルドゥクを説得しよう」
思わぬ言葉だった。
「は」と驚いた声は、私ではなく、彼の天使のものだった。
「なにをおっしゃっているのですか? マルドゥクの聖女ははっきりと『できない』と言ったのですよ。お伝えしたはずですけれど」
「問題ありません。条件を出します。決してマルドゥクの拒めない条件を」
「条件……?」
あたりに不穏な空気が漂った。ぴりっと肌に突き刺さるようなオーラが伝わって来る。緊張……というより、警戒? 明らかに、天使からだ。主の提案を快く思っていないのがはっきりと感じ取れた。ちらりとでも天使の様子を伺うのさえ、恐ろしいほどに。
しばらく、沈黙があった。二人の間で無言のやり取りでもあったかのような間。そして、天使がハッと息を吞むのが聞こえた。
「フォックス……あなた、何を考えているの? あれを渡すというの!?」
「他に方法はありますか?」
さらりとそう言って、フォックスは私をじっと見つめてきた。無垢とでもいえばいいんだろうか。なんの感情も伺えないかのような、まるで邪気のない潤み色の瞳が私を見据えていた。
「君の愛するルルを救えるのは『聖域の剣』だけなのでしょう?」
焦りと興奮に突き動かされるように、私はただ夢中で何度も頷いた。
「では、決まりですね。バール、マルドゥクのもとにもう一度赴いていただけますか」
「本気……ですの?」
「必要であれば、マルドゥクたちに力を貸してやりなさい。そのために自由に力を使うことを許可します」
「そこまでするというのですか?」
呆れ果てたような声でそう言ってから、バールという天使は観念したようにため息ついた。
「もう……分かりましたわ! わたくしはあなたの僕。あなたの意のままに。どうなっても知りませんわよ」
本当に……? 本当に、救ってくれる? 和幸くんを助けてくれるというの? 信じられなかった。目の前で起きている出来事に実感が湧かない。なんと言えばいいかも分からず、呆然としていると、「パンドラ」とバールの呼ぶ声が聞こえた。
ハッとして振り返ると、バールは腰に手をあてがい、不敵に微笑んだ。
「ねぇ、言ったでしょう。フォックスはあなたの味方だ、て。あなたのためなら、あの方はなんでもしますわよ」
茶化すようにそう言ってから、バールはどこからともなく立ち上ってきた黒い煙に包まれていった。
「パンドラ。安心なさいな。あなたの愛する坊やは必ず、救ってさしあげますわ。それが我が主の望みのようだから」
そんな声だけ残し、煙とともに風にさらわれるようにバールの姿は消えた。
本当に……向かったんだ。ナンシェというあの子のもとに。和幸くんを救うために。
「どうして……」
ぽつりとそんな言葉がもれていた。
「どうして、ここまでしてくれるの?」
私はフォックスを見つめ、そう訊ねていた。
訊ねずにはいられなかった。そうでないと、また不安に取り憑かれそうだったから。この人にも裏切られて、また和幸くんを失うことになるんじゃないか、て。今はもう彼にすがり、信じるしか道はないのは分かってる。でも……でも……。
これが疑心暗鬼というのだろう。恐ろしくてたまらないんだ。信じるということが、もう苦痛でしかない。誰かを信じることが、どれだけの代償を伴うものなのか、私はもう知ってしまったから。
「和幸くんを助けても、あなたにはなんの得もないはず。失敗したとはいえ、あなたは一度、和幸くんにも呪いをかけていた。あなたにとっては、和幸くんも邪魔な存在だった、てことなんでしょう?」
「たしかに、そうだ」とフォックスはためらいもなく答えた。「わたしはあのルルになんの思い入れもない。だが、君は彼を愛している。彼は君には必要な存在だ。彼を救えば君が喜ぶ。だから、助ける。それだけだ」
淡々と、当然のように語られたその理由に、私はあっけに取られてしまった。
なんて単純な……。嘘だとすれば、なんと稚拙な嘘だろう。疑うことすら、躊躇われるほどに。
「私が喜ぶから……それだけ?」
「それだけでわたしには充分だ」
ふっとフォックスの口元に浮かんだそれは、紛れもなく笑みだった。朗らかで、優しげなその笑みに、私は胸が熱くなるのを感じた。
なんだろう、これ。するりと体の緊張が解けていく。不思議な安堵感に包まれる。親しみが込み上げてくる。懐かしい心地がするーー。
「君より大事なものは、わたしには何もない。この世界すら、わたしにはどうでもいい。君が望むなら、わたしはなんでも叶えよう」
その言葉にぞくりとしてしまった。
知ってる、と思った。その気持ちを私には手に取るように理解できる。それは……私が和幸くんに抱いている想いと同じだ。
私もそうなんだ。私にはもう和幸くんしかいない。この世界で大切なものは和幸くんだけ。和幸くんが望むなら、私はこの世界だって滅ぼせる。
彼も一緒なんだ。この世界で、他に大切なものは何もないんだ。
「だから」と、フォックスは私にバスタオルを差し出してきた。「君は風呂に浸かって、少し休みなさい。あとは、わたしとバールに任せて待てばいい」