契約の始まり⑦
すっと一歩踏み出し、石畳の道から外れる。屋台の間を通り抜け、その奥に広がる雑木林を進んでいくと、祭りの明かりは木々に遮られ、たちまち辺りは不気味な暗闇へと変わっていった。
ほんのすこし離れただけで、祭りのにぎわいは他人事のよう。静まり返った林の中で、フォックスはスラックスのポケットからケータイを取り出した。
仕事の連絡くらいでしか使わなかった電話。誰の連絡先が入っているわけでもない。仕事のやり取りは全て消してしまうから、通話履歴もメッセージもなにもない。空っぽのケータイだ。必要な番号は、フォックスの頭の中にしっかりと入っている。一つは、仕事の取引相手の電話番号。そして、もう一つは――。
ゆっくりと、確実に、フォックスはとある番号をケータイに打ち込んだ。暗がりで光るケータイの画面を耳に当てると、コール音のあとに、やがて、女の声がした。
「はい、神崎ですが」
無愛想に、女の声はそう言った。
「お久しぶりです」とフォックスは落ち着いた声で紳士的に答える。そして、なんの前置きもなく、こう訊ねた。「カヤは今、どこにいますか?」
「お久しぶり? あなた、どちらさま? 娘の友達かしら?」
「いいえ。十四年前、あなたがた夫婦にカヤを預けた者です」
唐突な告白に、電話の向こうで女は黙り込んだ。
言葉がでなくて当然だ。十四年前の『商談』以来、いっさい連絡などしたことがなかったのだから。こうして話すのは十四年ぶり。しかも、当時はペルシャ語で、簡単な挨拶のみ。こうして日本語で会話をするのは初めてのことだ。
「もう一度、聞きます。カヤは今、どこにいますか?」
「カヤは――って、なぜ、そんな……急に……」
「カヤは今、どこにいますか?」
女の――神崎舞のはっきりとしない返答にも、あくまで冷静に、だが執拗にフォックスは再びそう繰り返した。
ようやく落ち着きを取り戻したのか、舞はしばらく間をあけてからこう答えた。
「カヤは、友人と出かけているわ」
口調だけは気丈そうに振舞ってはいても、声は上擦り、動揺しているのは明らかだった。
「なぜ、そんなことを聞くの? 引き渡すのは十七歳の誕生日だったわよね?」
「友人……」と、ぽつりとフォックスはつぶやいてから、脅すような低い声色でさらに問いを続ける。「それは、男、ですか」
電話の向こうで、舞は「えっ」と怯えたような声を漏らした。
「どうして、それを……」
「分かっていたんですね。今夜、出かける『友人』が男だ、と」
「あなた……あなたこそ、どこにいるの!? まさか、近くで監視でも――」
「今すぐカヤに電話をして、呼び戻してください」
「は……? なにを言っているの?」
「わたしは、カヤを穢すな、とそうお願いしたはずです」
「穢すって……ただのデートよ? デートも禁止しろ、て言うの? 無茶を言わないでちょうだい! カヤももう十四なのよ!? デートくらいするわ!」
「無理だ、というなら仕方ありません」
あっさりとフォックスはそう答え、ゾッとするほどに無機質な声でこう続けた。
「あの子が穢れるようなことがあったとき、あなた方には命をかけて償っていただきましょう」
「命って……」
突拍子もない脅し文句。それでも、フォックスの声色から、彼が本気だということはしっかりと伝わったのだろう、さっきまで電話口から飛んできていた舞の怒号はぴたりと止んだ。
「今すぐ、カヤを家に呼び戻してください」
念を押すように、フォックスは再びそう告げる。丁寧な口調とは裏腹に、有無を言わさぬ強い語調で。
「分かったわ」しばらくして、舞は負けを認めるように弱々しく答えた。「今夜のことは、なんとかする。でも、正直……限界があるわ。カヤだって年頃の女の子だし、もう子供じゃない。私たちにできることは限られている。たとえ、女子校にいれようと、どこかで男と知り合うでしょう。完全に男との接触を断て、というのは……」
「そうですね」
舞の苦悩に満ちた声を容赦なく切り、フォックスは顔色一つ変えずにすんなりと同意した。
「では、わたしが手を貸しましょう」
「手を貸す……!?」それは想像もしなかった申し出だったのだろう。焦りもあらわに、舞は裏返った声で聞き返してきた。「手を貸すって……何をする気!?」
「今後は、毎朝、カヤの無事を確かめることにします。必ず、わたしからの電話には出るように」
「毎朝って、そんな――」
舞の問いを無視し、フォックスは一方的に締めくくると電話を切った。
再び、静寂が戻った暗闇で、フォックスはふうっとため息をつく。ケータイの電源を切り、ポケットにしまうと、人気のない雑木林の中でぽつりと名を呼んだ。
「バール」
己の僕、人々に不吉をもたらす天使の名を――。