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終焉の詩姫  作者: 立川マナ
第六章
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契約の始まり③

 「さあ、とにかく、ここを離れましょう」


 全ての元凶ともいえる人売りの男の様子を伺いながら、バールは立ち上がって言った。男はあまりの出来事に腰を抜かしたようで、あんぐり口を開けて座り込んでいる。突然、床から女が現れ、自分が売ろうとしていた子供を『あるじ』と呼び、自分の仲間たちを一瞬にして動かぬ肉塊へと変えてしまったのだ。理解を越えた恐怖に直面し、思考すら止まって、逃げることも叫ぶこともできずにいるのだろう。


 「この状況、人目に触れたら厄介ですわ。いまのうちに、はやく……」


 そうせかすバールだったが、フォックスは一向に動く様子がない。パンドラを見下ろし、なにやら考え込んでいる。


 「フォックス?」


 不穏な思考がフォックスからバールへと伝わってきていた。


 「なにを……考えておられるの?」

 

 やがて、フォックスはくるりと身を翻すと、男に対峙した。

 男は自分を覆う小さな影に気づくと、ハッとして顔を上げた。


 「あなたと取引したい」と、赤子を抱いた少年が大人びた冷静な口調で持ちかける。「さっきのカンザキとかいう夫婦に、この子を売ってほしい」

 「フォックス!?」


 ぎょっとして、バールが男より先に驚愕の声を上げた。


 「ついさっき、そのお人形を取り返したばかりではありませんか! 売るって、どういうことですの!? そのお人形を守る、と言ったのはなんだったのです!?」


 天使とその主の心はつながっている。心の中で会話もできるし、天使は主の思考を読み取ることもできる。だが、逐一、主の考えを事細かに把握できるわけではない。人の心の情報量は膨大で、天使といえど、一瞬で解析できるようなものではないのだ。主がそう望まない限りーーつまり、心の声で天使に呼びかけ、会話をしようとしない限り、天使に伝わってくるのは、主の感情や強い意思だけ。だから、フォックスがとんでもないことを考えていることだけはバールにも分かったが、その奥にある真意というものまでは読み解くことができていなかった。


 「守りたい。だから、手放さなきゃ」

 「意味が分かりませんわ」

 「僕じゃ、守れない。だから、守れる人に預けるんだ」

 「守れる人って……あのカンザキという者達ですか? 彼らが何者かも分からないのに。少なくとも、赤子を買おうとするような人物ですのよ? 信用できますの!?」

 「この世界は神の救いもない、無慈悲な世界。ルルは良心を失い、憐れみも忘れ、己の欲望に囚われた奴隷に成り下がった。それを僕はこの目で見てきた。だから、言えるんだ。この世界で何かを守れるのは、『赤子を買おうとするような人物』なんだ」


 フォックスの意図が分かったのだろう、バールは「あ」とぽかりと口を開け、固まった。

 フォックスは緊張の面持ちで男を見つめながら、確かな口調で続ける。


 「ここはそういう奴らが支配している世界。ここで信用できるものがあるとすれば、それはルルの欲望だ」

 「さすが……」バールは動揺が残るひきつり笑みを浮かべながら、恍惚したようにつぶやく。「我が主、ですわ」


 全てに納得がいった様子のバールの向かいで、全く状況が理解できていない男はガタガタと震える手をフォックスに掲げながら、「待て」とかすれた声を絞り出した。


 「お前は……お前達は、なんなんだ? ただの孤児だったんじゃないのか? 王って、なんだ? あの三人に……何をした?」

 「あなたの質問に答える義理は、我が主になくてよ」


 クスリと不気味なほど愛嬌よく微笑みながら、バールは男の疑問を一蹴した。ちょこんとしゃがみこむと、すっかり怯えきった男の瞳を食い入るように見つめて続ける。


 「あなたはただ、取引に応じればいいだけ」

 「取引って……その赤ん坊を売ることか……?」

 「売る、というよりは、預ける、なのかな」と、フォックスがつぶやくように口を挟む。「この子を『収穫の日』……いえ、十七歳の誕生日まで、 大切に育てること。そして、十七歳になったこの子を、傷も穢れもないまま、僕らに返すこと。それを条件に売るんだ」

 「無茶だ!」


 目を剥き、条件反射のように男は即答した。


 「そんな条件で誰が赤ん坊を買う!? 無傷で返さなきゃならんものが売れるか!」

 「条件通り、十七歳のこの子を無事に返してくれれば、報酬ははずむ。どんな報酬でもいい。お金ならいくらでも出す。そう伝えてくれて構わない」


 バールは眉をひそめ、フォックスを一瞥した。さらりと、何のためらいもなく嘘を口にした主を……。

 報酬なんて払う気はないことは、心を読まずとも明らかだろう。今後、大金が手にはいる心当たりもなければ、そもそも、フォックスは今さっき、世界を滅ぼす意志をはっきりと宣言した。パンドラが十七歳の誕生日を迎えれば、その先には何もない。金も、約束も、世界とともに消えるだけだ。少なくとも、フォックスはそのつもりだろう。彼にとって、約束なんてなんの意味も持たなくなった。なんの躊躇もなく、果たせるわけもない約束を口にできるのも、そのあらわれに違いなかった。


 「そんな、なんの保証もない報酬を提示して、乗るわけがないだろう! 十七年後の報酬をどう信じさせる!?」

 「いいから……売って。人を売るーーそれがあなたの仕事なんでしょう」


 静かに、だが、重々しく、少年の声は響いた。

 深みのある黒い瞳がじっと男を見つめていた。まるで、映るものすべてを吸い込み、溶かしていってしまいそうな、そんな虚ろで虚しい闇が、その奥に広がっているようだった。

 果てしなく無垢で純潔。だからこそ、闇に染まるのは一瞬だったのだろう。ついさっきまで、世界に絶望し、孤独に怯えていた少年は、ただならぬ威圧感で人売りの男を圧倒していた。

 

 「無茶な……」と弱々しく繰り返す男に、フォックスは無機質な声で告げた。

 「できないなら、あなたには用はない。他の三人のようになるだけだよ」


 ぞっと男は顔色を失くした。「あぁ……」と絶望に打ちひしがれた弱々しい声が、カサカサに乾いた唇からこぼれる。

 フォックスの脅しをーーいや、彼の『取引』の意味をようやく、理解したのだろう。


 「僕らも立ち会う。さっきの条件で、カンザキにこの子を売って。命がけでね」


 幼い子供が口にした『命がけ』という言葉は、男がこれまで人身売買で得た莫大な財産を前金・・としてカンザキ夫婦に差し出させ、十七年後の報酬をカンザキ夫婦に信じさせるに充分なものだった。そして、『十七歳まで、傷一つつけず、穢すこともなく、育てる』という条件で、パンドラはカンザキ夫婦のもとに預けられた。

 日本へ連れ帰った赤子に、カンザキはカヤという名を与え、条件通り、大切に育て始めるのだったーー。

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