契約の始まり①
たった今、自分の天使が心を通じて伝えてきたことが理解できなかった。
——早く、『お人形』を連れてここから逃げるのです。このままではあなたたち二人は、あのニホン人に売られてしまいますわ、フォックス!
売られる? なぜ?
フォックスは大きく純真そうな目を見開き、目の前で何やら熱心に相談をしている大人三人を見つめた。
一人はイラン人の男。ふっくらとして恰幅がよく、口の周りにびっしりと髭をはやした中年の男だ。いつもニコニコとして、しっかりと瞳を見たこともないほどだった。彼こそ、フォックスとその腕の中でぐっすりと眠る『災いの人形』を拾い、今まで面倒を見てくれた恩人だ。フォックスたちに身寄りがないことを知ると、『力になってくれる人がいる』と言い、南部にあるとある港町に連れてきてくれた。そうして、紹介されたのがニホン人夫婦だった。ひょろりと痩身の身なりのいい若い男と、現地の習わしに従ってスカーフで髪を隠し、気品に満ちた微笑を浮かべる女。彼らは『カンザキ』というらしい。
短くペルシャ語でフォックスと挨拶を交わすと、カンザキは男と英語で会話を始めた。英語の分からないフォックスは、ただ突っ立って待っていた。彼の天使であるバールが、心の声で忠告してくるまでは……。
天使には、神が人類に与えた『枷』である『言葉の壁』は存在しない。彼らがどんな言語で話そうと、バールには筒抜けだった。彼女にはすぐに分かった。フォックスの目の前で始められたそれが、『商談』であること。
「どういうこと……?」困惑のままに、フォックスは思わず、天使への疑問を口に出していた。「僕らが売られる?」
ひっきりなしに喋り続けていた男の声が突然、止んだ。男はぐるりと振り返ると、フォックスをじっと見つめた。その顔にはいつもの笑みはなく、フォックスは初めて、男の瞳をしっかりと見た。黒々としたその瞳には、まるで深淵を覗き込んでいるかのような果てしない闇が詰まっていた。
「お前、英語が分かるのか」
男は不気味なほど感情のない小さな声でつぶやいた。
フォックスはぞっと背筋が凍りつくのを感じた。その瞬間、悟った。この男はずっと自分たちを騙していただけだ、と。
己の天使を信じてなかったわけではない。でも、それよりも信じたかった――人の『善意』というものを。
しかし、またしてもフォックスは裏切られた。神も人も、どれだけフォックスが信じようとしても裏切るだけ。この世界はただただ汚く、人類は醜い。何度もそれを思い知らされる。
フォックスはぎゅっと『人形』を強く抱きしめると、男に背を向け、その場から逃げ出した。
「待て!」
男の怒鳴る声が背後から追ってくる。フォックスは必死に部屋から飛び出し、ホテルの廊下を階段めがけて駆け抜けようとした。が、すぐにフォックスの足は止まった。
——フォックス。
心配そうな天使の声がした。
廊下には三人の男たちがフォックスを待ち構えていた。どれも見覚えのある顔だった。彼らは、この港町に暮らす男の『友達』だ。少なくとも、出会ったとき、男にそう紹介された。男の魂胆が分かった今、男と彼らとの関係がそんな単純なものだとは思えなかったが。
カンザキの部屋は角部屋で、廊下に出てしまえば逃げ道は一つしかなかった。男たちに立ちはだかられ、背後にも退路はなく、行き場を失ったフォックスは立ちすくむことしかできなかった。
——フォックス、フォックス! わたくしの名をお呼びください!
天使がそうせかす声は確かに聞こえてきたが、フォックスは口を引き結び、その名を呼ぼうとはしなかった。天使の名を呼ぶこと――それは、天使を呼び出し、その力を借りることだ。どれだけ幼くても、フォックスは今やルルの王。バールを呼び出し、目の前の男たちに呪いをかけて退けることなどやろうとすれば容易い。だが、フォックスはためらっていた。
この場を退けたとして、そのあと、どうなる? たとえ、天使の力があっても、こんな世界で、家族も金も、そして神の加護すらない子供二人が生き延びていけるのだろうか。また、飢えと喉の渇きに苦しみながら、死にかけの『人形』を抱いてさまよう日々が戻ってくるだけではないのか。『人形』に宿ると言われる怪物の恐怖に怯えながら……。
いっそのこと、もうここで終わりにしよう――そんな気持ちがふつふつと心の奥底から湧いてきていた。
神も、その騎士たるマルドゥクも、助けてはくれない。自分以外のアトラハシスの一族は死に絶え、こんなにも苦しんでいる自分のもとにもその救いの手が伸びてくることはない。神はアトラハシスを見放したのだ。なぜ、そんな神に尽くさなくてはならない? なぜ、その使命を全うしなければならない?
そうだ――と、フォックスはある矛盾に気がつき、視線を落とした。そこには、布にくるまれ、フォックスの腕の中でぐっすりと眠る赤ん坊がいた。神から『パンドラ』という名を与えられた『災いの人形』。この世界を滅ぼすためだけに創られた忌むべき存在。この『人形』を『収穫の日』まで守り、監視することがアトラハシスの一族の役目であり、その王たるフォックスの使命だった。だが、なぜ、この『人形』を守らなければならない? この『人形』を守る必要がどこにある? 使命だから、と疑問をもつこともせず、ただ、『人形』を守らなければ、と必死だった。だが、神への信仰心というものを失った今、まるで洗脳が解けたかのように、フォックスの幼い心にはドス黒い煙のごとく疑問が噴き出し始めていた。
そして、唐突に、ある『結論』が生まれる。——一人なら、生き抜ける。
——フォックス!? 何を考えているのです?
フォックスの考えは全て、彼の天使には丸聞こえだ。彼の結論にバールは動揺を心の声で訴えた。
幼い心が導き出した『結論』は、残酷にも単純明快だった。『人形』を捨てる、というもの。世界を滅ぼす『災いの人形』といえど、まだ一人では何もできない赤子。フォックスにとっては重荷でしかなかった。しかも、『災いの人形』にはムシュフシュという怪物が宿っていると言われている。『人形』の身に危険が及ぶとその怪物が現れ、その場にいる全ての人間を食い殺すという。アトラハシスの王といえど、フォックスも例外ではない。衰弱していく『人形』を抱きながら、いつ、その怪物が現れ、食い殺されるのか、とフォックスは怯えて過ごしていた。『災いの人形』を抱いて彷徨った数日間、身はやつれ、心もすり減り、生きた心地がしなかった。
『人形』さえ手放せば、楽になれる。使命からも解放され、ニヌルタやムシュフシュの脅威からも自由になれる。自分一人だけなら、バールの力を使って、なんとか生きていけるだろう。『人形』さえ手放せば――。
「こいつ!」
背後で突然、怒号が響き、フォックスははっと我に返った。
「そのガキ、捕まえろ! 全部、知られた」
その言葉を合図に、フォックスの前で立ちはだかっていた男たちが一斉に動き出し、フォックスをあっという間に取り押さえてしまった。
「離せ!」
いくらもがこうと、大の男三人の手を振り解けるわけもない。男たちの手はしっかりとフォックスの腕を掴んで離さない。やがて、その内の一人の手が『人形』へと伸びる。
「赤ん坊は丁重に扱え!」と、男の忠告する声が飛んでくる。「それは女だ。いくらでも高く売れる」
「分かってるよ」
男の『友人』は今にも笑い出しそうな声で答え、フォックスの腕から『人形』を取り上げた。
ふっとフォックスの腕から重みが消える。『パンドラの箱』が開かれたあの日から、ずっと抱えてきた重みが――。
これでいいんだ、と連れて行かれる『人形』を見つめながら、フォックスは心のなかで唱える。使命なんてどうでもいい。『裁き』なんて知ったこっちゃない。こんな世界がどうなろうと、自分には関係ない。『人形』の中に宿る化け物が、どれだけ人を食い殺そうと構うものか。この世界は汚く、人間は醜い。守る価値も、救う意味もない。
これでいい、これでいいんだ――そう何度も何度も、フォックスは心のなかで繰り返す。まるで、自分に言い聞かせるように。そうでもしなければ、今にも叫びだしそうだったから。
フォックスには理解できなかった。己の出した『結論』に納得したはずなのに。『人形』さえ手放せば、楽になれることは間違いないのに。それなのに、なぜ? なぜ、こんなにもつらい?
脳裏によぎるのは、『人形』の顔だった。泣き顔ばかり見てきた。粉ミルクも満足に手に入らず、『人形』はいつも飢えて泣いていた。いくらなだめようとしても泣き止むことはなく、『人形』が泣き疲れて眠るまでフォックスも泣いた。『人形』と彷徨い歩いた数日間は、そんな毎日だった。うんざりした。疲れ果てた。でも、たまに、寝ている『人形』が口元に笑みを浮かべることがあった。それだけで、笑みがこぼれた。
そうだった、とフォックスは唐突に思い出す。飢えに苦しみ、死の恐怖に苛まれ、救いのない世界に絶望しながらも、自分は微笑むことができた。家族を奪われ、神にも裏切られ、信じるものを見失っても、それでも、自分は孤独ではなかったから。まだ、孤独ではない。
フォックスはかっと目を見開き、『人形』を奪った男を睨み付けた。
「バール!」
天使を呼ぶ幼い王の声が、辺りに響き渡った。