聖女と人形 -3-
血まみれで佇む彼女を、わたしは美しいと思った。そして、おそろしい、と……。
ああ、これが神の理想。神の最高傑作。高嶺の花、なんてものじゃない。ルルが触れてはいけないような、そんな崇高な『美』。これが『災いの人形』、パンドラ。わたしが破壊しなくてはならない『モノ』。神によって意志を与えられた『人形』。この世界を滅ぼすための神の『兵器』。ルルの『災い』。そんな彼女が、わたしに言った。必死に。すがるように。
「お願いします! その『剣』で、和幸くんを助けてください!」
「かず……ゆき……?」
その名前には聞き覚えがあった。ケットたちがよく口にしていたから。パンドラの恋人の名前だ。彼女の正体をーーこの世界を滅ぼす『人形』だと知りながら、彼女を愛していたというルルの男。
「私の……大切な人なんです」と、今にも泣き出しそうに、美しい顔を歪めて『人形』は続けた。「ずっと意識が戻らないんです。このまま、意識が戻らなければ、明日、殺されてしまう! だから、お願いします! あなたの『剣』で彼を救ってください!」
「殺される……? いったい、誰に……」
「彼さえ生きていてくれれば、それだけでいい。それ以上、私は何も望まない」よほど興奮しているのか、『人形』はわたしの問いなど聞こえない様子で、瞼を閉じて祈るように続けた。「私はただ、彼に生きていてほしい。この世界で……彼に幸せになってほしい」
『人形』のその祈りにも似た懇願に、目眩がするほどの違和感を覚えた。
この世界を滅ぼす使命を持つ『人形』が、この世界に生きるルルの幸せを願う?
「理解……できない。あなたは『パンドラ』。この世界を裁くために創られた『人形』でしょう。あなたの使命は、この世界を滅ぼし、ルルを一人残らず消し去ること。そんなあなたが……」
「私はパンドラじゃない!」かっと目を見開き、『人形』は悲鳴のような怒号を響かせた。「私はカヤ。神の人形なんかじゃない。私は……この身も心も、彼に捧げた。『裁き』なんて……使命なんて……どうでもいい! 私はただ、和幸くんと一緒にいられたら、それでよかったのに……!」
何もかもまがい物のはずの『人形』のその声からは、確かに『魂』というものを感じた。ぐっと胸に突き刺さる、魂の叫び。
ガタガタと身体が震えていた。何か得体のしれない感情がこみあげてきていた。怒り? 畏れ? 同情? 戸惑い? 違う。これは……この気持ちの悪い衝動は、なに? その正体が何なのか自覚するよりも先に、それは口からこぼれ出ていた。
「使命なんてどうでもいい? どうして、あなたがそんなことを言うの!? あなたのために……あなたのせいで、犠牲になった人たちはどうなるの!? わたしたちの使命はなんだっていうの!? あなただけ、勝手に使命を捨てるなんて赦されると思っているの!? わたしだって……」
言いかけて、わたしはハッとした。頭にのぼった血が、さあっと一瞬にして引いていくようだった。
わたしは、今、何を言おうとしたの? 『わたしだって』、なに?
「なにをそんなに熱くなっているのか、存じ上げませんが……」と、呆れ顔でバールが口を挟んできた。「あなたのおっしゃる『使命』は、『ルルを守ること』、ではありませんの? 『聖域の剣』で救うルルに制限などないはず。こうやって、救いが必要なルルがいるというのですから、助けて差し上げたらよろしいじゃありませんか」
そんなバールの助け舟に、険しかった『人形』の表情が少し和らいだ。どこかホッとした様子でバールを一瞥する。
『人形』にも分かったんだろう。バールの主張が的を射ていること。わたしに、ルルを救ってほしいという『人形』の願いを断る理由などないこと。
再びわたしを見つめる『人形』の眼差しは力強く、自信がこもっていた。
「お願いします、ナンシェさん。私はどうなっても構いません。どんな条件でも呑みます。だから、和幸くんを助けてください」
「ナンシェ。バールの言う通りだよ。ナンシェの使命はルルを守ること。かずゆきも、そして、『災いの人形』もまだルル。ナンシェには救う義務がある」
背後からの諭すような天使の声に、逃げ場を絶たれたような気分だった。
分かってる。『人形』の恋人は、『裁き』に巻き込まれただけのルル。助けてあげたい。会ってみたいとも思う。ここまで『人形』を虜にしたルルがどんな男なのか、知りたい。リストちゃんとも知り合いだったという彼と、話してみたい。
でも……でも……。
「できません」
わたしは『人形』から視線を逸らし、力なく答えた。
「わたしには……できません」
ぐっと握りしめた拳は、小さく頼りなく、ただただ惨めなだけ。こんな拳に、なぜ、希望を……神の剣を託したの、リストちゃん?
「どうして……? どうして、助けてくれないの?」
悲痛な『人形』の問いかけに、わたしは言葉が出てこなかった。
答えられるわけない。言えない。よりにもよって、『災いの人形』に弱みを知られるわけにはいかない。
「彼が私の恋人だから? それとも……彼がクローンだから?」
「違……!」
急に、『人形』の声色が変わった。ぎくりとして顔を上げたわたしは、『人形』と目が合い、言葉を失った。
ぞっと背筋に寒気が走った。凍らされたように身体が固まり、動かない。
さっきまで、あんなにも哀しみ、怒り、子供のように欲望を表に出していた『人形』から、感情といえるものが消え去っていた。血にまみれ、無表情でじっと私を見つめて佇んでいる。それは、『災いの人形』という名にふさわしいーーわたしが想像していた通りの『パンドラ』の姿だった。
「この世界は、彼を救ってはくれないのね」独り言のように、『人形』は淡々とつぶやいた。「この世界は、救う命を選ぶ。そんな世界だから、彼は私に託したんだ……最期の願いを」
「なにを……言っているの?」
「彼を救えないというなら……せめて、私は、彼の願いを叶える」『人形』は生気の感じられない瞳で私をじっと見つめて言った。「この世界を滅ぼします」